中野麻衣・2
吸い終わった煙草の死骸を地面に落とし、便所スリッパで踏みつぶす。火はじんわりと消え、最後の煙が息絶えた魂みたいに目の前を掠めた。夜の濃青に灯っていた小さな赤が消える。
死んだらこんな感じなのかな、と思う。
ゲームでよくあるような、しに状態のキャラクターが体からふわふわと魂を飛ばし、消えていくやつ。ゲームはリセットすれば生き返るが、現実はそうでない。この煙草みたいに、じりじりと命の残り時間を削り取られて、根元まで味わったら炎を消してさようなら。儚いし、虚しい。
落合は急に黙った私には見向きもせずに、スマホを取り出して弄っている。別に画面を覗き込むつもりは無かったが、暗い自転車置き場の中で光がつくとそっちに目がいってしまうのは当然みたいなもので。ちらっと見えた画面はLINEで、落合は片手でタップしながら何件か溜まっていた連絡を、「了解」とか「その日は無理」とか、淡白な文で返していた。
「私、部屋に戻る」
煙草を吸ったら、もうここに用はない。立ち上がってライターをポケットに放り込む。落合も私と話したいことは無いらしく、画面を見たままこくりと頷いた。長い前髪のせいで、表情はなにも見えなかった。そのきのこみたいな、バンドマンみたいな髪型、やめたらいいのに。
水色の塗装が剥げて、悲惨なことになっている階段を登る。きしきしと嫌な金属音が夜に響き、今にも崩れ落ちてしまいそうだが、私にしたらもうそんなものは慣れっこで、早く自室で眠りにつきたかった。二〇五の後始末は落合に任せるとして、別のポケットから古錆びた鍵を取り出す。
私の部屋は二〇一。もちろんオートロックなど付いていない。田舎の両親の反対を押し切っての上京だったので、仕送りも乏しいし大半の生活費は自分で払うことになっている。そうなれば、住む場所の家賃は安ければ安いほど良い。一人娘をこんなところに住まわせるなんてとは思うが、自分で決めた人生なので仕方がない。私はとにかく、あの閉鎖的な田舎には居たくなかった。
あー、自分の部屋。二〇五と同じくらい散らかっているが、片付ける元気もないし、どうでもいい。山積みになった小説、布団の隣に置いてある元彼から貰ったぬいぐるみ、どれもこれも捨てられないのだ。さて、二日酔いが悪化しないためにも、余計なことはせずに寝るか、とつけたばかりの電気を消す。そしてなけなしのバイト代で買った、高円寺の雑貨屋で見つけたお気に入りのランプにスイッチを入れる。布団の下から日記帳を取り出して、死にかけの蛍のようにぼんやりとした光の中、日課である「遺書の更新」をしようと思った。
私は死のうと思っている。できれば、今年の夏休み中には。
物心ついた時から漠然とあった希死念慮は成長していくにつれて肥大化し、私の中で制御が効かなくなっていた。首吊り自殺を決行しようとして失敗した日、母は泣きながらボロボロの私を抱きしめてくれたが、お母さんがそんなに悲しい思いをするのなら、そうやって泣くくらいなら、最初から私なんて産まなきゃ良かったのにな、と考えていた。まるで他人事だ。
通院して貰える薬は付け焼き刃に過ぎず、悪化する不眠と、眠れない夜に決まって訪れる希死念慮。死んだらこの頭痛から開放されるのだろうか、と頭はぐるぐる広い宇宙を回る。記憶は制服を着ていた学生時代まで遡る。卒業文集で、将来の夢を書く欄に困った。おそらく将来なんてないからだ。
「でも、私ももう二十一だよなぁ」
真っ白なシーツにうつ伏せになって、意識もはっきりしないまま、日記帳にボールペンを滑らせていく。
針金で丸く地球をかたどり、その中に金平糖をまぶしたようなランプの光に反射した、変な顔の自分と目が合ってぎょっとした。
私ってこんなんだったっけ。酔っ払っているせいか、それともランプが古いせいか、ぐしゃぐしゃに歪んで気持ち悪い。私は生まれてから今まで、ずっと平均点よりちょっと少ないくらいの人生だ。顔も、勉強も、運動も。しかし憧れとプライドだけは変に高く、読みもしない純文学を本棚に並べ、夏休みの読書感想文では一人だけ課題図書ではなくフランツ・カフカの「変身」で書いた。ああ、思い出してまた死にたくなってきた。同級生たちの冷ややかな目と、国語教師の「こういう時期って誰にでもあるからね」とでも言いたげな顔、全部私が悪いのに全員殺したくなる。
恥の多い生涯を送ってきたとは思う。
中野麻衣、二十一歳。日記という名の遺書を更新しながら、夏休みには決行するから、夏休みまではこの日記も完結させなくては、と、うつらうつら考える。
今まで私の逃げは「東京」にあった。上京してリセットすればやり直せる。今までゴミみたいな人生だったけど、都会に行けば分かり合える人は沢山いる。ていうか田舎ってサブカルチャー好きが生きていくには厳しすぎない?ずっと日陰で生きてきた。東京に行けば毎日が趣味三昧、満喫し放題。更には私立の大学生ともなれば、四年は遊んで暮らせる。そんな幻想を抱いてやってきた私をわずか三日足らずでぶち壊してきた、東京。
何もかもを私よりずっと高いレベルで保持している人達が集まり、こんな狭い街に無理やり作った家で暮らしている。日陰者はどこに出ても日陰者だった。学校に文芸部が無かったという理由でずっと憧れていた文学サークルに見学に行って、中学生の時読書感想文で、と話したらやっぱり笑われた。神保町を走り回って、唯一人に自慢できそうな、価値があるとひと目でわかった、竹久夢二の直筆書籍は高すぎて買えなかった。
田舎がだめなら東京。東京もだめなら、海外。無理無理、だってちょっとだけ自信がある分野、五角形でひとつ抜き出てるのは国語だもん。英語なんて話せないし、TOEICも受けたことが無い。英検は準二級。
海外もだめなら、違う世界。宇宙とか、未来とか、なんかそんなとこ。で、たどり着いたのは「死」だった。だって生きていたくなんかないし。生きていて楽しいことなんて酒と煙草くらいしかない。人生の夏休みだと信じてやまないこの四年間が終わったら一生労働だ、そんなもんは嫌だ、芸術家になりたい、なれないから死にたい。
「……ケンタロウ、なにしてんのかな、今」
ペンを置いて、ごろんと布団に転がる。落合が部屋に戻ったのか、隣の部屋から控えめな物音が聞こえてくる。ここの壁は障子みたいに薄い。
実家暮らしの元彼が私の部屋に来たがって、もちろんこんな狭くて汚い部屋には呼べなくて、揉めて、結局私が折れて、二〇一に人を呼んだ日。元彼はセックスが終わったら出ていった。次の週、別れを告げられた。おんぼろアパート民の反応はもう散々で、連れ込んでんじゃねえ、うるさくてゲームもできなかったわ、と空いた酒缶を投げられた。
自省は夜中を越えて朝方まで続く。既に、その日の授業に行く気はなかった。
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