03-04


 家に帰ってから、机に向かってテスト勉強を始める。

 といっても、教科書を眺めるだけだ。またPSPを起動する。いやになってすぐにやめた。


 携帯を開いてディスプレイの時計を確認する。五時。まだ早い。

 本当は今すぐにでも電話をかけたかったけれど、まだ出先かもしれない。

 それを思うと夜まで待つべきのように思える。

 

 気持ちを落ち着かせなければ。飲み物を求めて台所に行く。妹が料理の準備を始めていた。


 冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。冷たさが喉を通って身体を伝っていく。緊張は解けなかった。


 電話の発明は相手の家まで行く手間を解消してくれたが、インターホンを押すのに必要な勇気までは肩代わりしてくれない。

 呼び出しボタンに指をあわせると心臓の鼓動が強まるのがその証拠だ。


 六時になる頃に妹が夕飯の準備を終えた。ひさびさに、母の帰りが早かった。何週間か振りに一緒に食事を取る。

 食事の量は足りる。妹はいつも、少し人数が増えても足りるくらいの量を作るからだ。

 妹の気持ちはよく分かっていたから、俺も二人分には多すぎる量を黙って食べた。それがいつも。


 ときどき、母か父かのどちらかと食事が一緒になると、妹はすごく喜ぶ。目に見えて上機嫌になる。

 大抵、帰ってきたとしても、そのときには俺たちが食べ終えているから。

 上機嫌になったあと、両方そろえばいいのに、と考えて、また落ち込む。見てれば分かる。


 母は妹の料理をべた褒めした。学校での様子を聞いた。

 仕事の方が忙しくて、と寂しそうに呟いた。俺も妹もそんなことは知っている。


 分かってるよ、と妹は返事をする。学校はふつうだよ。家事はもうとっくに慣れたよ。心配しないで。


 仕事を一生懸命こなす両親。

 尊敬と感謝を持って接するべき人。

 悪い人たちじゃない。


 夫婦仲も家族仲も悪くない。


 ままならない。

 文句があるわけじゃない。

 時間ができれば、こうやって俺たちと一緒にいようとしてくれる。

 それでなくても仕事熱心というのは尊敬に値することだし、おかげで金銭面でもなんら不自由のない生活を送れている。

 充分すぎる。

 言いたいことがないわけではないが、それを言葉にするにはあまりに長い時間が経ちすぎた。


 一緒にいる時間だけが、圧倒的に足りなかった。

 俺だけならどうにでもなる。

 妹のことを思うと、どうも気持ちが暗くなる。


 食事を終えて、部屋に戻る。一緒にトランプをしたがる母に、用事があるからちょっと待ってて、と言い訳した。


 そう長い話にはならない。

 

 言うことは決まっている。確認するだけ、だ。それなのに、やっぱり心臓は痛いほど脈打つ。


 ボタンを操作する指が、いつものように思い通りに動かない。

 それでもなんとか番号を呼び出す。


 通話ボタンを押した。


 耳に電話を当てる。断続的な音が、やがて呼び出し音変わる。そういえば今は食事時かもしれないな、といまさらながら思った。

 でももうかけてしまった。


 長い時間、同じ音を聞いていたような気がする。

 電話に出た幼馴染の声は、少しだけ固くなっていた。


「もしもし」と言葉を交わした後、沈黙が訪れる。何から話せばいいのか分からない。


「珍しいね。えっと……なに?」


 彼女の声にハッとする。何かを言わなければならない。

 俺は直球に話を進めることにした。


「今朝、何かを言いかけてたなと思って」


 少し卑怯だったかもしれない、と思う。でも、自省的な思考は後回しでいい。


 幼馴染が何かを言おうとしたのが分かる。けれど彼女は、すぐにいつもの調子に戻って茶化すように笑った。


「あれは――ごめん。なんでもなかったの」


 声に動揺が浮き出ているのが分かる。長い付き合いだから。


 彼女が言葉に詰まる様子が目に浮かんだ。気まずそうな表情。電話口でも気配だけで想像できてしまう。


 もういいや、言っちゃえ、と思った。間違っていたとしても俺が恥を掻くだけだ。


「――偽装なんだろ?」


 幼馴染が息を呑むのが分かった。

 しばらく沈黙があった。耳鳴りがしそうな静寂。時計の針の音が聞こえそうなほどだったけれど、ここに時計はなかった。

 不意に、前触れもなく、

 

「……よく分かった、ね」


 幼馴染がそれを認めた。ほっと息をつく。なぜだか、すごく安心していた。


「今朝、言おうとしたのって、それか?」


「……うん」


 できれば詳しい話を聞きたかったが、俺がそれを訊ねるのはおかしいような気がする。

 けれど幼馴染は、自分から事情を話しはじめた。


「先輩の友達の、女の先輩がいるじゃない?」


 先輩の交友関係には詳しくないが、おそらくメデューサだろう。


「あの人にしつこく付き合ってって言われて、困ってる、って先輩に言われて。それで……」


「それで?」


「……付き合ってるふりをしてくれ、って」


 押しに弱い幼馴染のことだから、最初は渋っても、しつこく言われ続ければ引き受けてしまう。

 たぶん、周りに流されたところもあるのだろう。

 先輩がどのような言葉を用いて幼馴染の協力をとりつけたかは、だいたい想像がつく。

 部活動に集中したいこと、そのために誰かの協力が必要だということ、そう長い期間は必要ないこと、迷惑はかからないこと。


「最初は断ったんだけど……」


「断りきれなかった」


「……うん。それで――」


 ――それで、付き合っているふりをはじめた。


 それだけのこと。


 先輩とメデューサが何のつもりかは分からないが、まだ何か含みはありそうだ。

 だとしても、幼馴染の認識でいえば、ただそれだけのこと。


 ただの偽装。

 それを確認できたことに、深く安堵する。


 話を終えたあと、また電話口に沈黙が降りた。お互いの呼吸の音が聞こえる。彼女が息を吸うのが聞こえた。

 幼馴染は、覚悟を決めたように話し始めた。


「ほんとは、さ」


 その言葉に思わず眉間が寄る。何か彼女にも含みがあったのだろうか。


「私、先輩の提案を、積極的に受けたの」


 一瞬、思考がフリーズした。

 数秒置いて、胸の中で暗い気持ちが膨れ上がるのを感じる。


 冷や汗が滲む。電話を持つ手の力が抜けてしまいそうだった。

 

 続く言葉をあらかじめ予想しておく。先輩が好きだったから、先輩と偽装でも付き合えるのは嬉しかったから。

 こうしておくとあらかじめ防壁を張っておける。でも現実は、いつだって想像の上をいく。防壁など、大抵は貫いてしまう。

 俺は覚悟を決めて瞼を強く瞑った。


「友達に、一度、相談したの。そしたら――」


 話がよく分からない方向に進む。俺の想像とは違う方向に。

 俺の想像した通りだとしたら、友人に相談する意味はない。


「――ちょうどいいんじゃないかって」


「ちょうどいい?」


「だから……その」


 幼馴染はそこで言いよどんだ。


「誰かと付き合うって話になったら、何か、反応するかなって」


「……反応?」


 俺の反芻に、彼女は心底困ったように「ああもう」と唸る。


「だから、やきもち妬くかなって」


 誰が? ――と、訊くのはやめておく。

 内心で自分が期待し始めたことに気付いたからだ。

 それは自惚れかもしれない。

 臆病といわれても、聞き返す勇気はなかった。


「で、どうだったんだよ。反応はあったのか?」


 もう考えるのがいやになって、やけになって適当なことを言った。


「……充分すぎるほど」


 偽装だってことになると、たとえば月曜の朝の、


『……童貞、なの?』


 という言葉には、別に経験済み的な意味はなかったことになる。


 脳内シュミレーション。幼馴染の立場。


 朝、教室に入る。静まり返ったなか、マエストロの声が響いている。


『このクラスで童貞は、サラマンダーと、俺と、それからおまえだけだ』


 扉を開けた瞬間に聞こえる衝撃的な発言。

 混乱していると、俺と目が合う。


 何かを言わなきゃ、という気分になり――


『……童貞、なの?』


 思わず鸚鵡返し。

 まさかそんなばかな。


 シュミレーションを続ける。


 火曜日の発言。


『おまえなんて、おまえなんて、サッカー部のなんかかっこいい先輩といい感じになってあげくのはてに卒業してからも一緒にいればいいんだ!』


『……祝福されてるのかな?』


 このとき周囲にはクラスメイトたちがいた。


 偽装を頼まれている立場からして、否定的な言葉を出すわけにもいかないだろう。

 やけに冷静だったところを見ると、ひょっとして俺の反応を楽しんでいたのかもしれない。――それは自惚れか。


 こうやって判断していくと、何もおかしいことなんてなかったような気がする。

 自分の思い込みのせいで勝手に落ち込んでいたんだろうか。ひどく馬鹿らしい気分になる。


 気にかかるのは、


『おまえと結婚の約束をした記憶なんてないッ!』


『私もないよ?』


 このやりとりくらいか。

 彼女は本当に忘れてしまったのだろうか。


 俺が考え事にふけっていると、幼馴染は電話の向こうであくびをかみ殺した。

 まだ八時にもなっていないことに気付いて愕然とする。もっと長い時間、電話していたような気がした。


「――明日、先輩に言おうと思う」


 幼馴染は眠そうな声で言った。


「やっぱり、あの話はなかったことにしてください、って。みんなに嘘つくのも、疲れちゃったし」


 悪女だ。

 悪女がいる。

 学校中を騙してみせたあげく、「疲れちゃった」なんて理由でやめようとしていた。


「ごめんね、心配だった?」


 からかうように、幼馴染は言った。


「馬鹿言えよ」


 俺は見栄を張った。

 ふたりで一緒にひとしきり笑った。


 また、互いに言葉を失う。何かを言わなければならないような気がした。


 言っちゃえよ。頭の中で誰かが言った。好きって言っちゃえよ。

 頭の中のもうひとりが言った。それでいいのか? 勢いと雰囲気に流されてないか? おまえは幼馴染が好きなのか?

 冷静な声に情熱的な声が反論する。馬鹿おまえ、好きじゃなかったらこんな内容の電話するわけないだろ。

 

 不毛なやりとりが何度も繰り返される。その間、俺はずっと黙っていた。

 やがて、幼馴染はしびれを切らしたみたいに言葉を発した。


「それじゃ……」


 名残を惜しむような声だった。俺は何かを言おうとして、やめた。


「ああ、うん……」


 電話を切ると、物音ひとつしない自分の部屋に戻ってきた。今まで、どこか遠い場所にいたような気がした。

 そのあとで、幼馴染の言葉を思い出した。


『――明日、先輩に言おうと思う』


 ……馬鹿だ。

 明日は土曜だし、テスト前だから部活もない。

 ひとりでクスクス笑ってから、また考え事にひたる。


 何で何も言わなかったんだろう、と自問する。

 本棚から一冊の文庫本を取り出した。ブックオフで百五円で売っていた小説。

 冒頭にはこんな一節があった。


 ――なににもまして重要だというものごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。――


 俺はこの言葉を盾にとって自分を慰める。多くを口に出せないとき。何かを言い損ねたとき。言い訳に使う。

 それでもいつか、誰かに何かを告げなければならない場面は来る。


 考える。

 今回は結局、幼馴染に彼氏ができたわけではなかった。


 でも、もし仮に、本当に幼馴染に恋人ができたとき、どうなるのだろう。俺は祝福するのか、後悔するのか。

 子供っぽい独占欲と恋愛感情との区別を、俺はいまだにつけられていない。


 今回は偽装を偽装と確認するだけでよかった。

 でも、もし今後そうではなく、「本当の」交際相手などというものが現れたら、幼馴染を取り返すなどということはできはしない。

 このところさんざん悩んでいたように、苦しみながらも折り合いをつけていくことになる。


 だから、判断しなければならない。

 俺はいったい、誰が好きなのか。


 幼馴染を取り戻そうとした感情が、もし子供っぽい独占欲だったなら、それは何の為にもならない。決別しなくてはいけない。

 選ばなくてはならない。そもそも、幼馴染の恋愛に口を出す権利など、俺は持ち合わせていないのだから。

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