第1話
アイリーンは死を視ることのできる少女だった。
この堕技のため両親に忌避され、とある宗教家に売り飛ばされた。
それから五年。アイリーンは十三歳となり、宗教家は自らの宗教を起こし、教主となった。
教主はアイリーンの死を視る堕技を利用し、この国でも有数の大宗教の祖に成りあがったのだ。
籠の鳥。アイリーンにはなにひとつ自由はなかった。
ひたすら死を視ることを強要された。
彼女は巫女として祭上げられたのだ。西国では珍しい東洋人の血を引いていることもあり、その凛とした容姿を保ち、さらに神秘的に見せるため、髪の一房さえ切ることを許されなかった。
ただ家畜のように利用されるためだけに生かされる。
だが、彼女は他に生き方を知らなかった。
それでも、心のどこかで絶えず自由を求めていた。
そんな彼女に転機となるできごとがおこった。
アイリーンはいつものごとく死を視続けていた。人に触れる。するとアイリーンの瞳が緋色の光を宿し、その者の死期が視えるのだ。近く死ぬ運命にある者は、死の場景そのものが視えた。死期を視間違うことはあっても、死の場景を視間違うことは決してなかった。必ずそれは現実となった。
アイリーンは死を視ることに嫌気がさしていたが、それを拒否することもできず、今日も一日が終わろうとしていた。窓の外にはすでに星が瞬き、刃のような薄い三日月が顔をのぞかせていた。
教主に連れられ廊下を歩く。これから自室に戻されるのだ。そこは外側から鍵がかけられるようになっており、窓には鉄格子がはめられている。アイリーンは自分の意思で部屋の外にでることすらかなわない。
前を歩く教祖は、初めて会ったときは痩せた貧乏学者のような風貌だったが、この五年で肥え太り、身なりも成金悪徳貴族のようである。彼の周囲には常に十人単位の私兵が警備を固めており、今もぞろぞろと引き連れて歩いている。まるで荒れくれ者を率いているようでもある。
アイリーンはそれらを空気のように認識しながら長い廊下を歩いていた。不意に膝から力が抜け、身体がよろけた。死を視るには多大な精神力を消耗するのだ。自分でも気がつかないうちに相当疲れていたらしい。
バランスを崩した身体は教主の背中にぶつかり、支えられた。アイリーンが体勢を整える前に、教主によって乱暴に振り払われ、床に叩きつけられた。
痛みに顔をしかめて教主を見上げると、彼は怯えの色を顔全体にはりつけていた。
「……な、なにが視えた?」
その声は震えていた。
聡いアイリーンは、すぐにそれがなぜかを理解した。
教主が怯えているのはアイリーンの堕技――死を視る力。彼は自分の死期を予見されるのを恐れているのだ。
アイリーンはわらってしまった。
自分は他人の死期を予見させ、その恐怖に付け込むことで信者を増やしてきたくせに。自分の死期を言い当てられることを恐れるなんて滑稽すぎる。なによりアイリーンは彼の死を視ていない。堕技を使うときは瞳が緋色に染まるので、すぐにわかるはずなのに、そこに思い至らないほど狼狽している様が、より嘲笑を誘った。
彼女の笑みに不安を掻き立てられたのか、教主は激昂するようになにが視えたのかを急きたてた。
「あなたの死が視えたわ」
そうアイリーンが答えたことに深い意味はなかった。ただ教主に今までの意趣返しをしてやろうと思っただけだ。
「次の満月の夜。あなたは今までの罪業すべてを背負い、亡者に引き摺り堕されるがごとく、――死に果てるでしょう」
教主が絶叫した。狂ったかのように頭を振り乱し、前も見ずに走りだして、壁に激突して失神した。
唖然としたように周囲を見渡すと、私兵たちが慄いたように後退した。
アイリーンはそのとき天啓のようなひらめきが頭を支配した。
このときを逃せば、自分は一生自由になれない。逃げだすなら――今しかない。
「あなたたちの死も、――視てあげましょうか?」
アイリーンが手をかざし、手近な兵士に触れようとすると、彼は奇声をあげて逃げだした。
それが引き金となった。
場が騒然とし、混乱が巻き起こった。
その隙にアイリーンは逃げだした。
出口にむけて一直線に走りだし、五年ぶりに外にでた。夜気は冷たく肺にしみこんだが、それすらも爽快に感じた。
もう籠の鳥ではない。
アイリーンは足を止めなかった。少しでも遠くへ。気がつくとスラム街のようなところに迷い込んでいた。
息が荒い。肺が痛いく、足ががくがくしている。いままでこんなに必死に走ったことなどあっただろうか。そう考えて、神秘性を見せつけるため、ゆったりとした動作を強制されていたので、走った記憶自体がほぼ皆無だった。そう思うとここまで走れたことが奇跡のようであった。
あまりの疲労に身体が重い。
それでも、これで自由だ。歓喜があふれそうになった矢先――
目の前が真っ暗になった。
なにが起こったか、混乱する間もなく、身体が浮き、足が宙をけった。
頭から膝まで大きなズタ袋をかぶせられて、肩に担ぎ上げられたのだ。
追っ手に捕まった。
最初はそう思った。
だが自体は想像より悪かった。
「こんな上玉めったには見られないぞ」
「グズグズするな。さっさと売り飛ばすぞ」
いくら自分が世間知らずだからといっても、どういう手合いに捕まったということだけはわかった。
行く末は娼館か場末の身売り宿か。
自由になったのもつかの間、また自分は捕まり、自由を奪われる。
思いっきり足を振り回して暴れたが、屈強な男の腕を振りほどくことはできなかった。
悔しくて涙がでた。
そのとき声が男たちの歩みを止めた。
「お兄さんたち、その
声からして変声期前のものだ。
「邪魔をするなガキ……殺すぞ……ッ!」
低く剣呑な声が、場を圧した。
「殺す? ――僕を?」
それに対する声はどこか無邪気でありながら――
「やれるものなら、ご自由に」
背筋を冷やす性質を帯びていた。
「なッ、てめえ……悪魔か……ッ?」
「その呼び方は好きじゃないんだけど、そうだよ」
声はどんどんこちらに近づいてくる。
「さあ、君たちは僕を敵にまわすかい?」
返事はアイリーンを乱暴におろすことでこたえられた。
彼女は痛みに顔をしかめた。
すぐにズタ袋からだされる。
見えた顔はやわらかい笑みを浮かべる白い少年だった。髪も肌も雪のように白い。紫色の瞳と赤い唇だけが色づいていた。
「大丈夫かい?」
彼は彼女のすぐ前に膝をつき、ズタ袋を手にしていた。助けてくれたのだ。
「あなた――」
アイリーンの言葉は途中で切れた。少年の背後でナイフを振り上げる男の姿を目撃したからだ。
「あ、危ないッ!」
「死ねェ!」
警告も間に合わず、少年は首を後ろにナイフをつきたてられた。鮮血が夜闇を赤く彩り、錆鉄くさいにおいが鼻腔を刺激した。
少年の顔が驚きに染まり、紫色の瞳が血を映したような緋色へと変わった。
――因果応報――
「ぐぁあっっ!」
悲鳴は少年の背後から聞こえた。
ナイフを突き立てたはずの男のほうが苦鳴をあげ、膝から崩れ落ちるように倒れた。首の後ろから血が溢れでている。四肢が断末魔をあげるように痙攣し、やがて動かなくなった。
死んだのだ。
少年があきれたように嘆息した。
「自業自得だよ」
彼に刺された傷はない。まるで少年の傷が、暴漢であった男に移ったように。
「て、てめえッ、なにしやがったッ?」
その声はもう一人の男があげた、虚勢と怯えの混じった怒号だった。
少年は振り返りやわらかい笑みを浮かべた。
「君はそれがわからないほど愚かなのかい?」
男は怖気づいたように一歩下がる。
「悪魔の――、堕技……」
「その呼び方も好きじゃないんだけどね」
少年がより笑みを深めたのがわかった。
「さて、君も僕に、――敵対するのかい?」
彼の声の調子は相変わらず、やわらかく優しい。それなのに、なぜ背筋に悪寒がはしるのをとめられないのだろう。
男は喉を鳴らし、相棒の死体すら目もくれず、即座に逃げをうった。
少年は肩をすくめて嘆息し、アイリーンのほうを振り向いた。その瞳はいまだ緋色の光をともしていた。
「あ、あなたも、悪魔なの……?」
「その呼び方は好きじゃないって言ったはずだけど、そうだよ」
アイリーンは自分以外の悪魔をはじめて見た。
だがその堕技がどのようなものなのかはまったくわからなかった。
「属性は痛覚、性質は反射、銘は因果応報――まあ、僕は自業自得、または自縄自縛って言い方のほうが好きだけどね」
考えを読まれた?
「顔にでてたよ」
少年がわらった。
「間に合ってよかったよ。君を迎えにきたんだ」
「迎えにって、私を? ……なんで?」
「なんでって、僕もってことは――君も、そうなんでしょう?」
なにを問うているかは明確だった。
「……そうよ」
いくぶん自嘲をこめてアイリーンがそう返した。
「だったら僕たちは仲間だ。仲間を迎えに来るのに理由なんていらないでしょう?」
そういう問題ではない。
さっきの物言いだと、アイリーンが悪魔であることを知っていて、なおかつ今夜、教主の元から逃げだしてここで悪漢に捕まることが予めわかっていうかのようだった。
アイリーンはもちろんそのことを訊ねた。
「それはまた後でね」
だが彼はそこまで答えるつもりがないのか、膝をついたままアイリーンの身体にざっと視線をはわせた。
「怪我はないみたいだね、立てる?」
手がさしのべられる。
アイリーンはその手をまじまじと見つめた。いま思えば、彼女に触れようとする者など皆無に等しかった。それはそうだろう触れれば自分の死期がわかってしまうのだ。そんな少女に触れたがるものなんていない。
「いいの? わたしの堕技は触れた者の死期を視ることよ」
アイリーンが悪魔であることを知っていたのだ。堕技の性質についても知っているかもしれない。それでも私に触れるのかと問うたつもりだった。
少年は一瞬だけきょとんとした表情を見せたものの、すぐに柔和な笑みを浮かべて彼女の手を自分から掴みにいってアイリーンをひっぱりあげた。
「僕の名前はアンテ・クリスト。よく間違われるけど、姓がアンテで、名がクリストなんだ。親しい人はクリスって呼ぶよ。君は?」
アイリーンは手をとられたことに戸惑いを感じて、彼――クリスの顔とつながれた手の間を何度も視線を行き来させた。
「ア、アイリーンよ」
名前もすでに知っているのではないか、という疑問がわかないでもなかった。
「姓は?」
「……エルファ」
「いい名前だね」
「そ、そう?」
「うん、凛とした雰囲気の君にぴったりだよ」
名前を褒められるなんて初めての経験なのでさらに戸惑う。少し嬉しいかもしれない。
彼はこちらの感情なんてなんのその。より笑みを深めると、手を引いて歩きだそうとする。
「じゃあ、行こうか」
「ど、どこに行くの?」
彼は邪気のない笑みを浮かべてこう言った。
「アップルシード孤児院」
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