06-06
ある朝、妹に体を揺すられて目を覚ますと、部屋には幼馴染とタクミがいた。
「プールに行こう」
幼馴染が楽しそうに言う。
仕方なく起き上がり、全員を追い出して着替える。プール。そういえば水着はどこにやったんだったか。
準備を終えてリビングに下りる。妹が朝食を作っていた。
なぜだか幼馴染たちの分まである。食べて来い。いや、別にいいのだけれど。
どうやら屋上さんたちには既に連絡してあったらしい(というより俺以外の人間にはあらかじめ知らされていたようだ)。
集合時間に合わせて移動する。主導したのは幼馴染だった。
彼女は妙にはしゃいでいる。もともと暑いのが苦手で、泳ぐのが好きというタイプだからか。
市民プールにつくと、駐輪場の屋根の下に三姉妹がいた。
このあたりにはあまりプールがないので仕方ないのだが、このプールはあまりよろしくない。
男子更衣室の窓が割れてたりする(ダンボールで補修されている)。
けっこう狭い(というか狭い)。
人気があまりない。人があまりいない。
言っても仕方ないことだし、とりあえずプールには違いないのだが。言い方を変えれば穴場でもある。
学生の身分では入場料は高くつく。妹の分と自分の分を払う。タクミの分は幼馴染が払った。
俺が出すかとも考えたが、それは少し違うだろう、と自分で否定する。
更衣室はとうぜん男女で分かれているので、タクミは俺が引き受けることになった。
よく考えると男女比が2:5。
倍以上。恐ろしい。
やっぱり更衣室の窓は割れていた。まさか女子更衣室の窓まで割れているとは思わないが、これはちょっとした怠慢ではないだろうか。
着替えを終えてプールに出る。
タクミと一緒に軽めの準備運動をする。女勢はまだ時間がかかりそうだった。少しの間待機する。待つ時間は苦にはならなかった。
更衣室から最初に出てきたのは後輩とるーだった。
次いで妹。少し間をおいて幼馴染。一番遅かったのは屋上さん。
立ち並ぶ女性陣からとっさに目を逸らすと、幼馴染が不思議そうに首をかしげた。
「なんでそっぽ向いてるの?」
「眩しいから」
童貞には強すぎる光なのです。
当然といえば当然だが、水着姿を積極的に見られたい女子はいないようで、みんなあちこちに散らばっていった。
おかげで目のやり場に困るようなことはなくなったが、少しばかり残念という気もする。
まじまじと見ることなんて、どうせ出来やしないのだが。小心者だから。
「でも先輩、ちゃんと見ないとだめですよ」
後輩がからかうように言う。
「よせ、俺を弄ぶな。分かってるんだぞ、どうせ実際に見たら見たで変態扱いされて両方の頬に平手打ち食らう展開が待ってるんだ」
「やー。でもほら、水着って見られることを想定して選ぶものですし」
「そんなわけあるか。男にあんな露出の激しい格好見られたいと思う女がどこにいる」
俺は目を覆った。童貞には刺激が強すぎる。下手をすると大変なことになる。主に下腹部周辺。
「そこまで拒否されると、何としても見てもらいたくなるんですけど」
「じゃあほどほどに見るから早く泳ぎに行くんだ」
後輩は仕方なさそうに去っていった。
取り残されたのは俺とタクミの二人で、彼は俺の方をちらりと見て、やれやれというみたいに肩をすくめた。
子どもに子ども扱いされた。
そう間を置かず、幼馴染とるーがタクミの名前を呼んだ。彼は返事をして駆け出す。プールサイドを走るな。
一人取り残される。
「……なんだろう、この寂しい感じは」
仕方ないので一人で泳ぐことにする。
子供たちは底の浅いプールで水をかけあってはしゃいでいた。
楽しそう。
幼馴染と後輩が、るーとタクミの面倒を見ていた。
妹がいないことに気付いて探す。流れるプールで流されていた。
屋上さんはどこだろう、と周囲を見回すが、みつけられない。
「何してるの?」
と思ったら、後ろから声をかけられた。
「いや、何してるのというか」
普通に驚く。
とっくにどこかに行ったものと思っていた。
「屋上さんこそ何をしておられるのか」
「いや、みんながどこにいるかわかんなくて」
「なぜ?」
「視力が……」
そういえば、彼女は眼鏡をしていたっけ。
「普段はコンタクトなの?」
「そう」
納得する。確かにプールで泳ぐのにコンタクトをするわけにもいかないだろう。
視力が悪い人って、水泳のときはどうしているんだろう。度の入ったゴーグルでもあるんだろうか。
「ぜんぜん見えない」
彼女は目を細めてなんとか周囲を見ようとしていたが、効果があるようには思えない。相当悪いらしい。
とりあえず屋上さんを幼馴染たちと合流させる。さすがに近くまで行けば分かるだろう。
「お兄さん、どこにいくんですか?」
すぐさま退散しようとした俺を、るーが目ざとく見咎めた。侮れない。
「泳いでくる。二〇〇メートルくらい」
「二往復ですか。がんばってください」
別に水着だからと過剰に意識しているつもりはないのだが、かといってあんまり近付くのも気まずい。
いや、だって、ねえ?
恥ずかしいし。
男の恥じらいなんて気持ち悪いだけだけど。
水着って露出多いじゃん。
見てるこっちが恥ずかしい。
小学生の頃、漫画を読んでいるとき、誰に見られているわけでなくとも、ちょっとエッチなシーンがあったら読み飛ばしていたものだ。
ああいう気持ち。
競泳用プールをきっちり二往復してから、周囲を見回す。ちょうどウォータースライダーから落ちてくる後輩の姿が見えた。
そういえば、大人びてはいるけれど、あいつだって中学生か。俺たちとはひとつしか違わないけれど。
……今年受験じゃね?
考えないことにした。
子供向けの浅いプールに、膝まで浸して座った。
運動自体久々だったせいか、全身がさっそく痛み始める。
これはまずくないだろうか。
運動不足。
何か手を打たねばなるまい、とひそかに思った。
不意に、足が引っ張られる。
何事と目を向けると、るーが俺を水の中に引きずり込もうとしていた。
目が合うと、彼女はにっこりと笑った。
天使の笑顔だった。超癒される。でもやってることは小悪魔レベル。
もし深いプールだったら洒落にならないところだ。
「るー、泳げるの?」
「泳げません」
彼女はにっこりと笑った。
「……練習しようか」
「いやです。怖いです」
「中耳炎か何かとか?」
「健康そのものですけど」
「泳ごう」
「だめです! 水の中って息できないんですよ? 宇宙みたいなものじゃないですか! 息ができないと人間って死んじゃうんですよ!?」
意味不明の言い訳をされる。宇宙とはわけが違う。泳げるようにできてるわけだし。
「いいじゃん、教えてもらいなよ」
後輩が気安げに言うと、るーは絶望的な表情になった。
だんだんかわいそうになってくる。
「溺れなければ大丈夫だから」
「泳げないから溺れるんだよ?」
「練習しないから泳げないんだよ」
るーはしばらく抵抗を続けていたが、結局諦めたようにうなだれた。力が抜けて体が浮く。おもしろい。
「ひとごろしー……」
「人聞きの悪い」
「ひとごとだと思って」
「ひと繋がりはもういいから」
水の中で遊ぶこと自体に抵抗はないようだし、犬掻きくらいは出来ている。
つまり、顔をつけるのが怖いのだろう。
顔を洗うときに洗面器で息とめてみたりしないのかな。
いや、普通の人がするものかは分からないけれど。
力を抜いて身体を浮かすくらいのことはできている様子。
借りてきたビート板を持たせる。
「はい、手を伸ばす」
「……怖いんですけど」
「水はともだち。怖くない」
なるべく優しい声音で言う。
逆に警戒されてしまったようだった。なぜ?
「息を止めて顔を水につける。ちょっとでいい」
るーは本当にちょっとだけしか顔を水につけなかった。
どうしたものか。
根気か。根気しかないのか。
俺がどう教えたものかと途方にくれていると、横合いからタクミが現れた。
「無理しなくてもいいんじゃない? 泳げないと死ぬってわけでもないし」
るーは救いの神を見つけたかのように瞳を輝かせた。
なんだこの態度の違い。
「いいこと言った。今、タクミくんはいいことを言いました。お兄さん、スパルタはもう終わりです」
「あれー? なんだろうねこの俺が悪者みたいな空気は」
スパルタというつもりはなかったのだが。というか、最大限の優しさをもって接したつもりだったのに。
ビート板か。ビート板が悪いのか。やっぱり浮き輪にするべきだったか。
打ちひしがれてプールからあがる。なんだこの徒労感は。
うしろから、るーに声をかけられる。
「冗談ですよー?」
分かってます。プールサイドでは屋上さんと妹が並んで休んでいた。
るーとタクミは幼馴染たちに任せて、ふたりのところに行くことにした。
「つかれた」
妹がぼやいた。
濡れた髪。一通り泳いだ様子だった。もともとあんまり運動が得意な奴じゃないので、長時間泳ぎ続けるのはつらいのだろう。
屋上さんの方は髪の毛先が少し濡れている程度で、あまり水泳後という感じがしない。
「泳がないの?」
「私、からだ動かすの苦手だし」
今日の目的の根底を覆す発言だった。いつも陸上部で軽快に走ってるのに。
「せっかくなのに?」
「うん。せっかくだから流されてきた。流れるプールで」
「どうだった?」
「寒い」
そりゃあ身体を動かさなければそうだろう。
◇
満足行くまで遊んでから、プールを出る。ふたたび更衣室前で別れて、ロビーで集合した。
一緒に昼食をとることになったが、人数と時間帯の面で考えるとあまり行ける場所が思いつかない。
仕方が無いので、俺の家に集まることになった。なぜか。
帰りに食料を求めてコンビニに寄る。近頃本当にコンビニばかりだ。まずいような気がする。
幼馴染とタクミは一度帰ることにしたらしく、まっすぐ帰路についた。
残された俺と妹、三姉妹は、暇を持て余す。
「つかれたー」
家に帰ってすぐ、妹がソファに倒れこむ。珍しいことだ。普段だったら客人の前でこんな姿を見せたりはしないのに。
それだけ疲れていたのか、それだけはしゃいだのかのどちらかだろう。
しばらくゆっくりとした時間が流れる。妹はともかく、るーと後輩まで、いつのまにか眠っていた。
残された俺と屋上さんは、互いに何も言わずに押し黙った。
何を言えばいいやら。
付けっぱなしのテレビの音量を下げる。台風が近付いているらしい。
沈黙に耐えかねて、屋上さんに声をかける。
「アイス食べる?」
「うん」
彼女の返事は短い。
落ち着かない。
距離が縮まっているようで、やっぱり縮まっていないような。
アイスをかじりながら、また黙る。
ふたたび口を開く。どうも気まずい。
「屋上さん、課題進んでる?」
「終わってる」
「……あ、そう」
早めに済ませるタイプらしい。
どう話を続けるべきか。
……こうなると、そもそも会話する必要があるだろうか、という気分になる。
屋上さんは会話がなくても平然としていて、むしろ俺が話しかけたときほど居心地悪そうにしている気がする。
「あのさ」
不意に彼女は口を開いた。緊張したように表情が強張っている。
まずいことしたかな、と思考を巡らせた。そう考えると山ほど落ち度があるように思えてしまう。
「いや、別にそういうんじゃなくて」
「そういうのって?」
「だから、その、さ」
彼女は何かを言いたそうにしていた。何かを言いたいのだけれど、上手く言葉にできないような、もどかしそうな表情。
「私、あんまり人と話すの、得意じゃないというか」
「……うん」
相槌を打って、続きを待つ。急かすような態度をとらないように、そっけなくなりすぎないように注意しながら。
「だから、別に、話すのが嫌とかじゃなくて」
ゆっくりと、なんとか伝えようともがくみたいに、彼女は言った。
――人と話すのが、あまり得意じゃない。
「……うん。なんかもう、上手く言葉にできないけど、そんな感じだから」
彼女はそれを最後に、また言葉を切った。
また沈黙。その静けさには、さっきまでとは違う意味があるように思えた。
彼女が、人との会話を難しいと思っていることは分かった。
でも、それを今言ったのはなぜだろう。
深読みすれば、とても都合いいように解釈すれば、「話すのを嫌がっていると思われたくない」となるわけで。
それはつまり。
深読みすれば。
過大解釈すれば。
自惚れるなよ、と内心で自分に言ったが、頬がゆるむのはどうもこらえられそうにない。
「何ニヤニヤしてんの?」
屋上さんが怪訝そうに眉を寄せる。
「いや」
短く否定する。彼女は仕方なさそうに溜息をついた。言ったことを後悔しているのかもしれない。
俺は浮かれそうになる気持ちを意識して押さえ込んだ。
どうせこの後、なんかよくないことが起こるに決まってる。
予定調和。
あるいは、俺の勘違いでしかないとか。
屋上さんの発言に、俺が考えてるような意図はなかったとか。
そのはずなのに、何分経っても、妹が起きて、後輩が起きて、るーが起きて、三人が並んで帰るときも、そのあとも、ちっとも悪いことは起こらなかった。
けれどその翌日、妹が風邪を引いた。
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