第3話 暗雲
翌朝、スマホを開くと、LINEの通知があった。直也からだった。
「スマホの調子が悪くて、ごめんね」
なんだ、そうだったのか。
「お勧めのお店、行きたいな」
返事を、返事を打たないと。
手が震えて、何度も入力をミスした。直也からLINEが来たのは昨日の深夜だ。あまり時間が空いていると感じが悪いだろうから、早く返事をしないと。
「嬉しいです、私は今週なら時間あります」
見栄を張っている自分に気付き、恥ずかしくなる。今週なら時間あるって、まるで来週は忙しいみたいじゃないか。
時間はある。バイトも日雇いか短期しか入れないし、誰かとの約束なんて、あるわけがない。
だけど、そんな事情を知られたくない。あくまで、普通の女子大生だと思われたかった。
直也から返事が来たのは、夕方だった。
「じゃあ、土曜日とかどう?奢ってくれるってホント?笑」
土曜日は四日後だ。嬉しくて声を上げてしまった。
「はい、任せてください。臨時収入が入ったので」
臨時収入は嘘だったし、霧子がネットで調べたレストランは、学生が入るには値が張った。だけれど、そんな事はどうでも良かった。
また会える。直也にまた会える。あの美しい彼と向かい合って、あの目で見つめられるのだ。
今度はちゃんと言おう。恥ずかしくて言えなかった言葉を。自分の気持ちを。勇気を出して、ちゃんと彼に伝えよう。
翌日、服と化粧品を買いに行った。朝のおはようのLINEに返事はなかったけれど、気にしなかった。きっと男の人ってそういうものなのだ。女の子みたいに絶えずスマホを気にしたりなんてしない。それに彼は、あまり話すのが得意ではないと言っていたから、なんと返していいかわからないのだろう。
本当に私に似ているな、と、霧子は嬉しく思う。世の中にはいろんな人がいるんだ。私みたいな男の人がいたって、おかしくないよね。
慣れない赤いハイヒールを買ってみた。試しに履いて街を歩く。つま先が窮屈で踵が痛かったが、まるで宙に浮いているみたいに軽やかに歩けた。顔を上げて胸を張り、ランウエイのモデルのように歩いてみる。
暮れかけた冬の華やかな街、青いイルミネーションが美しい。
私の心が、彼と話したがっている。
霧子は、不思議な感覚に襲われる。
この間は、ほとんど彼の話を聞いていただけだった。それが正しい人との付き合い方だと、長年信じて疑わなかったのだが。
今は、あれもこれも話したい。
彼の事なら何でも知りたかったし、私の事も知って欲しい。
意外と私は、お喋りなのかもしれない。
木曜日の夜、「明後日の待ち合わせはどうしましょうか」とLINEを送った。
それまでに何通か送ったLINEに既読は付いていなかったけれど、気にしないようにしていた。
翌朝になっても既読は付いていなかった。
しまった、と思う。私は気が利かないな。彼はレストランの場所を知らないのだ。どこで待ち合わせかなんて、わかるはずがないじゃないか。
「12時にA駅前の時計台の下でいいですか?」と、送った。
鏡の前で新しい服を着て、何度もチェックする。初めて入った流行りの店で買った服だ。店員が、肌がきれいだと褒めてくれた。
「お肌が白いから、このお色の方がお似合いです」
そんな事を言われたのは初めてだった。自分がきれいかどうかなど、気にした事もなかった。
買ってきた雑誌を開き、メイクの仕方を真似る。なんだか不自然に貼り付けたような顔が出来上がった。彼はこういうの、好まないんじゃないのかな、という気がして、慌てて拭き取った。
当日の朝スマホを開くと、LINEに既読が付いていた。特に何も書いてなかったから、待ち合わせはこれでいいという事なのだろう。ほっとして泣きそうになった。
電気ポットに水を入れて湯を沸かす。熱いミルクティーに蜂蜜を溶かしてかき混ぜた。一口飲んで、小さな目覚まし時計を見る。
まだ7時前だった。もう7時前だ。
12時が待ち遠しかったが、怖くもあった。
何を怖がっているんだろう、怖がる事など何もない。きっとすぐに慣れて、彼がいる日常が当たり前になる。そんな日がきっと来る。
彼とご飯を食べ、彼と眠り、彼と電話をする。何度も何度も待ち合わせをし、手を繋いで街を歩き、たわいもない話をする。一緒に笑って、一緒に泣く。時には小さな喧嘩をしては、すぐに仲直りをする。
そんな未来を、霧子は信じて疑わなかった。
◇ ◇ ◇
「え、運転させてくれんの?マジで?」
流行りのカフェで、
「うん、いいんじゃない?パパったら新車の方に夢中だから、今あんまり乗ってないんだ」
向かい合って座る柳千春が、きれいに巻いた髪を揺らしながら微笑む。
「いやーでも、左ハンドルは
「そお?じゃあ国産のにする?ママが乗ってるの借りよっか。小さい方がいいかな?」
「すげーな、何台持ってるんだよ」
口をとがらせる直也に、千春が吹き出した。「直也くん、可愛い」
「可愛い?男に可愛いは、誉め言葉じゃないだろ」と、ますます口をとがらせる直也に、千春は明るい笑い声を上げる。
ふんわりとしたレモンイエローのワンピースがよく似合う。やっぱりいい女だよな、と、直也は改めて思う。
「ねえ、それよりもさ、別荘に二人で泊まって、まずくないの?」
「全然大丈夫。うち、放任なんだよね」
肌も髪もつやつやのお嬢様は、得意げに足を組む。
ますます結構、と、直也は心の中で大きくガッツポーズを取った。ともかく今は、この幸運を味わい尽くすしかない。いい女といい車に乗り、いいメシを食べる。
「そろそろ行こっか」当然のように、千春は伝票を手に取る。
彼女の後ろを歩きながら、音を消していたスマホをチラリと見た。LINEの通知が何通か。電話とメールの着信も。誰からなのか想像が付いた。面倒くせえな、としか思えない。
とにかく今は大事なゲームの最中だ。このお嬢さんのご機嫌を損ねてはならない。他の事に気を取られている暇はないのだ。
◇ ◇ ◇
A駅前、時計台の下。
霧子は一人、佇んでいる。
身体はとうに冷え切っている。昼間はまだ暖かかったが、陽が落ちると急激に気温が下がった。短いスカートと薄いストッキングは、真冬の衣服としてはまるで無防備で、吹き抜ける風が鈍器のように容赦なく
駅前広場は、煌びやかなクリスマスイルミネーションで飾り立てられているが、青と白のLEDが、やけに寒々しかった。
何度かLINEもメールも電話も試みている。返事はない。行く予定だったレストランも、まもなく閉店の時刻だ。
事件、事故、という不吉な予感が頭をよぎる。
そもそも私はツイていないのだ。私なんかのせいで、直也くんが不幸に見舞われていたらどうしよう。それがひたすら不安だった。
夢みたいな事を考えるから、罰が当たってしまったのかもしれない。
また電話をかけてみる。呼び出し音が虚しく響く、4回……5回……。
不安が、床にこぼれたミルクのようにゆっくりと広がっていく。イルミネーションが滲んで見える。
留守番電話に切り替わる直前、電話が繋がった。
「……はい」小さく男の声が聞こえた。霧子の身体がビクンと震えた。
「あの……あの……」とっさに、何を喋っていいのかわからない。
無事だったんですね。何かあったんですか?困っているのなら言ってください。言うべき言葉が、選べない。
「……何?」ぞっとするような冷たい声。霧子は、えっ?という言葉を飲み込む。
「あの、連城直也さんですよね」
「……そうですけど」
あからさまに面倒くさそうな言い方だ。冷たいものが、喉元にこみ上げる。
「あの、私、神代です。神代霧子です」
「わかってるよ、で、何?」声が硬い。途切れ途切れに聞こえる。
「あの、今日、約束してましたよね?」
「あー……そうだっけ?」
直感的に、とぼけてる、嘘を付いていると、わかった。
何故なんだろう、私が何かしたんだろうか。私は人と違って、おかしいから。
「ごめんなさい……」
謝罪の言葉が、口を付いて出てしまう。彼に非があるわけがない。あんなに完璧で優しい彼に。
「……イヤミったらしいなあ、ムカつく」
ぼそっと言う彼の言葉に背筋が凍る。
「今、どこにいんの?」
「はい、あの、A駅の時計台の下に」
「は?」彼の声が、大きくなった。
「え、約束してたの昼の12時じゃなかった?ずっとそこにいんの?……は?バカじゃねーの?」
恥ずかしかった。そうか、普通はそんな事しないか。
何が正解だったんだろう、どのくらい待って諦めるのが、まともなんだろう。もう、何もかもがわからない。
「ごめんなさい」とにかく、謝罪するしかないと思った。
「キモい」吐き捨てるように言う直也の声が、耳のすぐ近くで響く。
「キモすぎ。そういうの生理的に無理、まじで」
心底嫌そうな、直也の歪んだ表情が見えた気がした。そんな顔をしても美しいのだろうな、と、ぼんやり思った。
何を、言えばいいのか。
黙っていたら電話は切れた。目の前がスッと暗くなった。
身体の感覚がなくなる。深い水の中に、ゆっくりと沈んでいくように。
いつの間にか、いつもの森にいる。目の前は青白い湖だ。
私が、いる。顔だけ丸く水面に出し、浮かんでいる。
でも、その様子は明らかにいつもと違っていた。
彼女が、目を開けている。何も見ていないような真っ黒な目を、まっすぐ空に向けている。波紋が、何重にも広がっている。
二度三度、彼女は瞬きをした。薄く唇が開き、呼吸する。水の中にある胸が上下に動く様がはっきりわかる。
そして突然、首がぐりんとこちらを向き、彼女の目が私を捕えた。
顔の右半分、目まで水に浸かっている。
しかし、まったくそんな事は気にならないというように、彼女の目は私を見ている。何も見ていないようなその瞳が、まっすぐ私を捕えている。
彼女の目にはっきり映っている
何も考えていない目。生きていない目。
それでもそこには、何らかの意思がある。
はっきりと、ある。
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