第3話 しせん
「それで、退院はいつぐらいになりそうですか?」
「早ければ今日中に。検査して異常が見つからなければ、ですが」
医師は確かに、そう告げたのだ。
一日に二度も救急車に運ばれた高校生なんて、俺ぐらいだろう。
全身血まみれで登校して、ぶっ倒れたのも俺ぐらいだ。
学校で意識が途絶え、次に目が覚めたときには病室のベットに寝かされていた。
頭は包帯でぐるぐる巻き。体のあちこちに痛みが残っている。
…一歩間違えていたら死んでいたと。
そう聞かれたときは、まさかそんなはずないと思った。こんな姿でも、俺はぴんぴんしている。
大げさだなんて考えは、付きっきりで病室にいた母の顔を見てすっ飛んだ。
母に泣きつかれたのは生まれて初めてだった。
「母さんを一人にしないで」
と。
心配してくれた母に何度も謝ったが、ずっと罪悪感でいっぱいだった。
怪我でこれといった不自由はない。実感はなかったものの、母の必死の涙に、身近まで迫っていたであろう死に恐怖した。
だから。
医師から出た、今日中に退院できそうだなんて話、素直に飲み込めるわけがない。
全治何か月とか、余命宣告だっておかしくない。そう覚悟をしていたのに。
母も同じ気持ちだろう。
「本当なんですか?大けがだったんですよね?もっと詳しく診てくださいよ」
母は医師に訊くが、
「何の手術も必要なく、ここまで回復したんですよ。運ばれたときは酷く出血していて、なんとか輸血しましたが、そのくらいでしょう。様子を見る限り、脳に異常があるわけでもないでしょう」
「そうかもしれませんが…」
「廻君、何か体に異常を感じるかな。」
「…いえ、強いて言うなら、少し痛むぐらいで。そのぐらいですかね」
息子が言うことなら納得するだろうと思ったか、話を俺に振ってきた。
確かに退院しても問題なさそうなのは事実だ。特に困るようなことはない気がする。
「だそうですお母さん。お気持ちはお察ししますが、今は息子さんを信じてあげてください。また何かあるようなら、その時に来てもらえればいいですから」
母ははぁ、とため息をつく。まだ満足していない様子だったが、
「…はい、分かりました。先生、ありがとうございました」
と認めて、ゆっくりと頭を下げた。
「いえいえ。廻君、退院はできるけど、激しい運動は避けるように。お母さんを心配させないように」
「はい。そうします。ありがとうございました」
めんどくさがって邪険にされているのかと。医師は思っていたよりいい人そうだ。
俺も頭を下げて、診察室を後にした。
入院期間わずか一日。
明日には俺の青春が再開できそうだ。
ーーーーーーーーーーー
検査後、荷物を取りに俺が寝ていた病室に戻ってきた。
どこにも異常はないようで、改めて今から退院というわけだ。
荷物をまとめていると、病室のカーテンが外からの風で揺れた。
一瞬、カーテンの隙間から綺麗なピンクが見えた気がした。
「なんだろ」
気になってカーテンを両端に寄せて見ると、病棟の中庭に植えられた大きな桜の木が、月明かりに照らされて花弁を散らしていた。
中庭に植えられた木は、たった一本。
それも相まって、大きな桜の木に目を奪われてしまう。
決して、絶景などと言えないだろう。世界で最高の景色とは程遠いものかもしれない。
背景は隣の病棟で、斑に灯る部屋の明かり。
絵にしても、歪だといわれるかもしれない。
美術とかそういうものは分からないが、何か心に来るものがある。
ここの患者たちに、エールを送っているようで。
桃色に染め上げる大木に、大きな生を感じた。
「うわあ…すっげえ…」
言葉には上手く表せない。この病室の額縁から目が離せない。
明日から色々と不安だった俺だが、なんだかどうでもよくなってきた。
ちっぽけな悩みだよまったく。
精一杯生きろと、そう背中を押してくれる気がした。
「やっぱり、ここから眺める桜は綺麗だ…」
しゃがれた声は、俺の後ろから聴こえてきた。
夢中で気が付かなかったか、振り返ってみると、点滴に管で繋がれた老人が一心に窓の外を眺めていた。
一体いつからいたのだろう。
前にこの部屋を使っていた患者だろうか。
振り返った俺には目もくれず、老人の視線は景色を捉え続けている。
「あぁ、変わらないな…」
懐かしみながら、目には涙を溜めていた。
ここから見る景色に、何か思い入れがあるのだろう。
「綺麗ですよね、桜」
黙っているのも気まずくて、俺は老人に話しかけた。
迷惑だっただろうか。折角の景色を、邪魔してしまっただろうか。
ーーーーそして老人は、意外な行動に出る。
先程まで景色だけを捉えていた目は俺へ向き、鬼気迫る表情で両肩をがしっと掴んできた。
「君は!」
何かまずかっただろうか。
それは傷口に響く。痛い。
「いっt」と声が漏れる。
「ああ、すまないっ、つい取り乱してしまった!」
老人は申し訳なさそうに手を放し、一歩二歩と後退した。
「い、いや、大丈夫すよ」
「そ、そうか…」
先とは一変して、しゃがれた声はか細く、今にも消えてしまいそうだった。
「君は、私が見えるんだな…触れることもできた…」
急に訳の分からないことを言い出す老人。その喜ばしい表情といったら。
何がそんなに…。
そう考えようとしたが、老人の言った一言が、俺の頭の中で大きく響いていく。
見える、触れられる。
きっと、予感はしていただろう。老人がそう言う前に。
それも違う。訳の分からないことじゃなかった。その言葉が示す事実は、嫌でも理解していたはずだ。
分かってしまう、気付いてしまうことを恐れていたんだ。
「うっ…」
吐き気がする。体が震える。
体の熱が引いていく、夜風のせいではない。
「お、おい君!大丈夫か!」
その場で倒れこんでしまった俺に手を差し伸べる老人。
そこには善意があったが、今の萎縮した俺に、そんなものは見えていない。
差し伸べられた手の奥、途中で途切れている点滴の管。
それは、信じていたかった妄想を現実という形にするに十分だった。
「うわあああああああああああああああ」
自分でも考えるより先に体が動いていて。
頭より先に動いた足を必死に動かした。
目の前に立つ老人を避けることなく、通り透け。
「お、おい君!待ってくれ!君だけが頼りなんだよ!」
老人が何か叫んでいたが、そんなこと知ったことか。
病院から家まで30分ほど、先に帰っている母の顔が見れるまで走り続けた。
きつねとか、空飛ぶ芋虫とか、動く骸骨とか。
色々見えてしまう俺の目は、妄想じゃない。
真実だ。俺だけはそう思っている。
しかし、この日。
人の姿で話しかけてくる何かを見てしまったのは、初めてのことで。
未知と異様な不気味さに、不快感は増していった。
結局、廻は一睡もすることができず。
自分に起きた変化を、どうすることもできず。
忘れることもできず。
闇と寒さから逃れたくて、ひたすら日の光が差してくるのを待っていた。
ーーーー出会いは、繰り返される。
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