アルバイトがしたいのは

雪車町地蔵

第一話 アルバイトがしたいのは

「ハンコを押して。私、アルバイトがしたいの」


 叩きつけるようにして、織守おりかみひかるは書類をテーブルへと置いた。

 コーヒーを飲んでいた彼女の父親は、目を瞬かせて。

 ずいぶんと間を置いてから、老眼鏡を取り出す。

 長年使い込まれて、ボロボロの老眼鏡だった。


 父親がアルバイトの届け出を、頭から末尾まで何度も舐めるように読み直す間、光は辛抱強く待っていた。

 コーヒーの湯気が消えるぐらいの時間が経って、


「……駄目だ」


 それだけの熟慮をして父親が吐き出した言葉に、彼女はこらえきれなくなって叫んだ。


「どうして!」

「何故、アルバイトがしたい?」


 問い掛けに答えることなく、父親は老眼鏡の奥からジッと光を覗いてみせる。

 彼女は僅かにたじろいだが。

 歯がみをして、そっぽを向いた。


「いい。お母さんに書いてもらうから」

「あれにも駄目だと伝えておく」

「どうして」


 二度目の問いかけは、しかしずいぶんと弱々しいものだった。


「お父さんは、私が嫌いなの?」


 上目遣いに、光は父親を見詰めた。

 哀憫の色が、一瞬だけ父親の眼底をよぎる。

 けれど、彼は何も答えず。

 代わりに、光の腕をそっと掴んだ。


「放してよ」

「…………」


 細い、枯れ木のような腕だった。

 労働になど耐えられないような、生きているだけで精一杯というような、そんな腕だ。

 光の顔色は、怒りに紅潮してなお青白かった。


「おまえは」


 彼は、ゆっくりと。

 噛んで含めるように、娘へと告げる。


「なにも、しなくていい。こづかいが足りないのなら、増やしてやる。だから――」

「ばかっ」


 大声とともに、光は父親の手を振り払った。


「知らない! もういい!」


 そうして、キッと父親を睨み付け。

 きびすを返して、リビングから立ち去っていた。


「…………」


 父親はただ、表情も硬く押し黙り、娘の後ろ姿を見送った。


§§


 光が目を開けると、そこは白い天井だった。

 明らかに自室とは違う、けれど見慣れた天井だった。彼女は細くため息を吐く。

 ここが病院なのだと、もう悟っていたからだ。


 両親に内緒で、書類を偽造して働き始めたのが、三ヶ月ほど前。

 自分にしてはよく保った方だろうと、口元が自嘲でつり上げる。


「上出来だぞ、私」

「光……?」


 つぶやきを聞きとがめるように名前を呼ばれて、光はハッと振り返った。

 病室の入り口に、父親が立っていた。

 ずいぶんとやつれたようだと、光は感じた。


「らしくないじゃん」

「娘が倒れたんだぞ。当然だ」

「……」

「……すぐに先生を呼んでくる」

「いいよ。それよりさ、私が倒れたときに持ってた荷物、持ってきて」


 父親は眉間に皺を寄せ、しばらくの間悩んでいたが。

 やがて無言で姿を消した。


 それからすぐに、医師や看護師が来て、光はいくつもの検査を受けることとなった。

 半日が過ぎた頃。

 彼女の父親が、もう一度姿を現した。


「呼ばないでって言ったじゃん」


 唇をとがらせて光がそういえば、父親はしばらく押し黙り、


「いいよ、と聞こえた」

「……頭硬いよね、お父さんは」

「ああ、あれにもよく言われた」


 顔をしかめているのか、夕日が眩しいだけなのかわからないような顔をして。

 それから父親は、そっと荷物をベッドの横へと置いた。

 光は半身をゆっくりと起こして、荷物を漁る。


「覚えてる?」

「これで十七回目だ」

「なにそれ?」

「おまえが倒れた回数だ」

「そっちを覚えてるんだ……」


 「驚き」と溢す娘に、父親は渋面を深くする。

 普段から表情というものをみせない父親が、今は困り顔をしている。

 その事実に、光は薄く笑って。

 やがて、目的のものをカバンから取りだした。


「これ」


 それは、リボンが巻かれ丁寧に包装された、両手を合わせたぐらいの大きさをした箱だった。

 父親は意図を測りかねたように、娘と箱の間で視線を往復させ。

 やがて、観念したように受け取る。


「ほんとは覚えてた?」

「忘れていたさ、いままで」

「ねぇ、あけてみてよ」


 言われるがまま、父親はリボンをほどく。

 箱をあけて、彼は強く両目を瞑った。


 落ち着いた色合いの、真新しい眼鏡が、そこにはおさめられていて。


「誕生日、おめでとう」


 光の言葉に、父親の顔が、痙攣するように大きく歪んだ。

 彼は何も言わなかった。

 ありがとうとも、余計なことをとも言わなかった。

 ただ無言で、一層薄くなった娘の手を握った。壊さないように、心を砕いて、大切に。


「次からはさ、もうすこし私のこと信じてみてよ」


 娘がいたずらっぽく口にした言葉を聞いて、彼は。


「駄目だ」


 なぜなら。


「きっと次は、涙をこらえきれないだろうから」


 光は。

 まんざらでもなさそうに、破顔した。

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