落合進・2

 「落合、煙草一本くれない?」


 いっちが大学に行って数分後、ベランダの向こうから声がした。このボロアパートにおいて、プライバシーなんてものは無いと考えた方が良い。嫌々網戸を開けてベランダに出ると、物干し竿に下着やらTシャツやらを干しっぱなしの中野麻衣と目が合った。二つの部屋を隔てる柵はいよいよ柵としての機能を失い、へし折れて簡単に向こうの部屋まで見える。ピンクのスリッパを履き、銀の安い灰皿を足元に置いて、中野はお願いと手を合わせた。

 パンツ見えてるよ、とは言わない方が良いんだろう。余計な波風を立てないためにも。

 中野は隙だらけのだらしない女で、部屋に男は連れ込むわ、夜中に突然泣き出すわで、かなり面倒な隣人である。もう片方の隣人、いっちは可愛いもので、遊びたくない気分の時は「気が乗らない」と素直に突っぱねれば折れてくれるし、さっきの学生証の件だって深追いしてこなかった。

 それに比べて中野はいつでも話しかけてくる上に、いつでも下着を干している。前髪を雑なピンで止めて、ライターを握りしめる茶髪の女は、顔立ちだけを見ればかなり整っている方だろう。それだけではない、胸は推定Dカップ(いっちと話しあってほぼ決定した)で肌も白く、顔も小さい。ただ、これまでの不幸な人生が、彼女の雰囲気というか、オーラというか、なんとなく不幸せそうな気だるい空気を隠しきれていない。中野と居ると、不幸が移りそうだった。


 「ふあぁ、やっぱセッターよねぇ。色々吸ったけど、セッターに落ち着くのよね」


 そんな中野と、僕はこの羊山荘において、セットで扱われることが多い。

 まず最初に言い出したのは、大家の息子、羊山幸一だっただろうか。中野と落合で、東西線じゃないか、と。当時九州の田舎から上京したてだった僕は、東京を走る電車の種類の多さに混乱していて、えっと、東京メトロっすよね、それ、みたいな事しか言えなかった気がする。中野も中野で北の田舎から上京したてだったので、中央線に繋がるんですよね、高円寺に最近行ったんです、とかなんとか言っていた。東京を乗りこなして一年、東西線に揺られていると嫌でも中野を思い出す。僕は、中野がけっこうかなり、上位の方で嫌いだ。

 あと、吸っている銘柄が偶然被ってしまったこと。そのせいで中野は、お互いが部屋にいる時間には、頻繁に僕に煙草をせびりにくる。

 羊山荘は全員が喫煙者である。いっちがゴミ捨て場の前で変なメンソールを吸っているのは日常的に見かけるが、赤川さやかが喫煙をしていることを知っているのは、実は僕しか居なかったりする。さやかはセーラムのライトを開けて、「中野さんって、どうしてあんなのを吸うのかしら」と見下すように言っていた。男の影響だろと僕が返すと、さやかはニッコリと笑って、本当に不幸なのね、あの人、と煙を吐いた。


 「あー、死にたい、死にたい、だって今日も授業行けなかったんだもん、起きたら午後だったんだもん」


 贅沢な悩みだよな、と僕は思う。

 中野たちの大学に入れていたら、僕は少なくとも中野よりは、真面目に勉学に励む学生だったであろう。中野も、いっちも、僕も、地方では有名な進学校の生徒で、似たような青春を送ってきている。同じくらい頑張ったのに、僕だけかすりもしなかったなんて、こっちが死にたくなるじゃないか。


 「行けよ、留年すんぞ」

 「正直それもいいかなって思う。大学は人生の夏休みでしょ? 三十歳くらいまで大学生やってたいのよ、私」


 ふー、と中野は煙を吐き出した。せっかく外に干した洗濯物が、煙草の香りに変わっていく。

 中野は、全てにおいてナメていると思う。人生のそのものでさえも、「頑張る」という姿を一切見せず、かといって隠れて努力しているわけでもない。プライバシーが筒抜けなこのアパートで、隣人として彼女を一年間見てきたが、まるで生きる気力そのものが元から無いような人間に見えるのだ。それが更に僕をイラつかせる。なんで僕が落ちて、こいつが受かったんだと顔を合わせたり、話をする度に思う。


 明日死んでも別にいいや、くらいの感じで生きている、だって本当に死ぬかもしれないでしょ。いつか、飲みの席で中野は言った。

 刹那的な快楽しか享受できない、狂った人間の台詞だと思った。僕は適当に相槌を打ち、中野は「ちゃんと聞いてよ!私、死ぬんだよ!」と顔を真っ赤にして怒る。両極端なことしか言えない女だな、やっぱり僕の方が何倍も頭が良いなと思った。去年の十月くらいのことだった。

 ちょうどその頃だろうか、二〇四に住む赤川さやかの秘密を知ってしまったのは。中野やいっちにぶつけられないこの感情の、捌け口を見つけた。

 さやかはしょうもない素人モノに転々と出演する、AV女優だった。

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