第2話 恋

 連城れんじょう直也は、イラついていた。

 駅前のコーヒーショップのオープンテラス、オレンジに染まる能天気な夕焼けが、苛立ちを余計に増幅させる。

 こんな気分は珍しくもない。俺は日常における理想が高いんだよ、とうそぶく。

 朝のコーヒーがまずかった。髪型もいまいち決まらない。

 それに、最近狙ってる女、柳千春と約束が取り付けられない。やれ習い事だ、やれパーティーだと。パーティーもクソもあるか、女子大生風情が。

 上流家庭を鼻にかけているような、いけすかない女だが、連れて歩くにはいい女だ。何よりも、大物と繋がるチャンスがあるかもしれない。何を手こずってんだと、自分に渇を入れる。

 オープンテラスから、ひとしきり通り過ぎる女を眺める。こういう気分の時は、だ。直也は、いつものやつをやろうと思い立つ。


 ナンパ占い。それは調子の出ない時、直也がよくやるジンクスである。そのへんの女に声をかける。女がノッてきたら、このツイてない日を仕切り直せる。ダメだったら、家に帰って寝るしかない。


 誰に声をかけるのか、それが肝要だった。誰の誘いにもノるような、軽い女に声をかけても仕方ない。それじゃあ占いにならない。無理目ギリギリの線を狙ってこそ、仕切り直しができるというものだ。直也は慎重に通りに目を凝らす。

 いくつか大学のキャンパスがあるこの辺りには、女子大生が多く棲息している。密林でのハンターさながら、一人一人物色する。

 あれはダメだ。これもダメ。あれは、俺の方が無理だ。慎重に見極める。なんせ今日一日の運勢がかかっているのだ。

 そして、一人の女に目を留めた。

 その女は、うつむき加減でひょこひょこと歩いている。地味な服装に化粧っ気のない顔。痩せぎすだが、顔立ちは悪くない。おそらく大学生。

 あれか、田舎から出てきて、まだ覚醒してないってやつか。

 一瞬、千春と同じ大学だったらヤバいな、という考えが頭をよぎるが、イケると思ってしまったんだから、もうイクしかねえだろ。

 直也はオープンテラスの椅子から立ち上がり、女の後ろをゆっくりと歩く。


◇ ◇ ◇


 駅前の横断歩道。点滅していた歩行者信号が、赤に変わった。

 神代かみしろ霧子は、ワイワイと騒がしい学生たちの中、一人立ち止まる。買い物に付き合ってよ。カラオケに行こう。そんな声があちこちから聞こえてくる。

 今日は理央に会えなかったな、と、軽くため息をついた。ゼミのLINEグループに入ってはいるが、個人的に連絡を取るのは気が引けた。

 自分で自分を重いな、と思う。理央にとっては、昨日の事など、日常の些末な出来事に過ぎないだろうに、私ったら、昨日から理央の事ばかり考えている。カフェでのやりとりを思い出しては、ああ言えば良かった、こうすれば良かったと苦悶し、にひひと笑った顔を思い出す。

 これではまるで恋ではないか。気持ち悪いと思われそうだと、軽く頭を振った。

 何だか、家にまっすぐ帰りたくなかった。


 信号が青に変わる。と、後ろから急ぎ足でやってきた男性に、思い切りぶつかられた。カバンが地面に落ちる。スマホが車道に転がる。

「あっ、ごめんなさい」その男性は、慌ててスマホを拾い上げ、霧子に渡した。

「ホントにごめん。傷付いちゃったかな?」

「いえ、大丈夫です」ろくに確認もせず、霧子はスマホをカバンにしまった。

「ちゃんと見て。傷付いてたら修理代払う」「いえ、ホントに大丈夫です」

 歩き出そうとした霧子の顔を、男性が心配そうに覗き込む。流行りの俳優のような顔立ちの、若い男性だった。霧子と目が合うと、にこっと笑った。霧子は焦って目線を外す。男性との距離が近い。

「あの、ついでに聞きたいんだけど、このへん郵便局ある?」

 親し気に話しかけてくる男性に、霧子はうつむき加減で答える。

「えっと、その角を曲がって……」

「え、どの角?」「えっと……」

 男性は、困ったように腕時計を見る。

「参ったな、時間がないや。今日中に速達で出さなきゃいけない書類があって……」


 結局、霧子は男性に付き合って郵便局まで行く羽目になった。

 窓口が閉まるギリギリで速達を出した男性は、ホッと安堵の息を漏らす。

「本当に助かった、ありがとう。迷惑かけちゃってごめんなさい」

 何度も何度も謝られ、感謝された。

 悪い人じゃないんだ、だってこんなに丁寧なんだもの。

 心底申し訳なさそうな整った顔に、霧子はぎこちなく笑いかける事ができた。


 連城直也と名乗ったその男性に連れられて、流行りのダイニングバーに行った。

 ボックス席に直也と向かい合って座る。洒落た店内にはオールドジャズが流れ、ほんのり飴色の照明が、直也の彫の深い顔に影を落としている。きれいな人だなあ、と、ぼんやり見つめた。

「霧子ちゃんは、大学生なの?」

 はい、と答え、大学名を言った。ほんの少し直也の表情が曇った気がしたが、気のせいかもしれない。

 目の前には、大きな皿に絵のように盛られた料理と、今日の夕焼け空のような美しいグラデーションの酒がある。

 こんな店に入ったのは初めてだ。ましてや、男の人と二人で。どうしたら良いのかわからず、霧子は視線を落とし手元を見つめる。文庫本を広げるわけにもいかない。

「あんまり喋んないんだね」直也に言われて、慌てて顔を上げた。

 恥ずかしい。変な子だと思われたかもしれない。しかし、そんな霧子に直也はふわりと笑いかける。

「僕も喋るの苦手なんだ。女の子って、だいたいお喋りだろう?なかなか話題に付いていけなくってさ」

 意外だった。こんなに美しい人でも、そんなふうに思うのか。私もいつも付いていくのに必死なんです!と、言いたかったが、調子いいと思われるかな、と出かかった言葉を引っ込める。

「なんかさ、こういう黙ってても心地良い人って、初めて会った気がする」

 照れたように笑う直也を、可愛いらしいと思ってしまった。年上の男の人をこんなふうに思うなんて、と、霧子は我ながら驚く。

 直也の目が、霧子の目を捕えて離さない。目の前の甘いお酒を、少しだけ飲んでみた。

「それ、おいしいでしょう?わりと弱いお酒だから、女の人にはいいかと思って」

「……おいしいです」

 あまり酒を飲んだ事はなかったが、確かにこれは南国のフルーツのようにねっとりと甘くて、おいしかった。直也は、ずっと霧子を見つめている。その視線にどぎまぎして、再度グラスを口に運ぶ。

 なぜこの人は、こんなにも私を見つめるのだろう。沈黙が全く気にならないのが不思議に思えた。

 美味しい食べ物を食べ、酒を飲む。直也は二言三言、言葉を発し、霧子のぎこちない返しに、涼やかな笑い声を立てる。霧子も何度か声を上げて笑う。

 温かい空気が流れている。ジャズの甘い調べが、心地いい。


 気付いたら、大きなベッドに寝ていた。微かな消毒液のような匂い。ここは、どこだろう。ほんのりと頭痛がする。

 足を動かすと、下腹部に痛みが走った。隣で直也が寝息を立てている。少しだけ、思い出す事ができた。

 大好きだと言われた。愛してると言われた。こんなに気が合う女性に会ったのは初めてだと。

 私、恋人ができたんだ。

 胸の中から、じんわりとしたのものが溢れる。それは、怒りを浴びせられた時とは対極の、温かく甘い蜜だった。これが恋というものなのだろうか。小説の主人公たちがいつもしている恋。大学の同級生たちが、熱に浮かされたように話をしてる恋。

 直也との行為は何となく覚えている。とにかく、しがみついて耐えていた。

 ふと、そういえばキスをしたのだろうか、と思った。キスにはわりと憧れていたのだが、全く記憶にない。

 霧子は、思い切って寝ている直也の唇に、そっと唇を押し当てた。想像していたよりもずっと柔らかくて温かい、人の唇。心臓の鼓動が大きくなる。熱い何かが胸の奥からこみあげてくる。

 ううん、と唸って、直也は背中を向けた。


 翌朝、ホテルで直也と別れた。直也は仕事があるといって、そそくさと身支度をして帰っていった。「また会おうね」と、連絡先を教えてくれてキスをした。それで充分だった。

 通勤途中の人々に逆行しながら駅に向かう。朝帰りは初めての経験だ。知らず笑みがこぼれる。

 今度理央に会ったら話してみようかな、恋人ができたと打ち明けてみようかな、と考える。理央はなんて言うだろう。目をくるくるさせて「ホントに?どんな人?」と、詰め寄ってくる姿が想像できた。紹介してと言われたらどうしよう。会わせてもいいのかな。3人で会ったら素敵だろうな。

 でも、理央は少しお喋りだから、直也くんは苦手に思うかもしれない。霧子に気を使って楽しかったと言うだろうけれど、そのへんは、ちゃんと私が気を付けてないと。直也くんを疲れさせるような事をしたら、かわいそうだ。

 離れて暮らす母親の事も思い浮かんだ。ほとんど連絡をしていないし、向こうからも連絡が来ない。恋人ができたと言ったら、何て言うだろうか。どうせろくな男じゃないと言われるだろうが、直也くんを見たらびっくりして腰を抜かすかもしれない。だってあんなに美しい人なんだもの。でも、もっと付き合いが深くなるまで黙っていようと、心に決める。例えば結婚の話が出るまでは。

 結婚、という言葉が自然に思い浮かんだ事にびっくりする。あまりにも飛躍し過ぎだ。直也くんに悟られないようにしなくては。

 霧子は緩んだ頬を引き締めた。


 それから何日か経ったが、直也から連絡が来る事はなかった。

 一日に何度も何度も、スマホを立ち上げる。朝も夜も授業中も食事をしていても、直也の顔が頭から離れる事はなかった。

 理央を何度か見かけたが、他の女子の話にコロコロ笑っている姿を見て、近付く勇気は出ない。

 

 授業の内容が、全く頭に入って来ない。

 文庫本を開いても、文字の上を虚しく目が滑る。

 いつの間にか直也の笑顔を、声を 瞳を、唇を、思い出している。


 LINEを立ち上げる。あの日の翌日、考えに考えて送った一文。

「昨夜はご馳走様でした。いろいろとありがとうございました。また誘ってください」

 既読の文字がある。それきりだ。

 図々しかったのかな、と、何度も後悔した。これじゃあ、また奢って欲しがってるように見えるじゃないか。今度は奢らせてください、と、書けばよかった。それに、何だか他人行儀な、冷たい文章にも思える。

 だって、あんな事をしたんだから。もう恋人同士なんだから。


 霧子は、思い切って軽い感じの文章を送ってみようと思い立つ。

「おはよう、元気ですか?」

 しかし何時間経っても、既読すら付かない。

 さらに少し長い文章を送ってみる。きっと、もっとストレートな方がいいのだ。

「会いたいです」「忙しいですか?」「良いお店を見つけました」「よかったらご馳走させてください」

 何時間経っても、何日経っても、スマホは沈黙している。正解がわからない。

 理央に相談してみようかなとも思ったが、彼氏ができた事すら、未だに話せていないのだ。あまりにも唐突だと、思い直す。

 何が正解なのか、全くわからない。


 夢の中、水面に浮かぶ彼女に、少しだけ変化が現れる。波紋の出現する感覚が短くなる。真っ白だった頬に、かすかな赤みが差している。顔に影を落としている睫毛が、少しだけ動いた気がした。

 彼女も変わろうとしている。だって、あれは私だから。

 予兆を感じる。胸の奥が騒めいている。

 卵から雛が孵るように。サナギから蝶が羽化するように。彼女は変わる。

 彼女と共に、私も変わる。

 あれは、私。

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