鬼ヶ島

椎那渉

鬼ヶ島

 鬼たちが住まう島があった。

 そこは人間がおらず、文明の利器を必要としない彼らは島の中で平和に暮らしている。鬼同士で世帯を持ち、鬼同士で助けあい、鬼同士で酒を酌み交わす日々。外部から偶然もたらされた黍団子は子供らのいい菓子になり、果物や魔物の生命が潤沢な森は狩場となり鬼たちの腹を満たした。

 そんな島の森の中、鬼の青年であるカイは村から外れた小さな穴蔵でひとり暮らしていた。村の賑やかさも好きだが、ひとりで鳥のさえずりや木々を通り抜ける風の音を聞くのが好きだ。森で狩りをし、村で物々交換をして生活をしている彼は自分の生き方に不満はなかった。ただ次々と番を持つ周りの若い鬼たちが、少しばかり羨ましく思うことはあった。急がなくてもそのうち伴侶は訪れると呑気に構えて早くも五十年が経とうとしている。鬼の寿命は長く、まだ若く見える瑰も人間で言う結婚適齢期をとうに過ぎていた。腰まで伸びた流れるような黒髪に瞳は黄金色、身丈は六尺(約百八十センチ)程もある。頭部には鬼らしく、や黒々とした双角が生えていた。外見は人間で言うと二十歳に満たないが、鬼の中では既に壮年に入りかけている。それでも死ぬわけではあるまいと、今日も森の中を散策していたのだが。


「……!!……!」

「なんだ?」


 微かに聞こえたのは悲鳴。それも聞いたことの無い悲鳴だ。瑰は脊髄反射で駆け出し、物音のする方向に向かった。その声は次第に大きくなり、同時に森の一角が騒がしくなる。行く先に見覚えのある背中が見えて、急ぎ足で近づいた。


「どうした?」

「あっ、瑰さん!実は…」


 声を掛けたのは村に住む顔見知りの鬼だ。鬼にしては柔らかい焦茶色の短い髪に柔らかい一本角の持ち主で、名はハクという。彼も騒ぎを聞きつけてやって来たのだが、どうやら森の中に迷い込んだ者らしく対処に困っていたそうだ。


「…とりあえず、村よりは俺のところにいた方がまだ安全だろ。人間なら尚更村外れにいた方が良い。で、迷い人とやらは?」

「あの子です」


 魄が指さす方向に人影はおらず、叢の茂みに掻き分けた跡ができているので、どうやら森の奥に向かったらしい。瑰は小さく溜息をつきながら他言無用だと念を押し、魄を村に返して茂みを掻き分け森の奥へと進んだ。

 歩みを進めていた途中で茂みが途切れ、少し広がった場所に迷い人はいた。数匹の山狗に囲まれ、足が竦んでしまっている。


「わたしは食べても美味しくないよ…」


 か細い声を漏らしているのは少女だった。服は所々擦り切れ、露出したふくらはぎには赤いものが滲んでいる。どうやら木々に擦れて衣類が避け、そこから流れた血の匂いで魔物たちを引き付けてしまったのだろう。瑰が山狗たちを一喝すると、歯を剥き出し唸り声を上げていた群れがキュンとひと鳴きして一目散に駆けて行った。


「…大丈夫か?」

「ひっ…!」

「安心しろ、取って食いやしないから」

「あっ、あの、あなたは…?」

「俺は瑰、森に棲む…鬼だ」


 瑰は少女を怖がらせないようにゆっくりと近づき、彼女の足元に膝まづいて血の滲んだ足を指先で撫でた。


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 淡い光と共に彼女の足についた傷が癒され、所々にできた擦り傷も塞がっていく。少女は目を丸くして息を飲んだ。


「……こんなところか」

「凄い……聞いてた鬼の話と違う…」


 瑰は苦笑を漏らしながら立ち上がり、少女の顔を覗き込む。憂いを帯びた菫色の瞳に浮かぶ雫を指先で拭い、大事無いかと再び問う。


「怖がらせて済まないな…あいつらも普段は大人しいのだが」

「…瑰さん、は…私に何も聞かないんですか?」

「極稀に外から来る人間を見かけるからな。理由ありなんだろ?無理にとは言わないさ…とりあえず夜が来る前に森を抜けよう」


 少女は頷き、自分は島の外から来た紫乃未しのみだと名乗った。島渡りの為船に乗り沖に出た後、嵐に遭遇してしまい、この島に流れ着いたらしい。何も分からないまま上陸すると見た事のない生き物を見つけ、それを追って森に入った所で鬼に見つかったと言う。彼女が言うには、角の生えた可愛らしい生き物という事だった。思い当たる森の生き物の顔が瑰の脳裏に浮かび、思わず首を傾げてしまう。


「多分それは一角鼠イッカクネズミと言う生き物だ…可愛いか?」

「うん!見たことなくて、つい追ってたら森に迷ってしまって…」

「まぁ、見つかったのが魄で良かったな…あいつ、鬼っぽいのは見た目だけだから」


 イッカクネズミは森の中に巣をつくる、文字通り角の生えた鼠だ。大きさは幼少期だと掌に乗るくらいの可愛らしい大きさだが、成体期になると犬ほどの大きさまで成長し、食欲が旺盛になる。また幼少時は素早い動きも、次第に遅くなり歳を取るに連れて鈍重になっていく。    

 増えすぎると森の中の植物や小動物を食べ尽くしてしまうので、時に鬼たちの貴重なタンパク源となった。

 紫乃未の話から察すると、恐らく一角鼠を追った狩りの最中に見慣れない人影を見て、血相を抱えた魄が紫乃未の傍に急いで来たのだろう。彼の優しい性格と、日和見主義ではあるが臨機応変な対応を取れる彼だからこその行動であった。もし違う鬼に見つかっていたら…と思うと、嫌な光景を思い浮かべ瑰は苦い顔をした。


「私…その鬼さんに悪いことしたかな…」

「いや、気にするな…誰だってそうなるのを見てきたから。ほら、あの穴が俺の棲家だ。薄暗いが雨風は凌げる」


 瑰が指さす方向を見て、紫乃未が小さく頭を下げた。二人は穴蔵に入り、瑰が紫乃未を自分の寝床に座らせると傍らの焚き火を起こす。炎のゆらめきに人心地ついた紫乃未は自分の身体を見渡して、上下共に擦り切れた服を纏っていることに今更ながら羞恥した。瑰が顔を背けながら鞣したばかりであろう縞模様の毛皮を手に取り、紫乃未に渡す。紫乃未はそれを俯きながら慌てて受け取り、纏っていたぼろを脱いで上半身と腰の周りに巻き付ける。辛うじて急所を隠し終えると、背負っていた鞄から紙束を取り出した。

 どうやらそれは近海の地図のようだ。瑰が覗き込むと、滲んだ地図の一点を指差した。


「…私はこの島から来たの。ほんとはこっちに行きたくて…」

「こことは真反対じゃねぇか…よく無事だったな」

「…あなた、地図読めるの?」


 紫乃未の一言に瑰は目を丸くして、顔を俯かせた。吹き出すのを必死に堪えているらしい。


「くっ…すまん…、オマエの抱いてる鬼のイメージが何となく分かったよ」

「すっ、すいません…!」

「いいんだ…俺たちは文明と言う程でもないけど、理性もあるし共存して生きてきている。人間がやって来るのも珍しくはないが無いことじゃない。まぁ、その人間が帰らないから噂に尻尾が生えるのだろうな。少なくとも俺は人間を取って食いやしない」


 焚き火を見つめる瑰の眼は優しい炎のように揺らめいている。初対面なのに、不思議と彼が怖い者では無いのだろうと紫乃未は悟った。頭から突き出た二本の角と鋭い耳、縞模様の革の腰巻一枚でいる以外は普通の青年に見える。

 初めて見た鬼と言う生き物を見て好奇心が勝ってしまい、紫乃未は視線を瑰の横顔に向けた。


「瑰、さん」

「ん?」

「あの…お顔、触って…いいですか?」

「なんだよ突然…まぁ、構わないけど」


 紫乃未が瑰の傍に寄り、恐る恐る手のひらを顔に向ける。瑰と向かい合い、目と目が合ってしまうと紫乃未は急に恥ずかしくなって手を引っ込めた。しかしその手を瑰が手繰り寄せ、自分自身の頭に向ける。


「顔じゃなくて…ここ、気になるんだろ」

「…っ、はい、…」


 観念したように頷くと、紫乃未の顔は焚き火の炎に照らされて赤くなった。でもどうやら熱くなっている手の温度は、焚き火の暖かさだけではないらしい。少しばかり震える指先が瑰の頭から角へと順に触れると、彼はくすぐったそうに目を細めた。


「…少し硬いけど…ちゃんとあったかい…」

「そうか…?そんなふうに言われるとは思わなかったな」


 実に楽しそうな表情を浮かべる瑰の傍ら、彼の角から手を離すと紫乃未が眠たそうに目を瞬かせた。今度は瑰が紫乃未の柔らかい金色の髪を撫で、落ち着いた低い声で話しかける。


「疲れただろうから、今日は寝ろよ。明日になったら食料を持ってきてやるから」


 瑰が言い終わらぬうちに、紫乃未は微睡みの中へ落ちていった。


× × ×


 何も知らない彼女にこの島は過酷過ぎる。今まで流れ着いた人間とは違う雰囲気を感じ、彼女はコチラに馴染んではいけないと直感で悟った。


 遥か太古より、島に棲むと言われている鬼神の怒りを恐れた人間が送り込んだ生贄。何十年かにひとりずつ、かつて人間であった彼らは少ない穀物と共にこの島に送り込まれ、ある者は死を選びある者は生存するため、生と言う名の細い糸を手繰り寄せて生きてきた。老若男女問わず流され、食料を得るために不慣れな狩猟を行ない、不毛の地で小麦や豆を育て、先住していた魔物の肉を口にし島の瘴気に当てられて、劣悪な環境下でも生き延びてきた彼らの末裔。それがこの島に棲む鬼の正体だ。彼らは長く生きてゆく術を見出したが、その代償に頭部から鋭い角が生え、代を重ねるにつれてヒトであった頃の記憶を失った。  

 それ故に住んでいた故郷へ戻ることができず、この島で生涯過ごすことになる。やがて流されてきた生贄がひとりからふたりになり、ヒトが鬼と交わり子を成して鬼になる。そうして少しずつ増えていき、純粋な人間は今現在この島に紫乃未だけだ。

 今では島の奥から湧き出る瘴気が僅かとなり、環境も落ち着いてはいるが彼女を鬼に変えてしまうのは嫌だった。そして島の外から贄入りがない期間、種として生き残るために彼女が鬼の子を孕むくらいならば、いっそ自分も共に朽ちてしまっても構わないとさえ思う。           

 瑰は穏やかな紫乃未の寝顔に顔を近づけて、その表情を観察する。少しの時間しか共にしていないのに、何故だか昔から傍に居たかのように落ち着いている自分がいた。


「おやすみ、紫乃未」

 

 瑰が掛けた声に返ってきたのは規則正しい寝息だけ。

 彼女が目を覚ましてからのことは、夜明けと共に考えることにした。



× × ×


 太陽が登る頃、ふとあの少女が気になり物音を立てないように寝床を出る。手提げ籠に干した魚や肉、果物、豆を挽いた粉で作った団子を入れて抜き足差し足で棲家を出たが、密かに思いを寄せている鬼の少女に呼び止められた。


「魄、昨日から様子変よね」

「っ…何を、言ってるのですか…」

「だって何時もなら酒を取りに来る時間に来なかったもの」


 適当に誤魔化して村を出ようにも、彼女の目があっては色々とまずい気がした。瑰に固く口止めされているので、彼女の存在を言うわけにはいかない。


「これから森に採取しに…行こうかと…」

「ふぅん。ならあたしも行くわ」


 桃色のサイドテールを揺らし、少女が魄の先を歩く。そうなるだろうと察してはいたが、追い返すわけにもいかず渋々歩き出すしかなかった。


「…それから、瑰さんの所に行くのですが」

「こんな朝早くから?」


 何をしに、と少女が言いかけて、魄の表情が頑なになったのを察してそれ以上は何も言わなかった。道中無言のまま、目的の場所に歩みを進める。幾許か歩き続け、目的の場所に到着すると魄がそれ以上は行かないで、と少女を静止した。

「ちょっと魑華チカさんには…見せられないなぁ」

「なんでよ?何か口止めされてるの?」

「うぅ…瑰さんに怒られても知らないですよ?」


 瑰が根城にしている穴蔵の奥を恐る恐る覗き込むと、魑華と呼ばれた少女は顔を赤くして魄の肩を何度も叩く。ようやく出てきた朝日に照らされ、瑰が横たわる隣に人間らしい少女が眠っているのが見えた。一人分の寝床に二人並び、窮屈そうだがその寝顔は穏やかだ。


「…もうっ!ちゃんと言いなさいよ…!」

「いっ…!ちょっと、起こしちゃうじゃないですか…!」

「あの瑰にようやく…」

「他言無用ですよ?」


 魄は穴蔵の入り口に食料の入った籠をそっと置き、魑華を引っ張って村に帰ろうとする。一瞬穴蔵の方を振り返ったがすぐに顔を逸らし、再び歩き始めた。


「鬼も角折る、って事ですか」

「はぁ?」

「何でもないですよ」

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鬼ヶ島 椎那渉 @shiina_wataru

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