08-04
その日。
俺は朝五時半に目覚めた。むしろほとんど眠れなかった。やけに緊張していた。たぶん受験のときより緊張している。
眠れなかったからといってベッドにすがりついていても仕方ないので、さっさと起き上がる。
準備を終えて時間に余裕ができる。三時間以上。
そわそわする。
「……どうしたの?」
妹に心配される。
「なんでもない」
「なんでもないなら貧乏ゆすりをやめて」
無意識です。
時間になってから、忘れ物がないかを確認して家を出る。一応、決めた時間に迎えに行くことになっていた。
結構距離がある、が、毎日のように三姉妹は歩いてきていたわけで。恐るべし。
幸いなことに、暑さはそこまでではなかった。
相変わらずでかい家だった。
玄関でインターホンを鳴らす。やっぱり緊張する。でも押さなきゃならない。怖い。ジレンマ。
呼び出しベルが鳴った後、家の中からどたばたという物音が聞こえた。
がらりと引き戸が開いて、なかば飛び出すみたいに屋上さんが出てくる。
「……どうも」
「あ、うん」
言葉が途切れる。
なんか言わなきゃ、的な空気が飽和する。
でも、互いに言葉はない。
困った。
というか、困っている。
そういえば屋上さんとふたりきりになるなんて久々なわけで。
一緒に出かけるなんて初めてなわけで。
そう考えると目すら合わせられない。彼女の方を見るのが怖い。
なぜか普段と雰囲気が違って見えるし。
なんかこう。
……どうしたものか。
持て余す。いろいろ。
ずっとそうしていても仕方ないので、とりあえずモールに向かって歩く。言葉がない。
何を言えばいいやら。
今までどんな話をしていたんだっけ。
……平然とセクハラまでしていたような。
何者だ、以前の俺。
ていうか、ぱんつまで覗いてたような。
……なんだろうね、この気持ち。
なんていうか、昔の自分に腹が立ってくるよね。おまえ、どんだけ調子乗ってんだ馬鹿野郎っていう。
見詰め合ってなくても、素直におしゃべりできません。
馬鹿みたいだけど。
モールに着くまで、結局会話らしい会話はほとんどなかった。
「何か考えてるのはあるの?」
「え?」
「プレゼント」
「あ、ああ」
突然話しかけたからか、屋上さんは少しきょとんとしていた。
「何も考えてない」
「……何も考えてないのに、とりあえずモールに来たの?」
「……うん」
深くは追及するまい。
とにかく、店を回る。後輩の趣味を屋上さんに訊ねながら店を回る。
「ぬいぐるみとか好きかも」
まじかよ。
予想外でした。
「鞄に小さめのストラップ付けてる。いつも」
そういえばそんなのもあった気がする。
ちょっと想像してみる。ぬいぐるみ的ストラップをつけた鞄を背負う後輩。
――なんか普通にスタイリッシュだ。チューインガム噛んでそう。
もう何をやってもスタイリッシュなんじゃなかろうか、あの子。
ともかく、小物が置いてある店とか、ぬいぐるみ系統の店とかを回る。
男の居心地の悪さは女性向け服飾店にも劣らない。
適当に歩いてみるものの、これだというものは見つからないらしい。
仕方ないので他の案を探すついでに店を回ってみることになった。
雑貨屋。マグカップ、写真立て。このあたりは経験則的に悪くないが、誰かに贈ったものを提案するのも気が進まない。
ああでもないこうでもないと言い合いながら、いろいろ見て回る。
結局目ぼしいものが見つからないまま昼になり、とりあえず昼食をとることにする。
フードコートのなかのハンバーガーショップ。学生の財布にやさしい場所。
妹ときたときとまるで同じルートって、自分の行動範囲の狭さを自分で示しているような。
なんとなく生まれる後ろめたさ。
いや、深く考えないようにしよう。
対面に座ってハンバーガーをかじる屋上さんの顔を覗き見る。
特に退屈ではなさそう、では、あるのだが。
気を遣う。
なんか、こう、ねえ。
下手打ってないかな、とか、まずいことしてないかな、とか、失敗してないかな、とか、全部同じ意味なんだけど。
気付くと、屋上さんがこっちを見ていた。
「……なに?」
「え?」
「見られてると食べにくい」
「あ、はい」
無意識でした。
とはいえ。
どこに目を向けたものか困る。普段はどうしていたんだっけ。
ああなんかもう、おかしくなってる。
軽い食事を終えた後、次はどこの店を回ろうかと考えはじめたところで、屋上さんがゲームセンターで足を止めた。
UFOキャッチャー。
たしかにぬいぐるみはあるけれども。
以前の失敗が頭を過ぎる。今はタクミもいないのです。
でもまぁ、仕方ないので筐体に小銭を突っ込む。
「え」
と屋上さんは変な声をあげた。
「どれ?」
「いや、いいって」
「もう入れちゃったし」
「……それ」
彼女が指差したぬいぐるみの位置を確認する。
難しくはない、が。
一度やってみるしかない、と思う。
失敗する。
屋上さんが居心地悪そうに体を揺すった。
「こういうのは最初に一、二回失敗するものなのです」
本当はあんまり詳しくないけど、それっぽいことを言う。
また硬貨を投入する。二度目。失敗する。位置と向きが変わる。
三回目。取る。
「はい」
ぬいぐるみを受け取るまで、彼女はずっときょとんとしていた。
「エアホッケーしようぜ!」
ついでだから誘う。あっさり負けた。
他の店を適当に見て回る。特に心惹かれるものもなく、無難に浮かぶものもない。
役に立ててるんだろうか、俺。
「なんも思いつかないっす」
「うん」
無口になる。なんか言わなきゃ、的な雰囲気。でも言うことねえや。
なんかもう、ね。
何を言えばいいやら。今までどんな話をしていたやら。
ちょっとした会話はあっても、話が弾むことはない。
居心地悪いわけではないんだけど。
これはこれでいいのかもしれないけど。
あと一歩、という感じの。
結局、特に何があるわけでもなく、夕方近くに帰ることになった。
並んで帰る。ひょっとして今じゃね? って思う。
何かを言うにはちょうどいい時間。
どうしたものか。隣を歩く屋上さんは、UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみを抱えて視線を落ち着かないように彷徨わせていた。
考え事をしながら歩く。
それでも結局、何もいえない。肝心のところでダメ人間。
あーあー。
どうにかせねば、と焦る。なんか言わなきゃ。
会話がないまま道を歩く。夕方。トンボが飛んでる。蝉の声。
どうしたものか。
距離を測りそこねている。
屋上さんの家につく頃には、四時半を回っていた。
なんか言わなきゃ、が、ずっと頭の中でぐるぐる巡っている。
そうこうしているうちに、屋上さんは一歩踏み出した。
「それじゃ」
短く言って、彼女は歩いていってしまう。
ああもうめんどくさい。言っちゃえよ。
衝動に従う。
「ストップ」
屋上さんは戸惑ったみたいに立ち止まった。振り返った彼女の表情が、今までで見たことのないものに思える。
さて、何でもありません、とはいかない。
何かを言わなきゃならない。
とはいえ。
どう伝えたものやら。
「あのさ」
ひとまず何かを言おうと口を開く。
でもダメだった。何も浮かばない。混乱する。言いたいことは明快なはずなのに、言葉が出てこない。
自分が、怖がっていることに気付いた。
心臓が鳴る。どうしたもんか。正面から屋上さんの顔を見ることができない。どうしようもない。
「あのさ」
……繰り返しになる。
馬鹿みたいに見えるかもしれない。
でも、仕方ないんです。
告白なんて初めてなんです。
「あー」
何も言えなくて、焦る。時間だけが過ぎていく気がする。このまま何も言えずに、彼女が帰ると言い出してしまったらどうしよう。
ていうか、仮に言えたって、振られるかもしれないわけで。そっちのほうがむしろ可能性としては濃厚だ。
「ごめん、ちょっとまって」
彼女は困ったみたいな顔で頷いた。表情が少し強張っている。緊張が伝染したのかもしれない。
逃げたい。
嫌な想像ばかりしてしまう。
変な汗をかいてる。どうしよう。
「おまえ、考えすぎるタイプだもんな」
頭の中で、誰かが言った。
そうなんです。
考えすぎて、足を取られて、身動きが取れなくなるタイプなんです。
好きだ、っていうのは、なんか偉そうだし。
好きです、っていうのも、なんか馬鹿らしいし。
付き合ってください、だと、意味が通じないし。
でも、完璧な告白文なんてものがあれば、みんながそれを使う。
結局、どれを選んだって、自分の気持ちをそのまま表現することなんてできないのだ。
壊れるほど愛しても三分の一も伝わらないわけですし。
だったらとりあず、後先考えずに言葉にしてみるしかない。
「好きだ」
言った。
時間が止まった気がした。
そのまま続ける。
「付き合ってください」
なんか間抜けだった。
でもしょうがない。言うしかなかった。
屋上さんは間もおかず、
「は、はい」
即座に返事をした。
「……え?」
「え?」
お互い、きょとんとする。
いやなんつーか。
反応早すぎじゃね?
こういうのって、永遠にも思える五秒、とかそんなんじゃないの?
なんか、一秒なかったんですが。
というか、「付き合ってください」の「さ」のあたりで既に「はい」って言ってたんですけど。
「……え、あ、いや、え、なに?」
屋上さんも屋上さんで、俺がなぜ硬直しているかが分からないらしく、混乱していた。
「……ひょっとして、返事する準備してた?」
「え、あ……」
彼女は「ああ」とか「うう」とか唸りながら顔を真っ赤にして俯いた。
いやなんつーか。
「……うん」
雰囲気でだいたい感じ取れるものなのかもしれないけど、もし違う話だったらどうするつもりだったんだろう。
いつのまにか、さっきまで全身を支配していた緊張がどこかに消えていることに気付く。
この人には敵わない。
「えっと、それってさ」
とりあえず、話をまとめてしまおう、と口を開く。
「つまり、その……」
口に出すのが照れくさくてどうにもまずい。
言ったあと、実は違う意味でした、みたいに言われたら、目も当てられない。
また緊張する。
「うん」
屋上さんは、今にも逃げ出してしまいそうなほど真っ赤になって、小さな声で頷いた。
「その」
どうにか、必死に言葉を寄せ集めるみたいな顔をして、
「よろしく、おねがいします」
告げた。
なんていうか。
なんていうか。
なんだろう、この可愛い生き物。
「えっと。……こちらこそ?」
現実感がない。
はっとして、夢オチを疑う。
頬をつねる。
「……なにやってんの?」
呆れられる。
痛かったけど、痛いからって現実とは限らない。
どうしましょうか。
頬が勝手に持ち上がる。
「いや、どうしたもんかねこれ」
手のひらで自分の頬をこね回して表情を戻そうとする。でも、どんなに抵抗しても無駄だった。
どうしたものか。
不意に、屋上さんが笑った。
「顔、真っ赤だけど」
お互い様です、とは言わないでおいた。
なんかもう夢でもいいや。
でもやっぱ夢じゃ嫌だ。
頭が回らない。
その日、どのタイミングで屋上さんと話すのをやめて、どのように家に帰ったのかがどうしても思い出せない。
そのあとの記憶がひどく曖昧で、次に目をさましたとき、ひょっとして全部夢だったんじゃないかと疑った。
あんまりにも不安になったので、屋上さんにメールを送った。
――昨日の出来事は夢でしたか?
返信は少し遅かった。
――夢じゃないみたいです。
夢ではないらしい。
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