月をみていない

三森電池

中野麻衣・1

 煙草の煙があまりにも幸せそうにくるくる回って空へ登っていくものだから、明日は生きてみることにした。

 世田谷区、おんぼろアパート二〇五号室、人間三人撃沈中。久しぶりに集まったこともあり、近況語りにボードゲームにと騒いでいるうちに日付はとっくに超えてしまい、現在時刻は午前三時にさしかかろうとしていた。こりゃあ明日の二限も怪しい。諦めた方が賢明、自明の理。


 「羊山にまた怒られるんじゃないの」


 パタパタと鳴る便所スリッパの音と共に、落合がやってくる。彼は煙草もライターも持っていないくせに、このアパートにおける喫煙所である、自転車置き場に降りてきた。私の分をたかろうとしているんだろう、セブンスターを一本引き抜いて、ジッポライターと共に渡す。背丈がそう変わらない私たちは、銘柄もそう変わらない。夜の青に、薄い灰色が滲みだした。


 「気が利くじゃん」


 ありがとうの一言くらい言えばいいのに、と思うが、恐らく彼は「ありがたい」なんて一ミリも思っていないだろう。夜空には煙がふたつ。落合はゆっくりしゃがみこんで、シャボン玉を飛ばすようにふーっと吐き出す。二〇五は古いレコードがガンガン流れ、テレビはお笑い芸人の地方ロケDVDが延々と放送され、それは時々ミスチルのライブになって、誰かが持ち込んだインドの怪しいお香は炊かれていて、の無法地帯。そこから逃れた静寂の地は、夏だけど少し冷たい夜の中。……耳をすませばあの部屋のガンガンが、聞こえてこないこともないけれど、自転車置き場は酔いをさますにはちょうどよかった。


 おんぼろアパートこと、羊山荘。世田谷線沿い築五十年。一階に誰かが居るところは見たことがない。住んでいるのは、地方から上京してきて、この辺の同じ大学に通う大学生四人と、大家の息子を名乗る羊山という男のみ。風呂なし、トイレ共同、家賃三・五万。もちろん喫煙不可。いちいち自転車置き場に集まっては、煙も愚痴も痰も吐く、二階建て。

 田舎では当たり前のご近所付き合いが東京では殆ど無いと言うのは有名な話で、マンションの隣の部屋の人と鉢合わせても挨拶さえしない、というのが都会のルールだと思っていた。しかし大家の息子を名乗る羊山がまた変わった男で、二〇一から二〇四までの全部屋を大学生が借りていることを知ると、「上京おめでとうパーティーだ」とか言って、四人を空き部屋である二〇五号室に集めた。

 通っている大学は同じだけど、学部も性別もサークルも違う私たちは、最初こそ迷惑だな、と思っていた。羊山だけが「自分は上京してきた時、とても孤独を感じ、ホームシックのあまり三日目で実家に帰った事がある」など、「せっかくこんなボロアパートに大学生が入居してくれたんだ、仲良くなりたい」など、そういう感じの話をひとりでずっとしていて、無理やり集められた私たちは狭い部屋の中で、簡素なテーブルに置かれた柿ピーを気まずい空気で齧るだけ、だったけど。一ヶ月、二ヶ月、そして一年が経つ頃には、「フリールーム」と化した二〇五に、入居者たちが代わる代わる訪れては、酒を飲んだりゲームをしたりするようになった。


 「それにしても、今日は潰れなかったのな」

 「うん、なんか考え事してたらあんま酔えなかった」

 「……就活とか?」

 「そろそろ、そういうのだよなぁ」


 そういうのだよなぁ、って物凄く他人事みたいな言い方。隣の落合もあまりにも適当な私に返す言葉すら不必要だと感じたのか、何も言わなかった。初夏の暑さでおでこに張り付いていた前髪が、ひゅう、と夜風に吹かれて跳ね上がる。


 羊山荘の入居者は私、落合、一倉、赤川。そして時々、気まぐれで二〇五に来る羊山。今日はこの五人が揃ってしまったせいで、平日のくせに大騒ぎ。このアパートは大学生をダメにする、羊山はとんでもない悪人だ、と落合がいつか言っていた通り。でも、それぞれ地方から東京に出てきて、周りに頼れる人も居ないまま一人暮らしを始めるのは、私も含めみんなも不安だっただろうし、特に小中高と目立たないグループのさらに端っこに居た、友達の少ない私はこのコミュニティにかなり助けられていた。もっとも、東京に住み始めて一年にもなると、同じ学部とか、サークルとか、バイト先とか、外にも関係は広がり出す。でも私は、どこにもいまいち馴染みきれず、誰にも心を開けなかった。

 羊山荘は、私にとってけっこう大事な場所なのかもしれない、と思ってしまうまで、さほど時間はかからなかった。

 ほかの四人は知らない。こんなオンボロアパート早く出ていきたいって思っているかもしれないし、いつまでもこうやって人生の夏休みを遊んでいられる訳でもないし。


 「まあ、ぼちぼち将来とか、考える時よなぁ」


 だぼだぼのバンドTシャツを着た落合が、ぽつりと呟いた。

 彼は私と違って、人付き合いが上手いタイプだ。先輩にも後輩にも気に入られやすい。相手の懐に入って可愛がられるのがとことん上手なのだ。生きやすそうでいいな、と常々思う。本人はあっけらかんとしているけれど、単位もほぼフルで取ってるみたいだし、貯金だってそれなりにあるらしい。身軽な体で、うまく東京を生きている。

 私は、ここで煙草の煙を輪っかにして吐き出すことに失敗しながら、今年の夏休みの何日くらいに死のうかな、と思っていた。

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