中野麻衣・4
「香水、また変えた?」
「そう! 中野さん、気付いてくれたのね。ありがとう!」
赤川さやかという女は、私が仮に闇だとした場合の光、北だとした場合の南であり、ここで出会った当初から今まで、まったく合わない。合ったことがない。合いたくもない。
「お似合いで。こっちはゲロ捨て帰りのゲロ女ですが」
「そうなの? 昨日飲みすぎたのね、大丈夫? お水取ってこようか?」
「いらない、風呂行くし、赤川はさっさと大学行って友達とわちゃついてなよ」
まず、赤川みたいな女がなぜこんなボロアパートに住んでいるのかがわからない。
流行りのメイクにシースルーの可愛い前髪。ゲロまみれの私を見下すかのような甘い香水の匂い。真っ赤なリップにはブルベの透き通った肌がよく似合う。ヒールを履いて、ヒラヒラのスカートを風のようにまとって。いかにも箱入りのお嬢様、実家暮らしかタワマン在住って感じなのに。
私は彼女のその、光り輝くオーラみたいな一軍のきらめきを、崩れかけた羊山荘の屋根の下に出来た影で命いっぱいかわしている。あと、自分で言っといてなんだけど、わちゃつくってなんだよ。私が欲しいのはお前が持ち歩いてる常温の良いお水じゃなくて、共同トイレの手洗い場に設置されてる不味い都会の、一応冷えてはいる水なんだよ。買いに行く元気とか、金とかないし。
軽いヒールの音を鳴らして、下にいる一倉にご挨拶。私はベランダに寄りかかってふたりを見ていた。赤川に話しかけられて、なんだか一倉も嬉しそう。ゲロ女より香水付きの美女の方が可愛いのは目に見えて明らかなのに、ああ、ムカつくなあ、赤川さやか。
「おばちゃん、タオル忘れてんよ」
「ありがとねぇ、麻衣ちゃんは、優しいねぇ」
なんとなく二度寝ができず、顔を洗って換えの服と下着とバスタオル、それとシャンプーとリンスのセットを持って銭湯に向かった。渋谷まで数駅とはいえ、この辺の住宅街は建物を無闇矢鱈に置きまくった田舎である。ただ、その中にも大当たりのお店があって、大正浪漫を感じる喫煙可能の喫茶店とか、この昔ながらの戸を引いたら「男湯」「女湯」の暖簾がすぐあるスーパー銭湯とかが真っ先に例に上がる。無愛想なおばちゃんが真ん中に座って、一人で金銭のやり取りをしているようなところだ。女湯の扉に入った私は財布から小銭を取りだす。壁越しの男湯でも同じようなやり取りが行われていた。ここは小銭を投げすらすれば自由勝手にしていい場所なのだ。
こんな時間でも、おばちゃん達は集まって、安いサウナに入ったり皆で情報番組にヤジを飛ばしたり、鏡を睨みながら入念にスキンケアをしていたりする。
私のような若い客は、あまり見たことがない。この辺の物件は軒並み風呂付きだからだろう、家賃六〜七万くらいのユニットバスがあって、壁も床も壊れてないアパート。こちとら、トイレすら共同なのに。ボディーソープで体を洗い流し、洗顔料で浮腫んだ顔をほぐす。頭の中の赤川が、「そんなことしても、素のいい女には勝てないのに」と笑う。なんか対抗出来そうなのは、六年使っている、ドンキで売ってない高級シャンプーとリンスだけ。洗い流す、体も髪の毛も綺麗になる。でも顔は綺麗になれない。評判のいい洗顔料を使っても、小顔ローラーを使っても、私の顔も存在も、全然綺麗じゃない。
「麻衣ちゃんは賢いんだねぇ、偉い大学に通って」
置き忘れていたタオルを、マッサージチェアに腰かけているおばちゃんに届けた。今の私は比較的まともだし、お風呂入りたてでいい香りなので人に話しかけても問題無し。おばちゃんはにっこり微笑み、目じりにくっきりしたシワが浮かぶ。どれだけシワだらけになっても、この人は嬉しそうに笑うんだろうと思った。
「そんなことないですよ、私も含めみんなみんな、バカなんです」
扇風機の向きが変わったのか、風でびいどろの風鈴がからんからんと揺れた。
来年の夏には、私はもう居ない、予定だけれど。
さっきの報道も終わり、おばちゃん達が料理番組に向かって「絶対三分で出来ない」と怒っていた。私もこんなふうに生きて死にたいものだわ、と思いながら、便所スリッパで店を出て煙草に火を灯した。煙はくるくる周りながら晴天の空に昇っていく。せっかくいい香りになったのに、今度はヤニまみれになっていく。乾きたての髪がぬるい風に揺れ、向いアパートの階段の踊り場では野良猫がごろんと転がっていた。
帰り道、またその猫に偶然出くわした。野良猫はこの辺の住人、それこそさっきのおばちゃん達みたいな人らに可愛がられているのか、まるまると太っていて人馴れしていた。
自分もけっこう好き勝手生きてるくせに、「おまえは自由でいいなあ」と言いながらしゃがみこむ。
猫はきょとんとした目で私を見たあと、飽きてしまったのか、別の物に惹かれたのか。何も無いところに向かってにゃあ、と鳴いて、もさもさのしっぽを揺らしながら去っていった。
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