中野麻衣・3

 目が覚めたのは朝の十時過ぎで、二日酔い特有の気だるさと頭痛に襲われる。気持ち悪い、吐きに行こうと立ち上がろうとしても、寝起きの体は布団から離れてくれなくて、結局その辺にあったゴミ箱を掴み取ってその中に吐いた。吐瀉物でべたべたになった髪が頬に張り付く。爽やかな朝です。

 落合のやつはちゃっかりしていて、きちんと大学に行ったようだった。壁の向こうから何も聞こえてこないということは、つまりそういうことである。下手すれば隣の隣まで音が聞こえるこの物件は、生活音のひとつでさえ気をつかって、ひそひそ行動しなくてはいけない。こういう時、私は角部屋かつ、隣の住人も落合というとことんマイペースで人のことを気にしない男で良かったと思う。もし二〇二の落合と二〇三の一倉が入れ替わっていたらと思うと、それだけでまた吐きそうになる。


 「うーわ、ゲロくさいなあ」


 外はぽかぽかとしたちょうどいい晴天で、太陽の眩しさも気温も心地よかった。

 ジャージに適当なTシャツを着た長身の男が、古臭い茶色の箒片手に私を見る。地面に捨てっぱなしだった煙草の吸殻とか、どっかから飛んできた変な色の葉っぱとかが、綺麗にちりとりに収まっていた。


 「はいゴミ、これもお願い」

 「朝八時までに出せって言うとるやろ、いつも」


 なんでこの人、北日本出身なのに関西弁使うんだろう、と首を傾げる。彼が一倉である。

 ゲロは六時までや、とゴミ袋を受け取り、収集スペースに投げ捨てる。お母さんみたいだな、と思う。演劇サークルで、真面目で、綺麗好きな男。

 羊山荘にゴミ捨て日の概念はなかった。好きな時に出して、気づいたら消えている。一倉はその無秩序状態にイラついたのか、はたまた出したゴミがいつのまにか消えているシステムに疑問を持ったのか、朝の授業がない日は決まって掃除をしていた。

 「なんか変なやつが集まるとこ」こと羊山荘のことだ、多分後者の線が強いと私は睨んでいる。偶然大学で会った時、古代民俗学だかなんだかの、変な授業の資料を持っていたからだ。あとで聞いたら履修者は定員割れどころか、真面目に行っているのは自分と他に四人くらいだと言われ、ぽかんとしたのを覚えている。変なやつ、という言葉が羊山荘で一番似合う。


 「今日はおっちが一限からで、マイちゃんは二限……行く気ないやろ、もう」

 「なんで把握してんのよ、怖いわ」


 すらすらと、まるで自分の予定を話すように流暢な口調で彼は喋る。

 おっちこと落合は、やはり私の予想通りちゃっかり一限に行ったらしい。そして私の二限は完全アウト。今から風呂に入って、着替えて化粧して、となると絶対に間に合わない。一倉はどうなの、掃除とかしてる場合なの、と聞いたら、「俺は四限」と、にやりと笑われた。そうだった、確か今日はあの気持ち悪い民俗学の日だ。


 「あー、だる、私二度寝する、やってられないわ」

 「風呂は行っとき、ゲロくさいから」


 そんなに女相手に臭い臭い連呼しないで貰いたいものだが、何も言い返せない。黙って煙草を吸おうとして、だるだるになった半ズボンのポケットをまさぐるが、布団の中に置いてきたのか何も入っていなかった。


 「煙草? 要らう?」

 「いらない、私メンソール嫌い」


 運が悪い。くるりと背を向けて、古錆びた階段を登り始めた。この階段だって、こんなに身軽で華奢な女相手に、そこまで嫌な音を立てて軋まなくてもいいじゃないか。二階、自室はすぐそこにある。風呂に入りに行く前に顔だけ洗ってもうひと眠りしよう、と考えてドアノブを握ると、高くて可愛らしい声が私を呼んだ。


 「あら、中野さん!」


 運が悪いポイント加算。きっと今日の星占いは最下位なんだろう。

 同じ身軽で華奢でも、階段を軋ませないタイプの女が、ここには一人住んでいた。最悪の遭遇に、思わず「げ」と声に出してしまう。

 高いヒール。くるんと巻いたミルクブラウンの髪。ひらひらしたワンピースを身にまとい、目じりには流行りのコスメの細かいラメが光る。同じ女として、「強い」のが一瞬でわかるやつ。

 彼女、赤川さやかは、今すぐにでも崩れ落ちそうなおんぼろアパートにはとても不似合いで、出来のいい合成写真みたいだった。

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