05-02
終業式は暑い日だった。
あまりの暑さにほとんど記憶がない。
帰り際に誰かに話しかけられたが、そのときにはもうほとんど意識がなかった。
あんまりにも頭がぼんやりするので、早々に家に帰ってソファに寝転がっていた。
目を覚ましたときには夕方で、俺は自分が夏休み直前に風邪を引いたことに気付いた。
「体調管理……」
幸先が悪い。
そういえばテストが終わってからも、原付の免許の勉強をしていたのだ。
簡単だとは聞いていたけれど、さすがに知識も何もないのでは話にならない。
それに不安もあった。勉強は多めにしておくに越したことはない、と感じた。
全身がだるい。
食欲がない。
頭痛がする。
寒気。
こりゃ風邪だ。
咳が出る。
熱っぽい。
喉がいがいがする。
苦しい。
「あうえ……」
謎の声が出た。
身体がだるくて動かせない。ソファに倒れこんだまま目を瞑る。
しばらく寝ているのか起きているのか分からない時間を過ごす。
喉が痛い。
洟が大してひどくないのが救いといえば救いだが、暑くて息苦しいのは変わらない。
これは早めに寝たほうがいいだろうと判断して、ふらふらになりながら自室へ向かう。
ベッドに倒れこむ。本当にひどい。風邪だと認識したとたんに具合が悪くなってきた。プラシーボ効果。
瞼を閉じてから、薬を飲めばよかったと舌打ちした。
しばらくすると、妹が帰ってきたのが分かった。建てつけが悪いのか、うちのドアは開け閉めするときに大きな音がする。
そのうち祖父に頼んで見てもらおうと思っていたが、いつも忘れる。
妹は誰かと一緒に帰ってきたらしい。話し声が聞こえる。リビングに置きっぱなしの鞄を見て文句をこぼしているようだった。
蝉の鳴き声が、いつのまにか蛙の鳴き声に変わっていた。
目を開くと、周囲は思ったより暗い。想像以上に長い時間休んでいたらしい。
少しだけ身体を起こす。そこまでひどくない、と判断する。喉だけが痛み、あとはだるさと熱っぽさだけだ。
階段を登る音。妹がカーテンを閉めながら部屋に近付いてきた。
部屋のドアが開けられたとき、それまで遠くに聞こえていた足音を近くに感じた。
「どうしたの?」
「風邪気味なのです」
げほ、と咳をする。
妹を追いかけるようにふたつめの足音が近付いてくる。
幼馴染がいた。
「……俺は果報者ですなあ」
「ひどい声だよ」
渾身の冗談をスルーされた(半分本音だった)。
「熱はかった?」
「計ってない」
「起きれる?」
「あー……まあ」
「食欲は?」
「あんまし」
風邪なんて引いたのは久しぶりだ。
「雑炊つくる?」
「ぞうすいはー」
苦手だった。猫舌だから。
ここぞとばかりにわがままを言う。
「できればミカンとか桃とかそういうアレな缶詰とか……」
「後で買ってくるけど、ご飯は?」
「今はたべられぬー」
布団にくるまる。
「じゃあ後で雑炊つくるから」
「うん」
苦手だけど、食べないと治らない。
「もうちょっと身体が強ければいいのにねえ」
ちょっと疲れが重なるとすぐに風邪を引いてしまう。普段はなんともないのに。
「いったん風邪引くと弱いからね、お兄ちゃんは」
妹は呆れたように溜息をついた。
「とりあえず、着替えた方いいよ」
制服のままだった。
だるさを押して身体を起こす。その場で着替えようとしたとき、幼馴染がいることに気付いた。
目が合う。
「いつまで見ておられるのか」
「妹ちゃんもいるし、私もいいのかなって」
何の話をしているのだろう。
「マナー。デリカシー」
目で語りかける。
照れられた。なぜ?
「恥ずかしがることないのに」
子供の頃はビニールプールで裸になって遊んだ間柄ではあるが、今となっては昔のことだ。
幼馴染を追い出して寝巻きに着替える。中学のときのジャージ。
「だーるい」
なぜだか口調まで変わる。
だるい。
携帯を見る。キンピラくんからメールが来ていた。
『暑いな』
しらねえよ。
俺は手短に返信した。
『むしろ熱い』
即座に携帯が鳴った。
何者だ。
『熱いな』
一旦寝て、明日「ごめん寝てた」とメールすることにした。
メール文化って馴染めない。
体温計で熱をはかる。
三十八度三分。
「平熱!」
「何バカなこと言ってんの?」
怒られた。
妹が料理をするためにキッチンへ向かう。なぜか幼馴染が部屋に残った。
「なにしにきたの?」
幼馴染は変な顔をした。
「妹ちゃんと話をしに」
「話、ですか」
せっかくの終業式の午後に。
そういうこともあるだろう。
「一緒に買い物してて、帰るの遅れたんだ。ごめん」
なんで謝るんだろう。
「風邪、うつるから。早く帰ったほうがいいよ」
幼馴染は頷いたけれど、すぐに立ち去ろうとはしなかった。
「どしたの?」
彼女は何か迷うような表情をしていた。
やがてそれを断ち切るように顔を上げて、俺の方を見た。
「ごめん、やっぱり帰るね」
「言いかけて止める癖、やめろよ」
ちょっと本気で言った。
幼馴染は苦笑して応える。
「ごめん。なんか、言いたいことはあるんだけど、自分が言うべきことじゃない気がするんだ」
分からないでもない。
そのあたりの線引きは難しい。
俺と幼馴染が、家族のように育ったとしても家族ではないように。
どこまで踏み込んでいいかは難しい。
「なんだよ。遠慮すんなよ。俺らの仲だろ」
寂しさを紛らわすためにわざと茶化した。彼女はそれを無視して部屋から出て行こうとする。
「明日、お見舞いくるから」
「缶詰買ってきて」
距離を測りかねている、と思った。
線引きが難しい。
でもまぁ、しかたない。
どうせこれから散々悩んでいくことになるんだろうから、今気にしたって損だ。
幼馴染が帰ったあと、少しの間眠っていた。熱のせいでぼんやりとする頭で、ぐるぐると考え事をしていた。
その考え事はまどろみの夢に反映された。
夢が心象をあらわすというけれど、俺が見る夢は示唆的というよりも直喩的だ。
「私、童貞の人とはお付き合いできないの」
心底申し訳なさそうに幼馴染が言う。
「お兄ちゃん、いまどき童貞とか、さすがにないよ」
心底残念そうに妹が言う。
そして二人は誰かと一緒にいなくなる。
いなくなる。
置いてけぼりの気持ち。
いつかいなくなってしまうこと。
不安。
バカみたいだ。
でもなくならない。
困った。
風邪をひくと弱気になってしまって困る。不安になる。
とても一人が怖くなる。
まどろみの中で、夢はかすかな変化を遂げる。
いなくなった誰かは、いつのまにか両親に取って代わられた。
いつまで待っても帰ってこない人たち。
泣いて追いかけても追いつけない人たち。
置いてけぼりの気持ち。
両親が本当に仕事で忙しかった頃、俺と妹は二人で祖父母の家に預けられた。
彼らはよく面倒を見てくれたのだと思うが、今でもときどき夢に見る。
引き離された感触。
眠る直前まで傍にいた人が、目を覚ませばいないこと。
置き去り。
意識が不愉快な記憶を反芻し始めた頃、俺は浅い眠りから覚めた。
目を覚ましたのは携帯が鳴ったからだった。キンピラくんからメール。無視するな、という旨。それを無視する。
うなされていたようだった。滲んだ冷たい汗を拭って溜息をつくと、妹がちょうど食器を持って部屋にやってくる。
「雑炊ですか」
「うん」
妹はベッドの脇に腰掛けて食器を膝の上に乗せた。熱そう。
スプーンで雑炊をすくって、息を吹きかけて、冷ましてから、俺の口元にそれを運ぶ。
「手、動くから」
「いいから」
「よくないから」
昔風邪を引いたときに、祖父母が似たようなことをしてくれた。だから俺もまた、妹が風邪を引いたとき似たようなことをしたわけだが。
さすがにこの状況は想定していない。
でもまぁ、せっかくだし、人生経験で何が役に立つかも分からないので、一応受け入れることにした。
「美味しい?」
「美味しい」
恥ずかしいけど。
「ずっと体調悪かったの?」
「別に」
身体がだるいのは暑さのせいだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
「もういいよ、あとは自分で食べるから」
「だめだよ」
何がだめなのか。
結局最後まで妹はスプーンを放そうとしなかった。
逆の立場になったときは存分に世話をしてやろう。
せっかく病気になったのだし、上手く使えないものかな、と打算。
ちょっと卑怯かな、と思いつつも。
「なあ」
妹は俺が寝るまでいるといって部屋に残っていた。
俺たち兄妹には基準にすべき家族がいない。お互いがお互いの模倣をする。
だから、互いに対する態度は自然に似通う。性格や立場が大きく言動や態度を変えることはあっても、本質的には似たものになる。
「写真立ての中の、二枚目の写真、なんなんだ?」
妹は少し迷ってから、立ち上がって部屋を出て行った。少しして戻ってきたときには、手には写真立てを持っていた。
「お姉ちゃんにも、同じこと聞かれた」
言いながら写真立てを差し出してくる。なんだか不満そうだった。
受け取って、写真を取り出す。
――見なかったことにした。
「なんか言ってよ」
「何を言えばいいやら」
「私がバカみたいじゃない」
「いやまぁなんといいますか」
若かりし頃の僕と妹の写真でした。
「自分が写ってない写真しか寄越さないからわざわざ二枚入れてたのに」
「……なんといいますか」
「全員だったら文句はなかったのに」
ひょっとして写真立てを渡したときに微妙そうにしていたのもこれだったのだろうか。
そのあと、少しだけ話をした。俺は気付くと寝ていて、特に夜中目覚めるようなこともなかった。
悪い夢も見なかった。
なんだかな、と思う。
些細なことで浮いたり沈んだり、ちょっとだけ疲れる。楽しいんだけど。
とりあえず、そのうちまた写真でも撮ることにした。風邪が治ったら。
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