拝み屋 鴉(カラス)シリーズ① 霧子とキリコ

ふうりゅう舎

第1話 変化

 水面に、白い顔が浮かんでいる。生きているのか、死んでいるのか。

 生命の片鱗さえ見えぬ、墨絵のような薄ぼんやりとした森の中である。青白い色の水を湛えた小さな湖。

 身体の部分はすっかり水没して見えず、顔だけ丸く浮かんでいる。

 あれは、私。

 もう何度も何度も同じ夢を見ている。子どもの頃からずっと。

 時折、顔を中心に波紋が現れる。身体の内部が、臓器が、うごめいているのだ。それは彼女が生きているという、唯一の証拠に思えた。

 その様子を、私がじっと見ている。岸辺に佇み、なすすべもなく。

 そうして彼女は、私が成長するにつれ、同じように成長していった。

 あれは、私。


 東向きの大きな窓からは、ほんの一時いっとき朝日が射し込むが、目隠しの塀に遮られ、すぐに翳ってしまう。安普請のワンルームマンションの1階、寒々しい殺風景な部屋。

 壁際に設置した粗末なベッド、小さな洋服ダンス、折り畳み式の簡易テーブル。それでも霧子にとっては心から安堵できる、この世で唯一の空間である。


 子どもの頃から母は、気分に任せてヒステリックに霧子を怒鳴った。小さなアパートで、霧子は縮こまって暮らしていた。父親の顔は知らない、母と二人だけの生活。

 それは、母の機嫌の良し悪しに翻弄される日々だった。いつも予兆なく突然訪れる、耳を貫くような金切り声。血走った目。口から唾を飛ばし、母は霧子を怒鳴りつけ、時には暴力をふるった。

 そのせいか、霧子は人の怒鳴り声がとても苦手だ。例え他人に向けられたものであっても、街中で耳にしただけで身体がすくむ。胸から氷のような冷気が付き上げ、身体が瞬時に凍り付く。その場に立ちすくみ、麻痺したように動けなくなってしまう。


 小学生の頃、近所の子と遊んでいて、怒鳴り声を上げられたことがあった。それは突然の出来事で、何があったのかなど覚えていない。ただ友だちは、大きな声で霧子を非難し、顔を真っ赤にして泣き喚いた。

 あの恐ろしい事象は、家の中だけではない。母だけではない。いつ誰といる時に起こってもおかしくない。霧子は思い知った。他人と関わる限り、あれからは逃げられないのだ。

 それ以来、霧子は人との付き合いを避けるようになった。


 霧子は、テレビも映画も好んで見る事はない。大声で罵る、叫ぶ、叩く、画面越しであろうと、それを目にし耳にすると、とたんに身体が凍り付いた。テレビの電源すら切る事ができない。ただただ目を閉じ、震えながら嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 その代わり、霧子はよく本を読んだ。学校では、いつも一人で本を読んでいた。人付き合いをしたくない霧子にとっては、それはまさに都合の良い趣味であった。

 地味でおとなしい、真面目な人。それで良かった。他人からのその評価で。

 もちろん、全く人と関わらないわけではない。相手が喋っている間、微笑みをたたえながら、熱心に相手の目を覗き込み、相槌を打ち、相手の興味が他に移ったところで、目立たぬようスッとその場から消える。いつしかそういう処世術を身に付けていた。それが一番いいのだ。路傍の石ころになればいい。そうすれば友だちがいなくても、疎まれもしない。いじめられもしない。そうやって、生きてきた。

 寂しくないわけではなかった。年頃になり、恋もしてみたかった。

 だが。

 あの、恐ろしい声、思い出しただけで心臓が凍り付き、冷たい塊が喉元まで上がり、息ができなくなるあの感じ。

 きっと私は、とても弱いのだ、と、霧子は思った。こんなことではいけないとも思った。一人暮らしをすれば、少しずつ強くなれるのじゃないか。

 大学進学と同時に逃げるように家を出て、一人暮らしを始めて2年。未だに強くなる気配はさっぱり見えないが。


「ねえねえ霧子ちゃん」突然、ひどく馴れ馴れしく話しかけられた。

 大学のゼミのフィールドワーク中である。都内の大きな公園。すでに12月に入っているというのに、日差しが強く、汗ばむような陽気である。

 びくりとして振り向くと、同じゼミの女子が、にこやかにこちらを見ている。茶色い明るい髪、大きな丸い目。鼻の周りにちょっとそばかすがある。まるで外国人の子どものような愛くるしい笑顔。

 えっと、たしか。

「理央だよ、三浦理央」「え、うん」

 突然話しかけられたので、体裁を整えるのに苦労した。

「理央ちゃん、何?」精一杯の笑顔で応える。話すのは確か初めてだ。距離感を測りかねた。

「理央ちゃんだって」理央は、ころころと笑い転げる。

「霧子ちゃん、あたしの名前、知らなかったでしょう」

「え、そんなわけないじゃない」

「うそうそ。誰にも興味なんかないくせに」

 ぎくりとした。身がすくんだ。私の嘘が、見破られてしまった。この人は、私を怒鳴るのだろうか。

「ねえ、ちょっと見せて」理央は気安く霧子のスケッチを奪い取って、スワンボートのスケッチを見た。

 公園の池で、貸しボートの稼働率を見ていたところだ。今のところ、ボートを使っているのは1組のカップルのみ。スワンボート、この形状が古いんじゃないかと、考えを巡らせていたところだった。

「絵、うまいんだね」「そんな事ないけど」

 謙遜が正しいのか、礼を言うべきなのか、理央という女子の性格がよくわからない。

「なんの役に立つんだろうね?こういうの」理央がスケッチブックをパラパラめくりながら訴える。「真面目なんだね、霧子ちゃん」

 どう返したものかと、曖昧に微笑む。

 理央は、無言の霧子に一向に構わず、口を尖らせて文句を言い続ける。「あたしさ、こういうのつまんなくって」

 ああ、そうかわかった、この子への対処法。「いいよ、後で写させてあげる」


 こういったクラスメートの扱いは慣れたものだ。真面目で勉強が取り柄だと思われていた霧子は、何人もの同級生から、こうした頼みごとをされてきたのだ。

 宿題を見せて、ノートを写させて、勉強を教えて。

 望むところだ。利用価値があれば、彼女たちは絶対に霧子に敵対しない。


「そうじゃなくってさあ……」理央は、丸い大きな目をくるくる動かし、霧子をじっと見る。

「えっ……」霧子は、相手の要求がわからず、思わず身構える。

「お茶しない?」意表を突かれた。

「良さそうなカフェがあったんだよね」

 私なんかとお茶を?

「でも……」「いいからいいから」と、理央は霧子の腕を掴み、強引に引っ張る。

「え、ちょっと待って」「だめ。待たない」

 いたずらっぽく笑い、理央は霧子を引きずってゆく。なんて図々しい子だろう、こんな子と付き合うのは嫌だ。理性がそう言っている。でもその強引さが、何故だか心地よくも思えた。

 誰かに身を任せるというのは、不思議と安心できるものだ。


 公園内に建つ、可愛らしい小さなカフェ。霧子一人だったら絶対に入らないであろう、そんな雰囲気のカフェであった。店内は、ささやかなクリスマスの装飾が施されている。ああ、もうそんな季節か、と霧子は思った。小さなテーブルに理央と向かい合って座る。

「何にしようかな~」と、理央は上機嫌でメニューをめくっている。

「霧子ちゃんは何にする?」メニューをこちらによこす。

「えっと、紅茶を」他に客はおらず、思わず声をひそめる霧子に対して、理央は全く物おじせず、素っ頓狂な声を上げる。

「えっ、甘い物ダメな人?」「別にダメって事ないけど……」

「これ食べようよ、スワンパフェ」理央が指し示す指先に、不思議な形のクリームが乗ったパフェの写真があった。当店名物!と書いてある。どうやらクリームをスワンボートに見立てているらしい。

「こういうのも調査のうちに入らん?」理央が、にひひ、と笑う。

 なるほど、これはフィールドワークの一環なのだと、霧子は納得する。きっと彼女は一人でカフェに入るのが嫌だったのだろう。「じゃあ、私もそれを」

 理央が声を張り上げ店主に注文し、お互いに向き合った。

 何か言わなくちゃ、と霧子は頭を働かせる。時間が稼げて、相手が気持ちよくなるような話題を何か。共通の話題と言ったら、ゼミの事ぐらいしか思い浮かばない。教授や他の学生の話はどうか、悪口は悪手だ。当たり障りのない噂話など何か……。

「霧子ちゃんの名前ってさ、かっこいいね」いきなり理央がしゃべりだしたので、出そうとしていた言葉を飲み込んだ。

「名前?」

神代かみしろ霧子」「うん」

「サスペンスドラマの主役みたい」「えっ」

「つまり、何かありそうな名前じゃない?」

 理央はまた、にひひ、と笑った。


 やる気のなさそうな店主が、パフェを運んでくる。メニューの写真とは少し形状が違い、クリーム部分が崩れている。到底スワンには見えない。

 フィールドワークの資料として、角度を変えながら写真を撮る霧子を尻目に、理央は早速パクついている。霧子がようやくスプーンを手にした時には、理央はもう半分ほども食べ進めていた。

「甘いね」理央が少し顔をしかめながら文句を言う。

「どこまで掘ろうと、もれなく甘い。パフェってのはさ、上から順に食べ進めていくにつれて計算された美しき味の変化がないと」

 店主に聞こえるのではないかと、ハラハラした。


 結局、フィールドワークについて話し合う事もなく、とりとめのないお喋りを続けている。と、いうか、一方的に理央が喋っているだけだが。私なんかと一緒にいて、何が楽しいんだろうかと、霧子は首をひねる。

「霧子ちゃんは、喋りやすい」ふいに真顔になって理央が言う。「え?」

「あたしの言う事を、いちいちちゃんと聞いてくれる。あたし、お喋りじゃん?他の友だちはさ、聞いてるうちにこう」理央の目が宙をさまよう。「目玉が迷子になる」

 思わず吹き出してしまった。それを見て、理央も嬉しそうに笑う。

「あたしさ、よく知らん人と喋るの、好きなんだよね」見透かすような上目遣いで理央が霧子を見ている。どぎまぎして、慌ててスプーンを口に運んだ。

「未知は、すなわち可能性なわけで。例えば人生を変える出会いを見過ごすのは、痛恨のミスだったりするじゃん?」

 わかるような気もするが、どう返答していいものか。

「あたしが思うに、霧子ちゃんとあたしは、気が合わなくもない。おそらく」

「……どうしてそう思うの?」

「だって、信頼できそうじゃん?嘘つかなそうだし。あたし、人を見る目はあるんだな」

 理央がまた、にひひ、と笑った。この人の笑顔は可愛いな、と霧子は改めて思った。嬉しい、と言おうとしてやめたを、後になって後悔した。


 その夜、一人小さなベッドの中で、霧子は理央の事を考えている。

 あの、にひひ、という笑顔を思い出す。「あたし、人を見る目はあるんだな」という言葉を思い出す。

 次に会ったら、何て言おうか。「この間はありがとう」でいいのか。いや、ありがとうはおかしい。奢ってもらったわけでもないのに。

「この間はどうも」かな、でも、彼女はきっと友だちが多い。霧子の事なんか忘れて、きょとんとされたらどうしよう。

 そこまで考えて、ようやく思い当たる。そうか、私は理央と友だちになりたいのだ。

 怒りを向けられる恐怖を超えて、私は理央と仲良くしたいのだ。

 勇気を出してみようかな、と思った。一人暮らしを始めた頃の、多少なりとも高揚した気分を思い出す。

 そうだ、私は変わりたかったのだ。それが、今なのかもしれない。世の中、霧子を怒鳴る人ばかりではないのだ、きっと。

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