第二話 みかんが好きな彼女の恋はじめ

 立花たちばなユイカはみかんが好きだ。

 まるっとよくれた、甘酸っぱい果物。

 どれだけ食べても飽きることのない魅惑の果実。


 ユイカはみかんを――食自体を愛していた。


 ただ、花の女子高生として暴飲暴食は、致命的な問題に発展しがちでもあった。

 有り体に言って、彼女はふくよかになってきた自分の身体に、危機感を覚えていたのである。


「食べても食べても太らなかった、あのころのあたしが妬ましい」

「子どもは無限動力を積んでるから。食べたぶんだけ全部消費されるから。あと、私はいっぱい食べるユイカのこと、好きだよ?」


 昼休み、お弁当を食べるためにくっつけた机の上に、だらしなく突っ伏したユイカへ。

 友人である桑森くわもりコノミは、慰めるような言葉を投げかけた。

 しかし、ユイカはそれが気に食わず、


「だって、コノミが美味しいご飯いっぱい作ってくるのがいけないんじゃん。元凶はコノミじゃん!」


 と、頬を膨らませ、唇をとがらせてみせた。

 事実、机上にはユイカが購買で買ってきたミカンパンのほかに、二つのお弁当箱がのっている。

 コノミが親友のため腕によりをかけた秀作だった。桑森コノミは料理を作ることに生きがいを感じている女子だった。


「じゃあお弁当、ユイカはいらないの?」

「それ、は……」

「ユイカの大好きなミカンと春雨のサラダもあるのに?」

「……もー! いる! いるよ、いーりーまーすー!」


 ガバッと跳ね起きたユイカは、友人が笑顔で差し出してきたお弁当箱を奪い取り、猛然と中身をかっ込みはじめた。


「ふふ。やっぱりそのほうがユイカらしいね」

「――でもさ、このままじゃマジでまずいと思うんだ、あたし」


 おっかなびっくり、自分の外斜腹筋のあたりをさわさわと撫でるユイカ。

 そこには柔らかい脂肪が乗っていた。


「ほら、これは、まずい」

「だったら、ダイエットでもする?」

「ダイエット。ダイエットかぁ……なにが効果的なんだろう」

「そりゃあ、有酸素運動」

「有酸素運動イズ何?」

「えっと……自分で調べて」

「むぅ」


 友人に促され、ユイカは携帯をポケットから取りだした。

 その拍子に、一房のミカンを模したストラップが、くるくると揺れる。


「それ。まだつけてるんだ」

「あたしのお気に入りだからね。かわいいでしょ?」


 ネコのように笑ったユイカは、ストラップを持ち上げてみせる。

 携帯とストラップを繋ぐひもは、ずいぶんと長い間役目を果たしてきたようで、いまにもちぎれてしまいそうだった。


「粗忽者のユイカがよく失さないものだと私は感心するよ。それで? いい運動はあった?」

「あー。やっぱり走るのが一番だって」

「ランニング?」

「そうそう」

「やるの?」


 コノミの問い掛けに、ユイカはすこし悩んでから、


「やる」


 と断言した。


「今日からやる。効果的って書いてあるし。うん。放課後……夜、走る」

「夜はまずいでしょ」

「あたしは大丈夫。門限とかないし」

「そうじゃなくて……うーん、うちはお父さん厳しいからなぁ……夕飯だって、私が用意しないと食いっぱぐれちゃうようなヒトだし……夜に出歩くのはちょっと無理くさいなぁ……」

「コノミはファザコンだもんね」

「今度言ったら、怒るからっ」


 机を叩いて抗議する友人を尻目に。


「でも、あたし走るわ。ひとりで、たぶん大丈夫だし」

「この、粗忽者の頑固者」


 忠言の一つも聞き入れず。そうしてユイカは、決意を固めた。


§§


「みかん、好きなんですか?」


 ユイカが声をかけられたのは、放課後の廊下でのことだった。

 振り返ると、夕焼けのなかにひとりの少年が立っていた。

 線の細い、その割に肌の焼けた少年だった。


「フィンガーライム」


 それは亜熱帯に実る細長い形をした特殊な柑橘類の名前で、少年を見た瞬間、思わずユイカの口からあふれ出ていた。

 色づいていながら細長い様が、彼女にはそう映ったからだった。


「えっと……?」


 少年は一度首をかしげたが、気を取り直したように、


「やっぱり、みかんが好きなんですか?」


 と、繰り返した。


「好きなのは好きだけど……どうして、そんなことを聞くわけ?」

「これ、あなたのじゃないかと思って」


 少年が差し出したものを見て、ユイカは「あ」っと声を上げる。

 彼女が大事にしているみかんのストラップが、彼の手の上に乗っていた。

 慌てて携帯を取りだして確認すると、ひもが切れていた。


「ひょっとして、拾ってくれた?」

「やっぱり、あなたのものだったんだ。素敵なストラップですね、ぼくもみかんは好きです」


 はいどうぞと差し出されたストラップを、ユイカはおずおずと受け取る。

 すると、少年はくしゃっとした笑顔になって、彼女の横をすり抜け、そのまま立ち去ってしまった。


「……あー」


 完全に少年の姿が見えなくなったところで。

 ユイカは自分がお礼の一つもせず、そして少年の名前すら聞かなかったことに気がついた。


「まあ、いいか。そのうちまた会えるだろうし」


 それに、また会えたらうれしい気もするしと少女は思った。


「うん。それよりいまは、帰って走る準備をしなきゃ」


 のんびりと。

 或いは大雑把に。

 彼女はそう考えていたのだが――


「…………」

「…………」


 走るためにやってきた夜の総合公園で。

 ユイカと少年は、再び顔を合わせていた。


 少年は気合いの入ったウインドブレーカー姿で、ユイカは適当に見繕った学校指定のジャージを身につけている。


「えっと……偶然、だよねぇ?」


 でなければ、この少年は自分の跡をつけてきたのだろうか。そんなことを考えて、ユイカの脳裏に、友人の警告が甦った。

 夜に走るのは危険だと、コノミはユイカに告げていた。

 その危惧が、迅速に形を成したのかと危ぶんでいるうちに、少年が口を開いた。


「こんな時間に、ここへ来るの。あなたは初めてですね」

「なんで、断定するの」

「……ぼく、毎日ここを走っているんです」

「え」


 仲間じゃん。

 ユイカはそんな気分になった。

 詳しく話を聞いてみると、彼――芦原あしはらリオは、自分の体付きにコンプレックスを抱えているのだという。


「昔からご飯を食べるのが苦手で、ずっとチビなんです。だから、せめて身体だけでも鍛えておこうと思って走っているんですけど」

「あー、じゃあ、あたしの逆だ。あたしはご飯大好きだし、痩せたいわけだし」

「このへんはそこまで治安悪くないですけど、やっぱり女の子がひとりで走るのは危ないと思います」

「きみ……芦原くんだって、危ないんじゃない? 女の子みたいだし」

「……いまのは、ちょっと傷つきました」


 リオが繊細そうに苦笑し、つられてユイカも笑う。

 突っ立っているのもなんだからと、ふたりで走り出して、そうして、どちらともなく提案した。


「ねぇ」

「よかったら」


「「これから一緒に、走らない?」」


§§


「いいわけあるか!」


 数日後の教室。

 そこには机を叩いて激怒するコノミの姿があった。

 彼女は親友の思慮のなさに呆れ果て、よよよと泣き崩れる演技までしてみせる。

 ユイカは呆れて、


「いや、コノミが怒ることじゃないでしょ」

「怒るよ! 大切な友達に虫がついたんだよ!?」

「虫はダメだよね、みかんにもカイガラムシとかアブラムシとかがついて味が台無しになっちゃったりして」

「そうそうあんたのみかんうんちくは安心する……じゃない!」


 コノミはユイカの肩を掴むと、ガクガクと揺さぶった。


「芦原リオ! 名前は知ってる! あんなやつ頼りないしダメだよ!」

「そうかなぁ」

「そう、絶対そう! 見た目からしてダンディズムが足りないし、ユイカが言うとおりなら、小食なんでしょ?」


 それの何がダメなのかとは、ユイカは聞かなかった。

 聞かなかったが、コノミは勝手に口走った。


「男はね、よく食べるぐらいがカッコイイの……! がたいがしっかりしてるのが魅力なの……!」

「趣味じゃん。趣味どころか、コノミのお父さんの話じゃん」

「ち、違う。違うから、そう言うのじゃ」


 顔を真っ赤にする友人を見て、ユイカはふむと首をかしげた。

 何が問題なのか、ユイカはユイカなりに考えた。


 箸をのばし、コノミの作った卵焼きを頬張り、咀嚼して。

 ばくばくとお弁当を食べながら考えて。

 けれど、結局は途中で思考を投げた。

 なぜなら、


「大丈夫だよ、コノミ。あいつ、たぶんいいやつだから」

「なんで」

「だって――みかん、好きだって言ってたから」


 みかんが好きなやつに悪いやつはいない。

 ユイカの言葉に、コノミは天を仰ぐのだった。


「それがダメなんだよ、ユイカ――」


§§


 そうして、いろいろなことがあって。

 結局ユイカとリオは、毎晩一緒にランニングをすることになった。


 リオの足は、その体格に見合わずずっと早かった。

 ちゃんとしたロードワークが初めてのユイカにとって、その速度について行くことは困難で。

 リオが気がついた頃には、彼女はヘトヘトになってしまっていた。


「あ、ごめんなさい」

「体力がさ、案外あるね、リオくんは……」


 息も絶え絶え、汗びっしょりでユイカは大の字に倒れ込む。

 少年のほうを伺うと、彼は涼しい顔をして――しかし汗はかいたらしく、額をリストバンドで拭っていた。


「そーいえば。あたし、タオル持ってきてない」

「ランニングって、思ったより必要なもの、あるんですよね」

「……早く言ってよ」


 すねたように頬を膨らませると、リオは困ったように首をかしげた。

 それから、彼はユイカへと手を差し出す。

 立たせてくれるのかと伸ばし返せば、しかし少年はユイカの手首を握った。


「このくらいですか」

「え」

「さあ、立って。次は1キロ7分ぐらいかけて走りましょう。それならきっと辛くないですから」


 今度こそ引っ張り上げられて、ユイカは立ち上がる。

 握られた手首のことが気になって、思わず摩ってしまう。

 やっぱり、ほんとうに、友人の忠告は正しかったのかもしれないと、彼女はそう思った。


 それでも翌日の夜も、ユイカはリオとの待ち合わせの場所にやってきた。

 すでに少年の姿はあった。

 リオはユイカを見つけると、小さく手を振ってみせる。

 その手には、簡素な紙包みが握られていた。


「なにそれ?」

「ちょっとしたプレゼントです」

「……?」

「まあ、あけてみてください」


 言われるがまま、包み紙を開く。


「――――」


 ユイカは目を瞠った。

 中から出てきたのは、リストバンドだったからだ。

 それも、彼女が好んでやまない、みかんの模様が刻まれた特製の。


「これ」

「趣味なんです」


 リオは、はにかんだように眉を寄せる。


「姉の影響で小物を作るのが好きで、えっと……自分の身の回りのものとか、結構作るんです。だから、立花さんがストラップを落としたときも、すぐ気がついて」

「あー」

「タオル、持ってくるの面倒そうだったから、これならすぐに汗を拭えるかなって」


 どうでしょう、と。

 上目遣いに訊ねてくるリオを見て。

 なんだかユイカは、可笑しな気分になった。


「うん、うれしい。みかん、好きだからね」


 彼女の表情が変化したのを見て、リオもまた、くしゃりと笑う。


「――――」


 その笑顔が、どうにもやけに印象深くて。


「どうかしましたか、立花さん?」

「えっと」


 彼女は、胸を押さえながら、首をかしげた。


「なんか、走る前から、ドキドキして」

「今日は休みますか?」

「んー……いい。むしろ一緒に、走りたい気分」


 何事にも大雑把な少女は気がつかない。

 自分の心の変化も。友人の忠告の真意にも。


「やっぱりきみ、フィンガーライムみたい……」

「……?」


 爽やかで、宝石みたいな中身が詰まっている――そんな言葉を、胸にしまって。


「リオくん」


 今度こそ立花ユイカは。

 忘れずにしっかりと、お礼を口にしたのだった。


「ありがとう。ねぇ? 今度、なんかいっしょに食べに行こうよ」


 そんな言葉を口にする、彼女の内心は、どこかみかんのように甘酸っぱかった。

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