07-04



 恋は唐突なものだとよく言うけれど、大抵の場合は恋心に気付く瞬間が唐突なだけだ。

 恋自体は既に存在する、という場合が多い。


 そんなようなことを誰かから聞かされたことがある。

 たぶん、小学校の頃ひそかに憧れていた近所のサチ姉ちゃんだ。当時十六歳。

 今は二十三歳くらいだろうか。まだまだ若い。


 美人で綺麗で黒髪ロングヘアだった。


 男が好きそうな仕草をわざと選んだりしていて、自分の可愛さを分かってる感じがあった。

 黒髪ロングヘアも狙っていたところがありそうだったが、かといってそのことが男の気持ちを醒ましたかというとそうではない。


 むしろ学校では人気があったらしい。

 県内でも有数のバカ高校に通っていた彼女の周囲にいる女と言えば、茶髪、マスカラ、ピアス、煙草、酒好き。

 あるいは、陰気、野暮眼鏡、オタ女、腐女子(特に最後の種族は机の中に男子を必殺する薄い本を保管している)。


 好きになろうとするなら数週間にわたるコミュニケーションが必要になるタイプが多かった。

 

 そんな中、多少あざとくは見えても、男子から見ても「可愛い」女子であるサチ姉ちゃんはまさに掃き溜めに鶴。

 女に縁がない男たちが亀の頭をもたげて鶴たる彼女に求愛した。後に言う鶴亀合戦である(てきとう)。


 そんな彼女に俺が夢を見れていた時間は、一週間もなかった。

 サチ姉ちゃんは俺を、薬局の入り口に置いてあるカエルの置物か何かと勘違いしていたらしい。


 いわば愚痴聞き機。腹を割った付き合いといえば聞こえはいいが、大概の本音なんて聞くに堪えない。


 たまに帰り道で見かけたとき、彼女はクラスメイトと思しき男子(茶髪・雰囲気イケメン)を連れていたことがあった。

 その次にサチ姉ちゃんと会ったとき、俺はその男子に対する文句や愚痴を延々と聞かされるのである。


 息が臭いとか髪が長くてうっとうしいとか自意識過剰で気持ち悪いとか勘違い野郎とかそういう類の言動を。

 夕方に公園のブランコにまたがって、日が暮れるまで。


 子供だった俺には彼女の気持ちなんてろくに分からず、


「そんなに嫌なら、はっきり嫌だって言えばいいんじゃないの?」


 と、突き放そうとしたことも一度や二度じゃない。

 そのたびにサチ姉ちゃんは、


「歳をとったら君にも分かる」


 少し強張った声でそう語った。


 たしか、あれは暑い夏の日のことだったと思う。その日の彼女の言葉がやけに印象に残ったのだ。


「だいたいさ、おかしいのよ。ぶりっ子ぶりっ子って、ぶりっ子のどこが悪いのよ」


 彼女は心底不満そうに毒づいた。


「どうせ人と関わりあっていかなくちゃならないんだから、嫌われるより好かれたほうが都合いいじゃない!」


 魂の叫びだった。

 男を舐め腐ったような安い上目遣いにも、彼女なりの理念があったのだな、と考えさせられた。


「可愛く見せて何が悪いっつーのよ! 何の努力してないよりマシでしょ!? むしろ努力しないで彼氏欲しいとか言ってる奴はどんだけ自分に自信があんのよ!」


 その言葉だけはやけに俺の心を打った。

 自分をよく見せようとするのも、理にかなったことなのかもしれないな、と。


 そう思えば、身だしなみを整えたり、髪形を気に掛けたり、やけに鏡を確認したりするのも、自然に思えた。

 単なるナルシズムではなく、自分に自信がないことの表れだったのかもしれない。


 今でも数ヶ月に一回くらい、サチ姉ちゃんと街で遭遇することがある。 

 近所にある寂れたコーヒーショップに入って、気取った古臭い環境音楽をバックに、彼女の愚痴を聞かされる。


 そして彼女は、いつも最後に、「ごめんね」「ありがとう」と二つの言葉を並べる。

 たぶんそれが彼女なりの礼儀なのだろう。


 なぜこんなことを今思い返しているかと言うと。

 ひょっとしてこれが恋か? 的な感情が俺の胸の中で急激に膨らみ始めたからである。


 三姉妹と幼馴染とタクミが我が家に泊まった翌日のこと。


 雨はまだぽつぽつと降り続いていたけれど、風はだいぶ弱くなった。

 それでも誰も家には帰ろうとせず、ただ時間が流れるのに任せて、取り留めのない話を続けている。


 気持ちは分かる。

 泊まりの翌日の寂しさ。


 友達の家に泊まったことがないのでそんな気持ちは分からないけれど。

 なんとなく想像はつく。


 だから、あんまり急かすことはないだろうと考えていた。


 のだが。

 一晩泊まって怖いものなしになったのか、皆が我が家に馴染んだようで、やたら無防備になっていた。

 くわえて、雨のせいで窓が開けられず、蒸し暑い。おかげでみんな薄着。


 正直目のやり場に困る。


 るーは薄着すぎて、ちょっと動くたびに見えてはいけない部分が見えそうになった。

 小学生相手なのでさすがに困ったことにはならないが、それでも動揺はしてしまう(童貞だから)。


 後輩はさすがにしっかりとしていて、姿勢や服装が乱れることはなく、むしろ周囲を諌める立場だった。

 それを残念に感じてしまうあたり、俺という人間の低俗さがよく分かる。死ねばいいのに。


 幼馴染と妹は服装からしてアウトだった。ノースリーブ。その時点でなんかもう挑発してるんじゃないかって気になる。性癖。


 幼馴染は暑さに耐えられなくなったようで、髪を結んだ。

 正面にいたため、腋が見える。


 何かに目覚めそうになる。

 マエストロが腋とか膝裏とか騒いでたことを思い出した。これか。

 髪を結ぶと今度はうなじが見える。

 女って怖い。魔性。


 妹はみんなにお茶を出したりしていた(なぜか熱いお茶を飲みたくなって、みんなにも入れた。暑い中で飲むと意外に美味い)。

 よく動くせいで、服があんなことやこんなことになる。

 具体的に言えば、屈んだ拍子に胸元から下着が見えたりする(が、毎年のことではある)。


 エロス的な意味ではなく、背徳感から心臓が揺さぶられる。

 意外な成長が垣間見えたりするのも、それに一役買っていた(気付くと意識させられる)。

 

 屋上さんはというと、特に動くわけでもなく、ソファに座っている。

 疲れたのか、あるいは気を回すのが馬鹿らしくなったかは分からないが、彼女は昨日寝たときと同じ格好をしていた。

 シャツ、ジャージ。


 ジャージのハーフパンツって、なんというか、こう、一種の魔力を持っていて。

 しかも、彼女の姿勢がその魔力を強めた。

 体育座りというか三角座りというかはどうでもいいが、それに近い座り方をしている。

 実際に見てみると分かるものの、正面からだとやたら太腿がまぶしい。 

 

 こうしていろいろ考えると、なんだか嫌な方面でばかり自分が大人になっていくのを感じる。実質的にはまだまだ子供なのに。


 とにかく、そんな光景がリビングの至るところで繰り広げられるわけで。

 やたらと胸がときめく。どきどきする。

 これが恋か、と微妙に納得した。

 なんだろう、この、もどかしいような心地良いような気恥ずかしいような感覚は。

 恋です。






 雨が止んだので、コンビニにジュースを買いにいくことにした。

 一人で行こうと思っていたら、屋上さんがついてくる。


「……その格好で?」


「ダメかな」


 ダメじゃないけど、それじゃほとんど寝巻きです。

 仕方ないので俺のジーンズを貸して着替えさせた。


「なんか服借りてばっか」


「なんかまずいですか」


「着心地悪くないし、別にいいよ。ていうか、お礼言う側だし、私」


 最近、屋上さんの態度が微妙に軟化している気がする。

 言動が優しくなってる。


 最初はあんなに無愛想だったのに。

 まさかただの人見知りだったとか。


 微妙になつかれてしまった感がある。

 猫的な。


 家を出るとき時計を見ると、まだ九時にもなっていなかった。

 いつの間にか雨は上がっていた。灰色の雲が裂けて、太陽の光が遠くに差し込んでいる。

 天使の梯子。何かの本で読んだ。


 幻想的ではあるのだけれど。

 ふとした瞬間に目の当たりにすると、少し寂しい気持ちにさせられる。

 それは綺麗というより、悲しげで、示唆的だ。儚さの。だからあんまり好きじゃない。


 コンビニを目指す途中で、屋上さんは不意に足を止めた。どうしたのかと視線の先を追うと、公園がある。


「どうしたの?」


「いや、うん」


 昔ここで遊んだな、って。屋上さんはそう言った。


「え?」


「え?」


「昔って、いつの話?」


「……小学校入るまえだから、四、五歳の頃だと思うけど」


「四、五歳の頃?」


 その頃なら、俺と幼馴染もここに来て遊んでいたはずだ。

 ひょっとして、と思う。

 まさか、と思う。


 記憶がおぼろげで思い出せない頃だから、とても困る。

 確信がもてない。

 祖父母の家に預けられていたのが、三、四歳の頃。

 五歳の頃には母が面倒を見ていた。

 

 俺は母に連れられて、幼馴染や妹と一緒にこの公園に来ていた。

 そこで、屋上さんに会ったことはなかっただろうか?


 ――三度。

 

 見知らぬ女の子と一緒に遊んだ記憶があるような。

 何をして遊んだかはよく覚えていないけど、たしか、結構仲良くなって、そして、ある日、来なくなった。


「屋上さん、小学校はどこだったの?」


「親戚の家から」


 彼女はそこで一拍置いた。


「小一から中三まで、親戚の家」


 その答えを聞いて、少しのあいだ考え込んだ。

 そして驚愕する。九年間。


 俺はそれまで考えていたことを横において、その年数に愕然とした。


「その頃、るー、生まれたばっかりじゃん」


「あー、うん」


 彼女は困ったみたいに笑った。


「実は、また一緒に暮らすようになったのも、今年の頭からだから」


 その言葉で、自分が馬鹿な質問をしたことに気付いた。

 いつのまにか踏み込んでいた。我を忘れて、距離をとるのを忘れていた。


 失敗した。


 謝ろうかと思って、やめる。そうするのが嫌だったからだ。

 俺を落ち込ませようとか、謝ってほしいからとか、そういった理由で彼女は質問に答えたのではない。

 謝ってしまうのは、とても身勝手に思えた。


 そもそも質問自体が身勝手だったのだけれど。


 あまり暗くなってもしかたない。

 もう何も訊かないことにして、自分の中の感情に区切りをつけた。


 俺は失敗もするし嘘もつくけれど、できるかぎり失敗しないように努力しているし、嘘をつかないでいようと思っている。

 一度した失敗は二度と繰り返さないように努力する。それでも失敗することもあるけれど、そのときはさらに注意する。

 そういうふうにありたいと思っている。


 馬鹿らしいかもしれないけど。


 似たようなことを繰り返さないように心に留めながら、考える。

 気付くと歩調がずれはじめていて、彼女は俺の少し先を歩いていた。

 

「ねえ」


 声をかけると、屋上さんは不思議そうな顔で振り返った。


「俺と結婚の約束ってした?」


 まさかな、と思いながら訊く。

 声が微妙に震えているのは、気のせいだと信じたい。

 

「約束はしてないけど、申し込まれた」


「いつ?」


「こないだ」


「……バーベキューのときですか?」

 

「うん」


 まぁそうだよな、と納得する。

 さすがにそんな少女漫画みたいな展開はない。


 まさか、そんな、ねえ?


 それに。

 そんな約束、もししてたとしても、今となっては時効なわけで。

 いつまでも気にする方が馬鹿げてる。

  

 誰も覚えてないことだし。


 うん。


「でも、そういえば」


 屋上さんは言葉をつないだ。


「子供の頃、公園で、近所の男の子と、そんな話をしたような」


 ……まさか、そんな、ねえ?

 でも。

 この近所、俺たち以外には同年代があんまり住んでないんですけど。


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