Track2 敵状視察(後)

## 05


 その世界は魔王によって滅びの危機に瀕していた。魔界が人間界を浸蝕し、世界中に〈穢れ〉が蔓延していた。

 紛うことなき、滅びの光景。希望などありはしない、灰色の空の下。

 それでも運命に抗おうとする人々が、その世界にはいた。


「……ねぇ、旅人さん。あなたがここに来たのはきっと、この世界を救うためなんだわ」


 赤髪の女性に抱かれて、今、一人の少女が命を失いつつあった。

 少女は魔界勢力に対抗するためだけに育てられた孤児だ。老齢の魔術師の元で、人の心というものをまるで感じさせない、ひたすらに効率のみを突き詰めた修行を強要された、一個の兵器、だった。


 喜怒哀楽——あらゆる感情を喪失した兵器しょうじょはある日、「死の湖」からのそりと上がってくる裸の女性を発見する。人間が「死の湖」に浸かって兵器なはずがない。魔物や〈穢れ〉のたぐいだろうと判断した彼女はすぐさま裸の女性を粉砕した。

 ありったけの聖術をぶつけ、そして最後にスキル:ドレインを使用してその全てを己の糧とする。

 スキル:ドレイン——追い詰められた人々が開発した、魔族を殺せば殺すほど強くなるシステムである。

 そうして、存在のすべてを吸収した、はずだった。

 だが、その女性は、淡い赤髪の女は復活した。何度殺しても、どれだけ厳重に浄化の聖術を使っても、彼女は滅びない。死なない。

 困惑と焦燥の果てに、少女はゆっくりと、彼女本来の喜怒哀楽の感情を取り戻していった。幾度となく殺した相手とも仲良くなって、その姿はさながら姉妹のようであった。


 ——だが、感情の回復は兵器しょうじょの寿命の到来を意味していた。

 人間の保有する魔力は、感情の影響を受けやすい。スキル:ドレインによって器からこぼれ寸前のところまで蓄積されていた少女の魔力。そこに、感情という振動が加わり波を立てれば、魔力は器から溢れて少女の肉体に甚大なダメージを与える。


 魔力として身体に貯め込まれたあらゆる〈穢れ〉はまたたく間に少女を蝕んだ。そして遂には、どこにでも湧いて出てくるような低級魔族相手にも敗れるほどに衰弱し……彼女は死ぬこととなった。


 赤髪の女性が慟哭する。


「……どうしてっ! 私が、殺されても死なないことは……君が一番よく知ってるはずだろ……?」

「旅人さん。あなたは、痛くないわけでは、ないのでしょう……?」

「だからって…………」

「……ああ、見えないわ。あなたの顔、最期にもっとよく、見たかったのに」

「イヴァンナ——」


 少女——イヴァンナはにこりと微笑んだ。


「ねえ、旅人さん。どうか、勇者さまと一緒に、この世界を、救っていただけないかしら……私の、ような、死んだまま生きてる子供が、もうこれ以上、生まれなくても良くなるように」

「無理だ、私は……」

「大丈夫よ。こんなにもあったかくて、しょっぱい雨が、降ってるんだから……」

「なにを、言って……るんだよ。なあ。目を覚ましてくれよ。魔力が足りないのなら、私がいくらでも囁く! いくらでも捧げる! だから、だから……」

「……………………」


 少女は、返事をしなかった。安らかな顔で、永い眠りについていた。


 ——果たして、何の因果か。


「大丈夫か、そこの娘」


 顔を拭って、顔を上げる。そこには身長の割にやけに尊大な態度の少年がいた。青髪に金の瞳。どこか高潔な印象を与える。


「——む。そうか、魔族にやられたか……すまない。俺がふがいないばかりに」


 少年は膝をついて頭を下げた。名も知らぬはずの、少女の亡骸に向かって。


「墓は作ってやれないが、せめて弔わせてくれ。この終わりゆく世界では人の心など軽んじられて久しい。それが間違いとも言えないが……我らの矛であり盾でもある魔力とて、心から生まれるものだ。哀しみも歓びも怒りも憎しみも、あらゆる感情を背負って、俺は戦いたい」

「君は……」

「ああ、失礼した。まだ名乗っていなかったな。俺の名はスラヴァ=ガルデュア。この世界の希望を一身に背負う、聖剣クォデネンツに選ばれた勇者だ。……君の名は?」

「——私、は」


 少女の亡骸に目をやって、彼女は答えた。


「私はイヴァンナ。——君が本当に勇者なら、お願いだ。私も同道させてくれ。この子の遺志を継いで、戦いたい」


## 06


「イヴァンナァァァア!!!! 貴様がっ、貴様が逃げたせいで、世界は——ッ!! 許さん! 許さんぞイヴァンナァァァァ!!!」


 悲鳴のような叫びは急速に近付いてきていた。カイマンが遅いのか、それとも向こうが速いのか——それを考える時間すら、異世界の勇者は与えてくれなかった。


(——え?)


 背後をうかがうティーノの視界から、スラヴァの姿が一瞬にして消えた。そして、彼の声がティーノの背から聞こえてくる。


「貴様は、今日こそ討つ」


 ティーノは振り返ってその姿を確認した。セナの背後にスラヴァは立っていた。


(瞬間移動……っ!?)


 まさか、とは思うがセナの言を信じるなら彼は異世界からの来訪者。この世界の常識では考えられないことだって起こせてしまうのかもしれない。


 ——逃げよう。今すぐに、あいつから。


 瞬間、ティーノの脳裏にセナの囁きが蘇る。


(そうだ、逃げないと……一緒に、逃げないと……)


 軽い催眠状態に陥ったティーノは考える。どうすれば、逃げられるのか。


(カイマンの背から飛び降りる? 論外だ。……逆に、落とすんだ。あの子供を。……大丈夫、【紅玉瞳】を使うまでもない。下手すれば殺してしまうかもしれないけれど、だ。彼は今、僕を認識していない……これなら……!)


 小さく、ティーノは詠唱を開始した。


「——カタチなせ、万象の宿り木。其は時の移ろいに従い、彼の者を吹き飛ばすモノなり」


 ティーノの視界の中で、いくつもの氷のつぶてが作られていく。それらはやがて大きく、柄のない木槌ハンマーのようになり、風を纏って、スラヴァめがけて飛んでいく。


「——氷連槌」


 詠唱が完了しても、スラヴァがティーノの方を認識している様子はない。異世界の勇者だとは言うが、危機察知能力は低いのか。ティーノは不意打ちの成功を確信した。


 ——ヒュン。風を切る音がした。


 だから、ティーノは目を疑った。先ほどまで、たしかにスラヴァめがけて飛んでいた氷の槌は、一瞬にして、そのすべてが消え失せたのだから。

 どこに消えたのか、と目を凝らして気付く。

 パラパラと、スラヴァたちの足下に散乱する氷のつぶての存在に。


「……無駄だよ、少年」


 セナが言う。


「彼の持つ聖剣クォデネンツは因果律すら捻じ曲げる、絶対迎撃の聖剣。彼を攻撃するものは、すべてその、鞘に納められた聖剣によって切り刻まれてしまう…………」

「そうだ。ゆえにもう、無意味な抵抗はやめろ。イヴァンナ」

「ああ、無意味だ。少年。……彼に攻撃は無意味だ」

「——っ!」


 攻撃は無意味。その言葉の意味するところを、ティーノは察知した。


(攻撃は無意味……なら、攻撃しなければいい! でも、ということは——)


 結局のところ、またしてもティーノは右目に、【紅玉瞳】に頼らなくてはならないのだった。

 深く、ため息をつく。ややわざとらしいのは、セナへの不満が半分、作戦が半分。

 そして、大声で文句を言った。


「そういうことはっ、先に言って下さい!!」


 眼帯を外し、前髪を掻き分け、真紅の輝きを秘めたその瞳を見せつける。

 これでもスラヴァがティーノのことを無視するのならどうしようかとも考えたが、その心配は不要だった。


「…………っ」


 スラヴァは、ティーノのことを目障りな羽虫程度には認識してくれていたらしい。顔をこちらに向けて、【紅玉瞳】を見た。


 【紅玉瞳】を見た者は、瞳の持ち主を神だと認識する。彼の目に、ティーノはどう映るのか。彼がいた、異世界の神か。それとも——


「べ、ベロボーグっ!? な、なぜここに!」


(ベロボーグ……? 【白き破滅】のことか……?)


「ニホンでの用事はもう済んだのか!? まだ時間がかかりそうだと、言っていたではないか!」


 困惑しながらも歩み寄ってくるスラヴァの後ろ、セナがティーノに向けて手招きしていた。


(ん……? あれは……ジェスチャー?)


 その手の動きを見るに、セナはこう言いたいらしい。


 ——少年、少年。さっさと落ちるように命じて。


「……ええ、と。ひとまず、ここは私に任せてお前は今すぐ飛び降りて、今日一日、海でも満喫していなさい。二人きりになりたい」

「そ、そうか……。ベロボーグが、そう言うのなら……うん、そうしよう」


 戸惑いつつも、スラヴァはカイマンの背から飛び降りた。


 しばしの静寂が、訪れる。


「……行った?」

「そのはず、です。……瞬間移動で戻って来たりしませんよね?」

「今すぐここを離れれば平気なはずだよ。カイマン、全力で退却だ」

「Cwrr」


 メネシカ大陸の山嶺が離れていくのを見て、はーっ、とセナは大きなため息をつく。その様子を見るに、スラヴァは彼女にとってかなりの脅威らしい。


「……彼の瞬間移動は、視界に収めた場所か、あいつ自身の魔力が浸透したモノの付近にしか、移動できないんだ。だから、急いで離れれば、大丈夫なはず……」

「でもそれって、魔力が浸透したモノをカイマンの背に落とされてたらマズくないですか?」

「…………。君、こういうことには意外と頭が回るんだね。どうかなカイマン? 違和感とかある? 針を刺された気がするとか、そういうことは」

「Cwrrr!!」

「え? ない? 本当に? ウソついたら焼肉パーティーするよ?」

「Cwrrr!! Cwrr!」

「……分かった分かった。信じるよ。すまないね、疑ったりして」

「Cwrrrrrrrrrr…………」

「いや潔白を証明するって……どうするつもりなんだよ……」


 脅威が去ったからか、セナはカイマンとなごやかに談笑(?)していた。しかし、ティーノはとても、二人のように暢気してる気持ちにはなれなかった。


 あらゆる攻撃を迎撃する剣と瞬間移動能力を持つスラヴァと、魔術に秀でたメネシカ帝国。【白き破滅】と敵対するということは、おそらくこの両者を敵に回すことなのだ。


「……勝ち目がない。そう、思ってくれているのかい、少年」


 まるで心を読んだかのように、セナが言った。


「たしかに、このままじゃあ私たちに勝機はない。だが、今回の敵状視察で我々は少なくない情報を手にすることができた。まず、その点について整理してみよう」


 ◆


 分かったことは三つ。


 ①メネシカ大陸のドラゴンと先住民は使徒化済み。

 先住民に関しては推測でしかないが、ほとんど間違いないと見て良いだろう。

 ちなみに、カイマンからの情報によれば、彼らは「神からの啓示」というかたちで奴の命令を受けとるらしい。


 ②今、この世界に【白き破滅】は来ていない。

 奴はここではない別の世界で何かをしているらしい。……正直、不安がないではないが、今は奴の不在を喜ぶべきだろう。


 ③君の【紅玉瞳】は奴のと同じもの。

 スラヴァの反応を見るに、スペック面で劣るということはないはずだ。


 ——同時に、疑問点も浮上する。


 まず、なぜ奴は私が来る前のこの世界に先回りして、使徒を作っていたのか。他の世界ではそういうことは、一切なかった。初めてだよ、こんなことは。


 次に、奴は日本で何をしているのか。

 ああ、ちなみに日本というのは私がここに来る前に訪れた世界にあった国の名だ。そこで私は大学生をやっていてね、同人音声なんかを少し——いや、思い出話に花を咲かせてる場合じゃないな。

 ともかく、私を差し置いて行動するとは奴らしくない。一体なにをしようとしているのか、正直言って不気味だね。


 ◆


「——と、まあ。謎は出てきたけれど、収穫はたしかにあった」


 それでも、ティーノの顔色は晴れないままだ。


「でも……戦力差があまりにも大きすぎませんか……これをなんとかしないと……」

「なんだ。よく分かってるじゃないか」

「え?」

「数は力だ。まずは味方を作るところから始めよう。……そうだね、国を味方につけることができれば、心強そうだ」


 スケールの大きさに面喰らったティーノは、愛想笑いを浮かべて、セナに尋ねた。


「……それ、本気で言ってます?」

「…………」


 セナはニコぉ……と、粘着質の笑みで答えた。言葉はなかったが、力強い肯定だった。


「というわけだ。少し視察をしよう、少年。大丈夫、カイマンがいれば夜明け前には帰れるから」

「い、いやいやいや! そんな……突然すぎませんか!?」


 ——くぅるるるるる……。

 ティーノが拒絶した瞬間、彼の腹が鳴った。


「よぉし! それじゃあ料理のおいしい国に行こう! 少年、どこに行きたい?」

「はぁ……それじゃ、エルゴグランデでお願いします」

「そこは、料理がおいしいの?」

「料理については知りませんけど、師匠がそこにいるはずなんです」

「君の師匠というと、もしかしてあのメイドの子を作った……」

「はい。ヴェリーゼが、そこにいます。あの人はフォウステス大陸全土で一目置かれるほどの魔術師みたいですから、きっと、味方にできればとても心強いと思いますよ」

「なるほどね」


(とはいえ……)


 ティーノは不安だった。ヴェリーゼの強さについては、ほとんど疑う余地がない。ヴェリーゼに対するブレーゲラント軍の態度を見ていれば、それは分かる。

 問題は、協力してくれるのかどうか、だ。


(ヴェリーゼは、ぼくにウレギエの森を脱出できるような魔術は教えてくれなかった。それは、軍とそういう〈契約〉をしたからなのかもしれない。ヴェリーゼとしても、本意ではないかもしれない。……だけど、もし)


 そうでなかったとしたら?

 ティーノの現状が、彼女の望みなのだとしたら?


「………………」


 不安から、ティーノは閉口してしまう。

 海を見て、別の大陸にまでやってきて。自由というものを味わえた気がしていたのに、心は未だに牢獄の中に囚われているかのようだ。

 どこにでも行ける。なんでもできる。

 ——そんな言葉が、呆れるくらい遠い。


「大丈夫だよ、少年」


 ティーノの不安を知ってか知らずか、セナは彼の背を軽く叩いた。


「私はこれでも、累計で100万人以上を慰め、甘やかしてきた経歴の持ち主でね。そっち方面に関してはけっこう自信があるんだ」

「……なんですかそのいかがわしいセリフは」

「い、いかがわ……しくは、ないとは言い切れないな、うん。だがまあ安心してくれ。君が望まないのならいかがわしくない方向でもやれるから。……だから、君の師匠が協力してくれなかった時のことは、今は考えなくていい」

「……そう、ですね。ありがとうございます」

「君は、私にとって必要な存在だからね。簡単に心を折らせてはあげないから、そのつもりでいてくれ」

「ひどい人ですね」

「よく言われる」


 セナのことを、心の底から信頼することはまだできない。彼女が色々なものを抱え、隠していることは間違いないのだ。

 しかも、囁きの一つで、他人の意思や記憶を操作してしまうほどの能力の持ち主。仮に信用に値する人物だと判断したとして、と問われれば、熟考せざるを得ない——そんな存在だ。

 だが、彼女がティーノを必要としていることは紛れもない事実なのだろう。

 今回の一件で、その点については確信が持てた。

 ゆえに、ティーノは思う。


 ——もしかしたら本当に、いつか。自分自身の意思でセナに協力すると決める日が、来るのかもしれない——と。

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