第4話 迷宮
夜の高級住宅街は、まるで書き割りのようだ。
美しく整えられた街路には生活感がまるでなく、凝ったデザインの
台無しだ、と、
千春を家まで送って、玄関先で手を振って別れた。都内の一等地に建つ豪邸。これは慎重に行こう、と決心した矢先であった。
千春が家に入るその瞬間、直也の電話が着信を知らせた。静かな住宅街に、マナーモードのバイブ音は意外に大きく響く。千春もその音に気付いたようだ。
出なければ不自然に思われると、しぶしぶ電話に出た。
千春が見ている。
直也は、笑顔で手を振り、なるべく自然にその場を離れようと、ついつい早足になる。舌打ちしたい気分だったが、貼り付いたような笑顔のまま、スマホに向かって、はいと答えた。
背後でドアの閉まる音がした。ホッと息を付き、通話相手の女を傷付けるために、より効果的なひどい言葉を吐く。タイミングが最悪なんだよおまえは!と、心の中でも罵倒する。
相手が黙ったところで電話を切り、駅を目指して足早に歩いた。
彼女が目の前に現れたのは、その時だった。ついさっき電話をしていた相手の女が。
その女は、100mほど先に黙って立っている。暗い街路の中央で、スポットライトのような白い街灯に照らされているが、俯いているために表情はよく見えない。
直也は思わず立ち止まる。表情が見えないのに、刺すような視線を感じる。背筋がゾクリと寒くなる。
「A駅の時計台の下にいる」と、あの女は確かに言った。A駅はここから40分はかかるはずだ。なのに、なぜここに?それに、どうして俺がここにいるのを知っている?まさか、尾けられていた?
それよりも何よりも、何だかおかしな違和感を感じる。本能が、何かが違うと危険信号を発している。女は、
直也は、くるりと背を向けてその場から去った
◇ ◇ ◇
霧子は、乳白色の霧の中に佇んでいる。頭が混乱し、考えがまとまらない。いったいどこで間違えたのか、思い出そうとしても、何一つ思い出せなかった。
手を動かし、無理やり霧を払ってみるものの、粘り気のある白い霧は次から次に身体にまとわりつき、視界を覆い隠す。
いつの間にか、そこは例の森であった。霧が深く濃い。やみくもに前に進み、足が生温かい水に浸かる。あっ、と思い立ちすくんだ。湖の水に片足が浸かっている。
青白いの湖の表面に、湯気のような霧がゆらゆらと立ち上る。目を凝らして彼女の姿を求める。そこでやっと異変に気付いた。
彼女が、もう一人の私が、いない。
沈んでしまったのかと、湖を見回す、が、何の痕跡もなく、途方に暮れる。
物心付いた頃から見てきた彼女が、姿を消した。
スマホが着信を知らせている。霧子はハッとして我に返った。
A駅前の時計台の下。もうどのくらいの時間そこに立っているのか。すでに会社帰りの乗降客も少なくなり、どこからか音程の外れたカラオケの音と、騒ぎ立てる酔客の声が聞こえてくる。
スマホを取り出す。暗闇で、直也からだと知らせる文字が光っている。慌てて電話に出た。
「おまえ、いい加減にしろよ!」
いきなり怒鳴られた。
「えっ……」わけがわからなかった。冷え切った喉から、うまく声が出せない。
「A駅にいるとか、ウソじゃねえか。なんなの?尾けてきたわけ?」
状況が飲み込めない。彼は何か誤解しているようだ。
「私……」
「ストーカーとか、やめてくんない?マジで無理。生理的に無理。もうちょっと遊んでやってもいいと思ってたけどやめたわ。気持ちわりい。もう俺に顔見せんなよ!」
一方的に電話が切れた。何が起こったのかわからないが、彼に嫌われた事は理解できた。スマホが手から滑り、鈍い音を立てて地面に落ちた。
寒さに凍り付いて声は出ないが、涙だけが後から後から、溢れて止まらない。その場に崩れ落ちる事もできず、霧子はただ突っ立ったまま、黙って涙を流している。
頑張ったメイクも服も夢も希望も未来も、何もかも全て、流されて消えた。
◇ ◇ ◇
言うだけ言って電話を切り、直也は少しだけ気が晴れた。
一度寝ただけで勘違いする女には
これから駅に向かうのもだるいからタクシーで帰るかな、と、直也は大通りを目指す事にした。
夜は、ぱたりと
刺すような視線を背後に感じ、思わず振り返る。
霧子が歩いて来る。一本向こうの電信柱から、こちらに向かって来る。
俯き加減の顔は、相変わらず暗くて表情が読み取れない。しかし霧子は、まっすぐ、確実に直也に向かって歩いて来る。一直線に迷いなく、カツンカツンとヒールの音を響かせて来る。
直也の全身が総毛立った。逃げねばならないと、頭の中の警報機が鳴る。何も考えず走り出した。ヒールの女性よりは、速く走れるはずだ。それなのに、頭の中の警報機は鳴りやまない。
身体が痺れ、冷たい空気を吸い込むたび息苦しくなる。書き割りは延々続き、まるで悪夢を見ているようだ。足がもつれる。
どこへ向かっているかもわからぬまま、直也は必死で走り続けた。
足がよろけて、アスファルトの道路に片膝を付いた。冷たい汗が頬を伝って落ちる。服がべったりと肌に貼りつき、この上なく不快だった。息を整えようとするが、思うようにいかない。ドクンドクンという心臓の音が、耳元で響く。その時だった。
カツン、カツン。ヒールの音が響く。
カツン、カツン。それは確固たる意志を持ち、力強く響く。
まさか、そんなはずが。
恐る恐る振り向いた直也は、驚愕の表情で凍り付く。
霧子が来る。まっすぐ顔を上げ、こちらに向かって歩いてくる。が、その目は、真っ黒な空洞さながらで、何も見てはいない。
しかし確実に、まっすぐこちらに近付いてくる。さっき確認したのと同じくらいの距離か、いや、さらに近い、表情がはっきりと見て取れるほど近い。
「うわああああ!」思わず絶叫する。
慌てて立ち上がり、つんのめりながら走り出す。
カツカツカツカツ、足音は確実に近付いてくる。もう直也のすぐ後ろ、もう。
とにかく走った、完全に恐怖に支配された肉体は、まるで他人のように言う事を聞かず、それでも走った。トンネルのような暗闇を、迷宮を、ただ闇雲に走った。
カツカツカツカツ、すぐ後ろで足音が響く。
なぜだ、なぜ逃げられない。今にも追いつかれそうだ。自分が走っているのか、止まっているのかすらわからない。
突然、背中に冷たいものが押し当てられた。死神の指先のような、不吉な冷たい何かに、身体を押される。
目の前が白い光に満たされ、思わず目を閉じた。人工的な温かい光。救済だと思った。
次の瞬間、直也の身体は鈍い音を立てて宙を舞う。景色が斜めになり、逆さになり、飛んでいると実感し、それが奇跡に思える。
その逆さの景色の中で、直也ははっきりと見たのだ。神代霧子を。その空洞のような黒い目を。ほんの少し歯を見せ、にやりと笑っている口元を。
ぐしゃり、と何かが潰れるような音がした。やっと状況を理解する。
車にはね飛ばされたのだ。
腕が、あらぬ方向に曲がっている。顔面に温かい液体が流れるのを感じる。
もう霧子の姿はない。安堵のため息をつき、目を閉じる。
恐怖はもう去ったのだ。
やがて、直也の意識は闇に包まれた。
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