いろはにほへと

矢凪祐人

いろは歌

 色は匂えど  散りぬるを 


 我が世誰ぞ 常ならん 


 有為の奥山  今日越えて 


 浅き夢見じ  酔いもせず



 小学生だった頃、学校の授業でいろは歌を覚えるというのがあった。

 国語の授業中、若い女性担任が黒板の前で教科書を広げ、そこに書かれたいろは歌を読み上げる。それに一拍おいて生徒が復唱する。それを何回か繰り返した。


 その頃の僕らは、控えめに言っても扱いやすいものではなかっただろうと思う。生徒の中には、授業に集中できずに、気になる女の子にちょっかいを出している子もいたし、もらったプリントの隅に落書きをしている子もいたし、隣の子と最新ゲームの話で盛り上がっている子もいた。そんな騒然とした教室の中で、担任教師は時折疲れた顔を見せながら、それでも声を張り上げて、熱心にその古風な詩を読み上げていた。教師の読み上げを復唱するのは生徒の三分の二ほどであったと思う。僕は左端の一番後ろの席に座っていて、復唱しながらその教室をぼんやりと眺めていた。


 季節は秋のはじめ頃で、少し開いた窓から涼しい風が時折教室を横切り、窓際にいた僕のプリントを弱くはためかせた。時刻は午後二時を過ぎた頃で、眠気を誘う柔らかな陽光が、雲の関係で強くなったり弱くなったりしながら教室を覗いていた。どこか遠くの方からカラスの鳴き声が聞こえた。僕は復唱しながらも、うとうとし始めていた。


 そんな時だった。突然、窓の方で小さくがさっという音がした。その音は非常に小さかったので、教室の騒然とした中ではほとんど聞こえないようなものであった。ざっと周りを見回してみても、その音に注意を払っている人は僕以外にいないようだった。


 気になって窓の方に目をやると、窓の中央に紙が張り付いているのが見えた。風に吹き付けられるせいで、紙が窓にへばりついているらしい。その紙は風にあおられ、ぱたぱたと窓を叩いていた。

 僕は復唱を続けながら、何処かからやってきたその紙を注意深く見た。すると、その紙には何やら文字が書いているようであるということがわかった。僕は何が書いてあるかを見るために、少し窓の方に身を寄せてその紙を観察した。


 手で書かれた横書きの文章であるらしい。目を細めてそれを見て、『〜な〜ず〜した』と書いてある部分がかろうじて読めた。これではよくわからない。窓の中央にある紙は、座っている位置からだと上の方になるため、少し見にくかった。僕は少し腰を浮かせ、その紙を凝視した。途中で復唱するのを思い出して、「酔いもせず」と呟いた。窓からは強い風が吹いていた。


 文頭から読んでいき、『あなた〜』まで読むことができた。僕はもっと目を凝らしながら、教師に続いて「色は匂えど」と繰り返した。そろそろ窓から吹く風が弱くなっていた。このままだと、窓についた紙が落ちてしまう。そうすれば紙に何が書いてあったかわからなくなってしまう。後で外に出てこの紙を見つけようとしても、風に吹かれて何処かへ行ってしまっているだろう。僕はこの紙に書かれていることがとても気になり始めていた。


 僕は、一瞬だけ腰を高くあげ、その紙の近くまで顔を寄せることにした。周りを見て、誰も気づかなそうな瞬間を狙う。僕は教室の中では真面目な生徒という評価を受けている。変なことをしてそのイメージを崩したくない。僕は慎重に周りを見回した。

 「散りぬるを」。教師に続けて言う。僕は、教室の中での皆の視線のうねりを注意深く観察する。全員の視線の先が、ちょうど窓際から離れる瞬間を探した。僕はなおも復唱を続けた。その間に、いろは歌は一周していた。


 じっくり見ていると、視線の総和には、ある程度の規則性があるということが分かった。全員の視線の動きの最小公倍数で動いている。その寄ってはかえす波のようなものを、じっと眺める。そしてじわじわと窓際への視線が最小に近づいていくのが分かってきた。僕は腰を上げる心の準備をしておく。


 「常ならん」


 今だ、と僕は思った。ちょうど皆の注意が窓のあたりから外れた。僕は音を立てないように、しかし素早く腰を上げ、紙の方へ顔を近づけた。

 まだそこに紙はあった。弱い風の中、ぎりぎりまだ窓に引っかかっていた。僕は紙に書かれているものを読んだ。


『あなたのことがずっと好きでした』


 そこには恋の告白が書かれていた。おそらく、その紙は誰かから誰かに送られたラブレターであったのだろう。しかしそこには差出人の名前も受取人の名前もなく、ただアンダーラインの引かれた紙に、想いが載せられただけであった。僕がその手紙に書かれていた文章を読み終えたあと、自分の役目が終わったことを悟ったかのように手紙は風と共に何処かへ去った。書かれていた文字が、網膜に焼き付いたみたいに長く視界をさまよった。僕は呆然としながら、なんだか恥ずかしい気持ちになった。そして自分が立ちっぱなしであったことを思い出し、腰を下ろしながら、誰かに自分が変なことをしていたことがバレていないかを確認するために周りを見渡した。

 そしてある生徒と目があった。その女子生徒は、僕の席から桂馬を一つ動かした位置に座っていた。彼女は僕と目があった時、びっくりしたような顔をしてその後そっと微笑んだ。頬にはえくぼができた。彼女は窓の方を指差し、「すごいもの見ちゃったね」とでも言うように形の良い眉を上げた。僕も同じように窓を指し、「ラブレターだったね」とでも言うように微笑んだ。束の間、時が止まったような拍があり、その後に彼女は前に向き直った。教室は元の時間の流れを取り戻し、騒々しくなった。僕は少し遅れて「浅き夢見じ」と繰り返した。


 窓の外で起きた一連の不可思議な出来事の目撃者は、僕だけではなかったようだ。


 彼女は内気な女の子で、ほとんど周りと関わりを見せない生徒だった。僕の方も、そのような子に話しかけられるほどの積極性を持っていなかったため、一度も話したことがなかった。あの出来事があったあとも同じで、僕と彼女は一度も友達のような関係にならなかったし、話すこともなかった。


 それでもあの出来事があった後から、ふとした瞬間に目が合ってしまうことが何度かあり、その度に僕らはぎこちなく目を伏せた。目を合わせても、あの時の微笑みは一度も戻ってくることはなかった。

 僕らは小学校を卒業し、それぞれ違う中学校へ行くこととなった。それで僕と彼女の時々あった気恥ずかしい視線の交差も永遠になくなった。



 僕には以上のような、いろは歌をめぐるある秋の日の、行き先のない恋文と束の間の共犯者の微笑みについてのささやかな記憶がある。この記憶は気まぐれに僕の無意識から飛び出す。その度に僕は、ある秋に散ってしまう花を思い浮かべる。そして思わず口ずさんでしまうのだ。

「色は匂えど 散りぬるを」と。






 

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いろはにほへと 矢凪祐人 @Monokuro_Rekishi

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