中野麻衣・6

 「何しに来たの、こんなとこ」


 パチ屋は通常、会話をするにはうるさすぎる。店を出て、しょうもない景品の炭酸ジュースを飲みながら、私は一倉を見上げた。


 「偵察や、暇やし」

 「あの民俗学は」

 「休講なった」


 よって俺全休、と空いた右手で私に向かってピースする一倉。本当は二限から四限まであった私は、目を逸らして時間を確認する。二限はとっくに始まっていた。


 「ねえ、こんな町、二人で抜け出そうよ」


 つまらないから、スマホを閉じて人混みの方を見て、用意された台本を読むみたいに私は言う。

 最近、どうせ私は今夏に死ぬから、死ぬ前に言っておきたいセリフみたいなものを並べるようになった。

 長身の男はペットボトルの蓋をしめ、真夏の下で悪戯に笑みを浮かべる。彼も演劇サークルで、少々ポエミックな面があるのを、羊山荘の面々は知っている。


 「どこに行くん、大阪か」

 「抜け出すって、東京駅まで一緒に行くだけ。あんたが大阪に行くなら私は北海道。あんたがオセアニアに行くなら私はヨーロッパに行く」


 炭酸がゆっくり体に染み渡っていくのを感じ、更には夏の魔物にやられるとこんな台詞まで出る。おかしいな、何にも酔ってないのに。もちろん私と一倉など、同じアパートの住人というだけの関係だ。男二女二の環境ではハーレムも逆ハーレムも生まれず、私を含めた四人はそれぞれ外部で恋愛をしていた。いつか連れてきた、本当にお茶だけして帰った赤川の彼氏、身長高かったな。でもこうして見ると一倉の方が高いかもな。


 「好きにせえや、俺は大学に行く」

 「じゃあ私は家で寝てる」


 炭酸のしゅわしゅわ越しに見る太陽は、眩しくて、眩しすぎて、味のしなくなった私の青春など簡単に焼き殺されてしまう。

 成金セレブの巣窟、二子玉川の隣にある我が町は昼になるにつれて賑わいを増し、ベビーカーを引く綺麗なお姉さんや、帽子を被って茶色のランドセルを背負った小学生が行き交っていた。今日って午前授業になるような日だったっけ。終業式やろな、と呟いた一倉の、膝より少し上くらいの背丈しかない学童が、ぱたぱたと楽しそうに街をかけていく。


 「煙草、要らうか」

 「……だからさ、私メンソール嫌いっていつも言ってるじゃん」


 きらめいた大通りも、一つ角を曲がるとただの住宅街になる。煙草を吸うために、高さも大きさもばらばらの建物の影に入ると、とたんに世界は静かになった。東京のこんなに狭い町に私たちは詰め込まれている。戦後急速に都市化が進んだ土地であるここは、元はただの田んぼで、特に若者が惹かれるような歴史もない。利点といえば渋谷や下北沢が近く、他に挙げるとするなら三軒茶屋も近い。あのアパートもこのマンションも、地方から来たしょうもない田舎者が下から上まで占拠しているのだから、高円寺や原宿などキャラクター性のある町にもなれず、ただ人々を収納している。

 一倉は羊山荘の人間にやたら詳しいくせに、「中野麻衣はメンソールの煙草を吸わない」ということは一向に覚えてくれない。これが落合だったらさほど気にならないのだが、毎朝古箒を持って掃除をして、住民の時間割まで把握している男が、いつまでもいつまでも私の銘柄を覚えないことに疑問を覚えずにはいられなかった。


 「ずっと勧めてたら、いつの間にか吸い始めるんかなと思って」

 「やだよ、ガムでも噛んでなよ」


 私、メンソールの煙草吸う男が一番嫌い。

 そう吐き捨てて、数秒沈黙が流れる。言いすぎたかもと口を塞いだ。私が本当に嫌いなのは、カラフルなヘアピンをしている男や、インスタグラムのストーリーを更新しすぎて上の線が点々の並びになっているような男だ。そういった男はメンソールを吸うのが私の中の偏見のひとつとしてあるのだが、それはさておき、別に一倉は一番嫌いな訳ではない。元彼一、元彼二、元彼三に比べたら全然マシな人間だ。


 ごめんなあ、と聞こえてきたのは私よりも小さな声。

 そしてそれは、第三の人間、我がアパートの実質大家である男の登場によって掻き消される。

 羊山だと身構えた時には遅かった。


 「住民のキミたち、いやボクもだが。昨日は少々、騒ぎすぎじゃあないのかい?」


 退屈なこの町にも、まだこんな人間はいる。私たち二人の前に颯爽と現れ指パッチンをした、身なりはそこそこ適当な男、羊山は、神出鬼没の怪異の様に存在していた。

 今日はいろんな人間に会うが、こいつまで出るとは。始まってもないが、終わってはいる。


 怪異、羊山。下の名前は誰も知らない。

 人もいない住宅路の真ん中で、私たちは急に訪れたアドリブに、立ち尽くすことしかできなかった。

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