06-07
「油断した」
と、ベッドの中で唸りながら妹は言った。顔は火照っていて、息も少しつらそうだ。
うちの家族は、風邪になりにくいわりに、実際にかかると弱い。
「いつから調子悪かったんだ?」
「昨日の夜から、なんだか頭痛がするなぁ、とは」
「プールかな」
ほとんどプールサイドに上がって休んでたし。
「たぶん」
妹は疲れきったように溜息をついた。
「しんどい……」
「だろうな」
変に強がられると困ったことになるので、つらいときはつらいと正直に言うのが我が家のルールです。
それでも正直に言わなかったりするのが妹の困ったところではあるのだが。
「間接痛い。頭ぼんやりする。洟つらい。喉がいがいがする。全身だるい」
妹が鼻声で列挙した症状を頭の中で繰り返す。
俺の推理が正しければ風邪だ。
ていうか風邪だ。
「ゆっくり休むように。食欲は?」
「あんまりー」
間延びした声。ひょっとして俺もこんな感じだったんだろうか。
「でも、雑炊なら食べれる、かも」
「後で作る。欲しいものは?」
「愛とか」
うちの人間は自分がつらければつらいほど冗談を言いたくなる人種です。
俺の場合は周囲を茶化してるだけだけど。
「愛ならやるからさっさと治せ」
「うん」
妹はしおらしく頷いた。普段より態度が軟化していて、どうも調子が狂う。それだけ弱っているのだろうか。
たかだか風邪、と言えばそうだけど。
風邪を引いたときの、あの妙に心細い感じは、結構つらい。
台所に下りて冷蔵庫の中を確認する。玉子。野菜室。ネギ。
炊飯ジャーの中を覗く。問題ない。
作れなくはない。
正直、料理はあまり得意ではない。妹はもちろん幼馴染も食べさせたことがあるが、あまり評判もよろしくない。
味が濃すぎたり薄すぎたりするそうな。
粉末かつおだし(万能)を駆使して雑炊を作る。俺の料理は基本的に大雑把だ。
炊飯ジャーから茶碗一杯分のご飯を取る。ザルに移して軽く水で洗い、ぬめりを取る。
小さめの鍋に水を入れる。沸かす。ダシを入れる。米を投入。醤油、塩コショウ、めんつゆなどで味付け。刻んだネギ、卵でシメる。
完成。
五分クッキング。
味見する。
「熱ィッ!」
舌を火傷した。
味は悪くない。
昔は水の分量なんかで手間取ったものだ。料理を教える側だった祖母が感覚で作るタイプだったというのもあるが。
「具体的にどのくらい入れればいいの?」
「だから……このくらい?」
「このくらいってどのくらい?」
「だいたい勘でやってるから」
「勘なの?」
「うん。この量だから、たぶん……このくらい」
そんな祖母に教わっても上達はしたのだから、習うより慣れろというのは案外的を射ていると思う。
出来上がった雑炊を大きめの椀に取り分ける。スプーンの代わりにレンゲを用意した(形から入るタイプ)。
妹の部屋に持っていく。レンゲで雑炊をすくって冷まし、妹の口元に運んだ。
「自分で食べれるから……」
「火傷するから」
「大丈夫だって」
「俺なりの愛だから」
「愛はもうおなか一杯だから」
「いいから食べろって」
妹は仕方なさそうにレンゲを口に含んだ。
餌付けの感覚。
微妙に楽しい。
「塩コショウききすぎ」
妹は味に関しては手厳しい。
「まずいですか」
「そうは言ってないです」
催促されて、手を動かす。嫌がったのは最初だけで、二口目以降は食べさせられることに抵抗はなかったようだった。
半分くらいまで減ったところで、もう食べられないというので、残りは俺が食べた。
「熱測った?」
「七度二分」
微熱。そうひどくはないようだ。
とはいえ、甘く見ていたら悪化しかねないわけだし、どうせ休みなのだから、じっくり休んで治すべきだろう。
「ミカンとか桃とか、それ系の缶詰とか食べる?」
「今はいいや。それより、喉渇いた」
「他には何かある? 水枕いる?」
「大袈裟。そこまでしなくても大丈夫だから」
とりあえず水と薬を用意する。冷蔵庫の中にスポーツドリンクがあったので、それも持っていった。
どうしたものか、と思う。
ずっと傍にいるのも落ち着かないだろうと思い、自室に戻る。
なんとなくそわそわする。
三十分ほど時間をおいて部屋を覗きに行くと、妹はすやすやと眠っていた。
特に寝苦しそうな様子もない。ひとまずほっとする。もういちど部屋に戻ろうとしたところで、インターホンが鳴った。
玄関に出ると幼馴染とタクミがいた。
俺は妹が風邪を引いて寝込んでいることをふたりに告げる。
幼馴染はお見舞いをしたいと食い下がったが、眠っていることを言うとすぐに引き下がった。
「うつったらあれだし、今日のところは悪いけど」
「うん」
お大事にと言い残して、二人は去っていった。
三姉妹も来てしまうかもしれないと思い、屋上さんにメールを入れておく。
返信はすぐに来た。「了解。お大事に」短くて分かりやすい。
さて、と溜息をつく。
家事しないと。
洗濯、食器洗い、簡単に掃除をして……まぁそのくらいか。
だいたい二人分なので洗濯物は少ない。食器に関してもさっき使ったものだけだが、やっておいても問題ないだろう。
掃除といっても全体的に片付いているので、軽く掃くだけでそこそこ綺麗に見える。
こうしてみると、うちの妹さまは年齢の割にあまりに優秀な性能をお持ちだということがよく分かる。
せっかくなので布巾を使ってテレビ台の脇やカーテンのレールなんかの埃をふき取る。
はじめると楽しい。
掃除を満足するまで続けていると、いつのまにか昼過ぎになっていた。
そろそろ起きる頃かと思い妹の部屋に向かう。そのまえに用を足そうと思い、トイレに向かった。
ドアを開ける。
閉める。
幻を見た気がした。
少しして、水を流す音が聞こえる。
妹が出てきた。
鍵を閉め忘れたのは彼女の方なので、俺に落ち度はない、はずだ。
なんだろう、この罪悪感。
「……気配で察してください」
言い終えてから、妹は小さく咳をした。気配とは無理を言う。
「音で気付くっていうのも、なんか微妙な話じゃない?」
「音とか言うな」
よくある事故だった。
二人でいることが多いので、風呂の時間がかぶることはなかなかない。
そのせいか、妹はトイレでも脱衣所でも鍵を閉め忘れることが多かった。
いや、トイレで遭遇したのは初めてだけれど。
寝てるものだと思ってつい。
「悪かった」
謝る。
「いや、私が悪いんだけど、さ」
気まずい。
困る。
「調子どうだ?」
話題を変えるついでに訊ねる。
顔色を見ると、少しはマシになったようだった。
額に触れる。
「な、なにをするか」
今日の妹は口調が安定しない。
熱はまだ少しあるようだった。
「まぁ、今日一日休んでれば治るだろ」
「うん」
素直に頷く。
普段もこのくらい分かりやすければいいのだけど。
家事だって黙々とこなすし、学校のことだって何も教えてくれないし、基本的に自分のことを話したがらないし。
お互い様といえば、そうなのだけれど。
「寒気とかない?」
「少しだけ」
「なんか飲む?」
「ココア」
妹を部屋に帰して、そのままココアを入れに行く。黒いカップ。猫のうしろ姿。
ついでに自分の分のコーヒーも入れる。
ゲームキャラを真似してブラックで飲んでいたら、いつのまにか癖になり、何もいれずに飲むことが多くなった。
中身をこぼさないように注意しながら妹の部屋に向かう。
椅子を借りて、ベッドの脇に腰掛けた。
妹はベッドから半身を起こしてカップを手に取る。
パジャマの袖に隠された手の甲。
ひょっとして狙ってやってるのか。
会話がない。
少しずつコーヒーが減っていく。ゆっくりとした時間。
空になったマグカップを持って、妹の部屋を出る。夜まですることがなくなる。
ギターを弾いたら寝るのに邪魔だろうし、映画を見るには気分が乗らない。
部屋に戻って課題を進めることにした。
夕方になっていから、夕食をどうするかを訊ねに行く。だいぶ楽になったようで、食欲もあるらしい。
簡単に、消化によさそうで、あまり食べにくくないものを作ろうとしたが、そんな料理思い浮かばなかったので、適当に済ませた。
食事の後、妹がシャワーを浴びたいと言い出す。
やめておけと言いたかったが、こういうときだけは困る。
性別の壁。女性的な感覚が分からないので、あんまり口うるさくも言えない。
あまり長くならないことと、体をしっかり拭いて髪を乾かすことだけ言いつける。
分かってる、と頷いた妹の顔は、朝よりはずっと普段のそれに近かった。
妹はシャワーを浴びたあと部屋に戻って早々に寝入ったようだった。
俺は部屋に戻って課題を進めた。だいたい半分近くは済んでいる。期間的に余裕はまだあるが、そろそろ終わらせてしまいたい。
しばらく机に向かってから、風呂に入って寝ることにした。
ベッドに入る。なんとなく落ち着かない気分。
明日には妹の風邪が治っているといいのだが。
そろそろ祭りも近い。ユリコさんの言っていたバーベキューの日取りも、幼馴染が言ってくる頃だろう。
食材の費用とか、どうしよう。俺たちが渡そうとしても素直に受け取らないだろうし。
一応、両親にも話をしておくべきだろう。母ならなんとかできるはずだ。
目を瞑って考え事をしていると、自然とここ最近のことに思考が集約していく。
幼馴染、タクミ、妹、屋上さん、後輩、るー。近頃良く会う顔ぶれ。
いつからこうなったんだっけ。幼馴染が家に来るようになったのは夏休みのちょっと前だ。
タクミを連れてくるようになったのは夏休みに入ってから。
屋上さんが家に来るようになったのは、たしかるーが来たがったからだ。
そこまで考えて、不意に疑問に思う。
後輩はたしか、るーと屋上さんとの間には、微妙に距離がある、というようなことを言っていなかったか。
後輩自身も含まれるような言い方で。
だとしたら、るーはどうして俺のところに来たがったのだろう。
素直に受け取るなら気に入られたということになるだろうが、あまり仲の良くない姉妹の友人相手なら、距離をとるはずじゃないだろうか。
考えすぎかもしれない。
◇
その夜、久しぶりに夢を見た。
夢の中の俺はまだランドセルも背負っていないような年齢だった。
公園の砂場で、幼馴染と一緒に遊んでいる。
俺はそこで、彼女を問い詰めている。
「俺、おまえと結婚の約束したよな?」
けれど幼馴染は首を振る。冗談などではない。彼女は本当にそのことを知らないのだ。
俺は混乱する。たしかに、そういうことをした記憶がある。
じゃあ、ひょっとしたら、と考えて、俺は質問を変えた。
「俺、おまえに指輪をあげたことがあるよな?」
この質問には、彼女は頷いた。
少ない小遣いをはたいて買った玩具の指輪。スーパーマーケットの小物店。
でも、おかしい。
俺と幼馴染が結婚の約束をしたとき、俺たちはランドセルを背負っていなかった。
その頃は、ちょうど祖父母の家から両親の家に戻ってきた時期。
両親の仕事は落ち着いてきたけれど、毎日のように祖父母やユリコさんが様子を見に来た時期。
その頃、俺はまだ自分で金を持ったことがなかった。あるにはあったが、ごく少ない金額だったはずだ。
少なくとも、その頃の自分に、小物店で玩具の指輪を見つけて、レジに持っていく、なんてことができたとは考えにくい。
そこまで考えて、結婚の約束と指輪との間に関連性がなかったのかもしれないと気付く。
だとすれば幼馴染は指輪のことだけを覚えていて、約束のことを忘れているのだろうか?
違う気がした。
俺や幼馴染が忘れていても、そんなことをしていればユリコさんが知っているはずだ。
そんなことがあれば、今の歳になったってからかうに決まっている。
だとすると、ユリコさんは知らない。
じゃあ約束なんてなかったんだろうか。
夢はいつのまにか静止していた。砂場で俺と幼馴染が硬直している。少し遠くにあるベンチから、ユリコさんがこちらを見ている。
妹は、ユリコさんのところから、こちらへ向かって走ってくる。あいつはひどく元気で手の付けられない子供だった。
夢の中の俺は、そこで考えるのをやめた。
子供の頃のことだし、実際に約束したかどうかなんてどうでもいいことだ。
実際、子供の頃の約束を理由に何かが変わるわけでもない。
そんなものを持ち出したからといって幼馴染と結婚できるわけでもないし、結婚しなければならないわけでもない。
約束なんてことを言い出せば、妹とだって子供の頃から数え切れないほどの約束を交わしてきた。
具体的に覚えてるものなんてほとんどないけど。
夢はそこで途切れて、俺の意識はふたたび眠りに落ちていった。
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