落合進・1
僕の長所として器用であること、短所として器用貧乏であることが挙げられると思う。
羊山荘の二〇二号室。壊れた扇風機を、物干し竿でつつく。ひっくり返って大回転すれば面白いのに、それは死体のように横たわったままでいる。
しばらくして、来客を知らせる鈴の音がした。レポートを一緒に消化してくれと言って僕の部屋に来たいっちのカバンには簡素なパスケースが下げられていて、羊山荘の位置から一番近い私立大学までの駅名が記載された定期券が入っている。一々うざったいんだよ、と内心悪態をつく。
「よーこそ、なんもないけど」
「おっちの部屋は涼しいやろ、俺の部屋よりも」
なんでこいつ、北日本出身なのに関西弁を使うんだろう。僕がいっちと呼んでまあまあ仲良くしている方の人間、一倉洋輔はご丁寧にぺこりと頭を下げた。僕としても、そのくらいの距離感の方がありがたかった。初夏の夕方、気だるいスウェットと、安い煙草の香りだけまとって、隣人はやって来た。
どうせレポートなんかやらないから、好きにすればいい。扇風機と一緒に倒しておいたアコースティックギターを手に取り、布団にあぐらをかいて適当に弦を抑える。間の抜けたコードの連続は、自分の隙を隠すにはちょうど良かった。流行りの歌を口ずさみ、僕の机で勝手にレポートを広げ始めるいっちが、ちゃんと「いっちの課題をやってること」だけを確認して、僕はまた歌い始める。
僕は簡単に言うと、羊山荘の他の人間より頭が悪い。
……受験は頑張った。浪人も考えた。しかし、田舎には妹も弟も居て、更にはニートの兄もいる。僕が何とかしなきゃ、落合家は名前の通り落ちておしまいだ。別に裕福でもないのにぽんぽん子供を産みまくった結果、進と名付けた息子はこんな所で止まっている。自業自得だ。
「落合くんは、成績も優秀で生活態度も良くて……」
錆びた中古のギターは、特に何か特定の音楽だけを奏でることも無く、隣部屋の中野が流し始めたスピッツに簡単に変わり、「楓」の歌い出しをなぞる。この高くも低くもない声を、好きになってくれた人は居ない。
中学生の時、好きだった子もスピッツを聞いていた。その子とは違うクラスで、受験前の補習で初めて一緒になったのだが、第一志望の高校が偶然被って少し仲良くなった。容姿はこのアパートの住民である中野や、さやかに比べたらパッとしない地味な子だったが、性格は誰よりも真っ直ぐで、努力を怠らない子で、もちろん第一志望の高校に合格した。
僕は夏頃から成績が第一志望の学校を受けるには少々芳しくないことになり、両親と学校の先生と話し合ってひとつランクを下げた。「ここなら勉強しなくても受かるだろう」程度の場所を選び、その結果モチベーションも無くなり、好きな子と話す機会も全く無くなった。惰性で入った第二志望の高校は楽しくなくて、絶対に東京の一流大学に入ってやる、と一年の一学期から思っていた。
「なんか足りないんだよね、君。別に嫌いじゃないの。むしろ良い人だと思ってる。でも、なんかね、良い人止まりなんだよね」
今日はやたらと暑く、熱気が首元までまとわりついて気持ち悪い。ついでに少し前に、サークルの女に言われたことを思い出す。こっちだってお前なんか良い人止まりだよ、と言い返してやりたかったが、できなかった。僕は良い人だから。
アルバイトの面接なんかでも、僕の履歴書を見た店長は、「これ、どこにある大学?」と平気で言ってくる。このスーパーからチャリで二分の大学を、彼は知らないらしい。僕だって受験に落ちるまで知らなかった。いわゆる、首都圏の私立大学の大きな括りにも属せず、学部の名前がやたらと長い、なんの自慢にもならない学校。周辺には誰もが認める立派な私立大学があり、いっちや中野、さやかはそこの生徒だ。
三人とも、僕がそんな大学に行っているなんてことは知らない。当たり前のように同じ大学の同級生として接してくる。単にこいつらの大学の規模が大きいから、この辺の大学生はみんなあそこの生徒だろうという認識なのだ。
僕の中のしょうもないプライドは、とうとう一年経っても「実は違う大学に通っている」と三人に打ち明けることを許さなかった。持ち前の器用さでかわし切っていればどうせバレないんだし、こんな奴らに下に見られたくない。このまま退居の時まで嘘を突き通すつもりだ。僕が弱みを握っているさやかはともかく、中野といっちにだけは誤魔化し続けなければならない。何気ない会話の端々でボロを出してしまわないように、僕は羊山荘の人間とはあまり深く関わらないようにしている。唯一の同性であるいっちも、向こうは友人だと思っているかもしれないが、こちらは秘密を隠しながら付き合わなければいけない隣人でしかない。
そんないっちは、ふああ、と欠伸をして腕をのばし、ぱきぱきと関節を鳴らしたあと、思い出したように僕に話しかけてきた。
「そうだ、おっち。今日だけ学生証貸してくれへんか? 俺、図書館に用事あるんやけど、学生証コピー機の中に忘れてきてもうてさぁ、コンビニに取りに行かなあかんねん。今からあっち方面行くのだるいし、今日だけ……」
「中野に借りろよ、僕も持ってない。友達に、僕の学生証で代替出席してもらってるから」
羊山荘の人間と居ると、こういうことを頼まれる時が頻繁にある。だから面倒だなと思う。
咄嗟に出た言い訳は、思いのほか強い口調になってしまい、見るからに不自然だっただろう。しかしいっちは、「そっかぁ、んならマイちゃんに借りるわ」とあっけらかんとしている。
さらに気温は上がってゆく、ボロアパートの一室。僕はなんでこんなに、繊細に気を遣って生活しなきゃならないんだと、呑気そうないっちを睨んだ。
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