第6話 拝み屋

 その古びたマンションは、三浦理央の住まいから、さほど遠くない郊外にあった。

 ひび割れたコンクリートの壁に、ところどころ錆びている鉄製のドア。インターフォンだけが新しい。

 理央は、少しの勇気をもってインターフォンを押す。ほどなくして男の声がした。

「……はい」

 くぐもった、感情の見えぬ低い声。さすがの理央も緊張し、ごくりと唾を飲む。

「お約束していた三浦です」「お入りください」

 ドアノブを握り、力を込める。ギイイという不吉な音を立ててドアが開く。

 鬼が出るか蛇が出るか。

 靴を脱ぎ、板張りの廊下を歩く。歩くたびミシミシと嫌な音がする。

 突き当りの扉をそっと開けると、そこはモノクロの世界だった。


 黒いタイル貼りの床、灰色の壁。

 広さは十畳ほどはあろうか。真ん中に白いテーブルと向かい合わせの黒い椅子が二脚、ぽつんと置かれている。

 奥にドアが一つ。左側に台所に通じると思われるドアのない入り口がある。

 まるで、古いモノクロ映画の中に紛れ込んでしまったようだ。ただ、不思議な事に全く嫌な感じがしない。まるで神社にいるような、清浄な空気が流れている。

 それはとても不思議な、ちぐはぐな印象を与えた。


 台所から、黒いコーヒーカップを二つ手にして、男が現れた。

 長身で痩躯、その顔はろうのように白く、伸びた真っ黒いくせっ毛が、あちこちに自由にはねている。よれよれの黒いシャツと黒いズボン。この男もまた、全身モノトーンなのだ。マントでも羽織ったら、まるで昔の映画に出てくる吸血鬼のようだ。

「こちらにどうぞ」男が口を開いた。

 理央は黙ってテーブルに向かい、椅子に座る。男は、理央の前にコーヒーカップを置いた。そのカップの中身もまた、闇のように真っ黒なコーヒーである。

 男が理央の前に座る。

「三浦理央さんですね」愛想も感情も抑揚もない声。

「はい」理央は返事をし、顔を上げて男の顔を見る。あっ、と声を上げそうになった。

 男の目、そこだけが色付いている。明るいとび色の瞳。生き生きとした、強い生命力を思わせる輝く瞳。

 この人は信用できる、と、理央は瞬時に判断し緊張を解く。根拠はまるでない。ただ、人を見る目には自信がある、それだけだ。


「無料でいいんですよね?」

 にっこり笑って念押しする理央に、男は多少たじろいだように見える。

「相談だけだったら無料だって……」

「たしかに、相談だけなら無料、そう書きました。しかし……」男は少し言い淀む。

「あなたは当事者ではない。という事はですよ?この事案が仕事になるかならないかは、理央さん、全てあなたにかかっている」

 さも重大そうに言う男に、理央は笑い出しそうになるのをこらえた。その見た目でそんな事を気にしますか!と思わず問い詰めそうになる。

「あなたが当事者であれば、お話次第で、まあ説得と申しますか、仕事として成立させる事はたやすい。相談だけなら無料というのはそういう事です。しかし、あなたが当事者でないとなると……ご本人をちゃんと説得していただけるんでしょうか?拝み屋に依頼しろ、はらってもらえと」

 拝み屋なる男は、心底困ったように眉根を寄せている。

「それはあの、任せてくださいというほかは……。あ、お砂糖あります?」

「ありませんよ!」

 ケチくさいなあ……、と、理央はバッグから、いつも持ち歩いているコーヒー専用のスティックシュガーを取り出した。輸入食品店で買った、少しだけ高価なものだ。封を切りコーヒーに入れる。拝み屋の目が、じっと注がれている事に気付いた。

「いります?」嫌味っぽく聞き、バッグからもう一つ取り出す。

「ください」

 拝み屋が手を出したのは意外だった。いらないと言うと思ったのに。スティックシュガーを拝み屋の骨張った掌に乗せた。

「もう一つください」

 図々しいな、と思ったが、二つ目を拝み屋に差し出す。

 拝み屋はシュガーの封を切り二つともコーヒーに落とすと、胸にさしていたボールペンでぐるぐるとかきまぜた。理央は、スプーンを貸してくれという言葉を諦めた。

「甘いな!」

 一口飲んで吐き捨てるように言う拝み屋に、そうでしょうねと心で相槌を打つ。

 手に持ったコーヒーカップを気休め程度にぐるぐる回し、理央も一口飲んだ。意外にも酸味と苦みのバランスのとれた、美味しいコーヒーであった。


「えーっと、拝み屋さんとお呼びすれば」「乾です」拝み屋は答える。

 そうだ、確かそんな名前だったな、と、理央は、オカルト関連の掲示板で見た文面を思い出す。

「相談だけなら無料で承ります。拝み屋乾」

 そんな短い文面に飛びついたのは、拝み屋、という何やら古風でオカルティックな単語に、どうしようもなく惹かれたからだ。

「あの、拝み屋さんって、霊能者とは違うんですか?」

「厳密には違いますが、説明するほどの事ではありません。それに、私が拝み屋を名乗るのに深い意味はないんです。私、二代目なもので。祖父が拝み屋を名乗っていたので、そのまま継いだんです」

「おじいさんの跡を?へえ~」

 なおも無駄話をしたそうな理央の言葉を乾が遮る。

「霧子さんの事を話してください。なるべく正確に、順を追って」

「どこからお話すれば……」

「全部です。あなたと霧子さんは、どういうご関係でしょうか」

 理央は、池のほとりで、霧子に声をかけた日の事を思い出す。

「霧子ちゃんは大学の同じゼミで、でも最近までそんなに仲良くなくって。私から声を掛けたんです。神代霧子ってかっこいい名前の子がいるなあって思って」

「ほう……」乾が感心したように呟く。

「名前、目の付け所はいいですね。名前はね、重要なんですよ」

「へえ、どう重要なんです?」

「人間を構成する要素として、ね。お名前とお顔を拝見すれば、だいたいどんな人間なのかわかります」

 面白そうだなと、理央は俄然興味を持った。姓名判断みたいなものか。

「じゃあ、例えばあたしはどんな人です?」

「三浦理央、理央」

 乾は目を細めてじっと理央を見る。

 理央は、わくわくしながら乾の言葉を待った。

「リオのカーニバル……」乾が呟いた。「は?」

「つまり、君はそんな人ということです。ご存じありませんか?ブラジルの」

「知ってますけど……」

 裸に近い格好で、どんちゃかどんちゃか踊ってるアレだろう。つまりあたしは、お祭り女って事か?当たってるような気もするが、何だかなあ……。

「じゃあ、乾さんの名前は?」

「私ですか?私は恭一郎といいましてね。父と母と祖父から、一文字ずつもらっているんです」

「で、つまり?」

「先祖から頂いているモノが、いささか重すぎる、と」

 まだ、何か聞きたそうな顔の理央を、恭一郎が押しとどめる。

「話が脱線しました。戻りましょう。霧子さんの話を聞かせてください」


 理央の話を、乾は相槌を打つ事もせず、ただ黙って聞いていた。理央をじっと見つめる目は、肯定されている、受け入れられていると感じさせる輝きを持ち、理央をリラックスさせた。

 一通り話し終え、沈黙が訪れる。

 感情を表に出さなかった乾が、少し興奮気味に切り出す。

「一番重要なのは、だ。その千春という女性を殴っていた霧子さんには、実体があった」

「実体、ですか?」

「うん。現に殴って怪我させているんだから」

「普通は実体ってないものなんですか?」

「そうだねえ……」

 乾は、そこで冷めたコーヒーを口に運ぶ。「甘い」

 飲むたびに甘い甘いと口にする。

「コーヒー、入れ直したらどうです?」

「いや、いいの。頭脳労働には、糖分が必要だから……」

 ぶつぶつと言い、また一口飲む。

「甘いな」白い顔を少ししかめて、カップをテーブルに置く。

「その、暴力をふるっていた方の霧子さんが本物だという可能性はありませんか?」

「えっ!」

 思いがけない問いに、理央は少し混乱する。そんな事、考えた事もなかった。

「でも、両方に実体があるという事は、どっちが本物の霧子さんかわからないですよね」

 乾の言葉に、なるほどと思うが。

「いえ、それはさすがに」

 その事だけは、ちゃんとした確信がある。

「千春を殴っていたのは、本物の霧子ちゃんではないです」

「どうしてそう言い切れるんです?」

「性格」勢い込んで言う。

「性格が違います」

 そうだ、性格だ。あの二人は性格が真逆だ。だいたい、霧子が不機嫌になったり怒ったりした事など、一度だって見た事がない。

 千春にどんなに理不尽に責められても、例え暴力を振るわれても、縮こまって黙って耐えている、それが本来の霧子のはずだ。

「ふうん、それは興味深いですね」乾が呟く。

「あの、ドッペルゲンガーっていうやつでは……」

 理央はオカルト好きだ。オカルト掲示板に常駐し、拝み屋と出会えたのはそのおかげである。自分なりに、霧子の事象を分析したりもしていたのだが。

 しかし理央の見識を、乾は即座に否定する。

「いや、それはない。おそらく生霊の類でしょう」

「生霊……」

 理央は黙り込む。霧子の生霊?そんな恐ろし気なものを出現させるような子には、とうてい思えないが。

「特に珍しくはないんです。生霊ってのは」

 どうという事もないというふうに、乾は続ける。

「今回は特に、恋愛のトラブルが絡んでいるでしょう?よくあるんだなあ、相手を愛するあまりというよりはね、相手を思い通りにしたいという、強い執着心からですね」

 あの霧子が、それほど激しい感情を抱くだろうか、理央には全くピンとこない。

「生霊自体は、さして珍しいモノでも、厄介なモノでもないんですが、しかしね」

 乾はここが肝心というふうに続ける。

「実体がある生霊、これは非常に珍しいです。だいたいがぼうっと霞のような存在で、相手を監視をしたり、悪さをするにしても憑りついてちょっとした不運を招いたりする程度なのですが、直接殴る蹴るというのは、聞いた事がないですね。その霧子さんの霊力がよほど強いのか……」

「どうしたらいいんでしょうか」と、問う理央に、乾は姿勢を正した。

「祓います」

「祓えるんですか」「もちろん」

 乾は初めてにやりと笑顔を見せた。

「だから理央さん、私を霧子さんに会わせてください。私がお話して、納得していただきますから。どうか、お願いします」

 なんだか必死だな……と感じ、少し不安になる。拝み屋と名乗るからにはもっとこう、毅然としていて欲しいのだが、いかにも商売に繋げたいという気持ちが前面に出過ぎていやしないか。

「乾さん、もしかしてお仕事ないんですか?」思うより先に、口に出していた。

「ありませんね!」

 乾が吐き捨てるように言う。

「全くありません!」

 大変ですねとか、言った方がいいのだろうかと、理央は困惑する。

「こんな事態は全く想定外だったのですが」

 突然、乾が身を乗り出し、早口でまくしたてる。

「実は私、先月帰国したばかりでして」「え、どちらにいらしたんですか?」

「いろいろです」

 イライラした様子でコーヒーを口に運ぶ。「甘いな、いろんな国を放浪してまして。金が心もとなくなって帰国したんですがね。もう、引く手あまただと思っていたんですよ。祖父が、その世界ではかなり有名でしたし、まともな……」

 また、コーヒーを一口飲む。

「甘い!まともな拝み屋など、絶滅しているわけじゃないですか、日本は」

「そうなんですか?」「そうですよ!」

 乾は憤りを隠せないといったふうに、ため息をつく。

「はっきり言って、ここまで生きるのが大変な国はそうそうありません。自殺者の数もトップクラスです。人々の不平不満、妬み嫉みてんこ盛り。で、帰国してみたら、そこらじゅう不穏な霊魂だらけじゃないですか。これはしてやったりとね!いや、してやったりは言い過ぎか」

 拝み屋などに相談する人が、そうそういるわけないじゃないか、理央は少し呆れ気味に目の前の男の様子を伺う。

 だいたいあなた、怪しすぎますよ、とは、さすがに言えないが。

「どう思います?」

 乾にいきなり問われ、賛同を求められているとは思ったが、ここは心を鬼にして、はっきり言ってやった方がいいと決意する。

「乾さんにお仕事を頼む人は、そうそういないと思います」

「えっ……!」

 乾は心底驚いたような表情を見せた。

「なぜ!」「なぜって……」

 乾の反応に、理央は内心の喜びを隠すように、落ち着き払って咳ばらいをする。

「だいたいオカルトなんて時代遅れだし、拝み屋なんてわけのわからない職業の人に、相談なんかしたら騙されそうだし」

 乾は、ぽかんとして理央の言い分を聞いている。

「それにあなた、思いっきり怪しいです!」

「怪しい?私が?」

 さすがにショックを隠せない様子の乾が、少し気の毒になった。調子に乗って、少し言い過ぎてしまったかもしれない。

 何かうまい言葉でフォローしなければと考え、突然ひらめいた。

「そうだ乾さん、占い師になればいいんですよ!」

「占い師?」

 先ほどの名前についてのくだりを思い出す。

 話の信憑性はわからないが、乾の口調には、占い好きの女子を満足させる程度の説得力はありそうだ。我ながらいい考えだと思ったが、乾は心ここにあらずといった様子である。

 構わず、理央はたたみかける。

「いいですか?今の日本で、例えばオカルティックな困り事が起こったとしますよ、まず相談するとしたら占い師です。特に女子だったら絶対!」

「……そうなんですか?」

 乾は全く心を動かされないというように、あらぬ方向を見つめている。

「それに占い師だったら、あなたのその、怪しい風貌も活かせるわけですし!」

 理央の失礼な物言いに、さすがに乾は少しムッとしたようだ。

「私は寒いのが苦手なんです!そんな私に、街角に座り込んで客引きをしろと?」

 理央は呆れて黙り込んだ。いったい、いつの時代の占い師をイメージしているのだろうか。街角にちんまり座り、水晶玉を覗き込む乾の姿を想像した。

 そして、ふと、乾はいくつなんだろうと思った。20代といっても通用するが、40代と言われてもさほど驚かない。

「乾さんって、いくつなんですか?」

 乾が、さも不快だというように顔をしかめた。

とし、関係あります?」

 そして、理央を見下すように顎を上げ、強い口調で言い放つ。

「はっきり言いますがね、こう見えて私は実力、頭脳、霊力いずれも日本のトップクラスです。あんまり舐めないでいただきたい」

「あ、若いんだな」と、理央は得心した。

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