第22話 消えない違和感
シンは覚悟を決めて目標に向かった。
この場で手強いのは狐面だ。
「巨門(きょもん)」
体内の魔力の流れを早める。一時的に動きを活性化させる《体術》の基本的な技だが、シンほどスムーズにこなせる者は少ない。
「巨門(きょもん)」
重ねて実行する。
両側のこめかみにずきんと痛みが走った。視界がわずかに赤みを帯びる。短時間での連発は体に負担が大きい。
巨猿型が次々と目の前に割り込んできた。予想どおりだ。
戴冠式の真似事をするリデッドたちには階級が見える。
上から順に、狐面、人狼型、巨猿型だ。となれば、最初に盾になるのは巨猿型。だが、統率は取れていない。
まだ、リデッドの中で役割が固まっていないのだ。
戦力に数えられなかったゴースト型が狐面の下でもぞもぞと蠢いている。彼らはここに居並ぶリデッド達に、価値がないと一番最初に見限られたもの。この場から逃げ出してシンに倒されたリデッドは、狐面を前にして即座に逃げ出してきた者。
この『宮殿』は現在、混乱の渦の中にある。
――それならば勝機はある。
わずかの時間、真横に視線を送った。新たな『円柱』の中ほどが、丸く溶けだして暗い穴を開けていた。一匹の人狼型が暗闇から現れた。
『円柱』とは『宮殿』の最初の形である。
初級でも上級でも、最初は『円柱』から始まるのだ。
時間が経てば経つほど、『宮殿』の形をとり、中の世界でリデッド達が産まれる。新たな秩序が完成すれば、リデッドに統率という概念が発生する。
その前に――
「貴様を倒す」
シンの体が消えた――そう見えるほどの速度。正面から近づきつつ、大きく一歩横に跳んだのだ。
活性化した肉体を駆使する、巨猿型の目にうつらぬほどの動き。この緩急を用いた瞬発力での翻弄が《体術》の真骨頂。
過ごす時間の流れに大きな差ができた。
巨猿型は完全にシンを見失っていた。どこだ、と首を回す――隙もなく、
「遅い――『武曲』」
シンが巨猿型の背後で一回転した。
まるで空を舞っているかのように優雅で、音すら立てない静かな動作だ。
彼の背後でリデッドが膝から崩れて霧となった。首を切断したのだ。続けて、その近くに立ち尽くしていた二匹の巨猿型が、同じく霧となった。
瞬きすら許さない。
シンは瞳に冷たさを湛えて、足を止めた。両腕がだらんと降りている。
「かかってこないのか?」
巨猿型の残りに問いかけた。彼らは答える代わりに、後ずさる。眼前で仲間が消えた光景が目にやきついているかのように怯えていた。
シンが鼻を鳴らし、再び姿を消した。
手加減はしない。
次々と首が飛び、手刀がリデッドの胸を貫通する。留まることを忘れたかのように、彼は舞踏を演じ続けた。
再び『巨門』を使用し、強引に活性化させる。
敵が我に返るまでに、始末できる者は始末しておくために。
ようやく力任せに殴りかかろうとする者のあごを跳ね上げ、腹を蹴り飛ばす。その衝撃に巻き込まれた者の上に飛び乗り、刃よりも鋭い手刀で首をかき切った。
あっという間のできごとだ。
いつの間にか、巨猿型が輪になって距離を取っていた。
シンは飄々とした様子で見回す。
「無駄なことだ。私からは逃げられない」
片手で挑発し、目で敵意をぶつけた。
しかし、輪はまったく動かない。シンが踏み出せば、その分だけ輪が歪む。
「少し、やりすぎたか。恐怖を感じるリデッドはやりにくいな」
シンが目を細めた。
それと同時だった。巨猿型の一角が吹き飛んだ。途方もない力でなぐられたかのように、四分の一ほどの巨猿型が部屋の壁に轟音とともに衝突し、霧になった。
「ようやくお出ましか」
「――アハッ」
子供のようなリデッドがシンの視線の先にいた。片手は蛇のように変化し、人狼型の頭を咥えて引きずっている。
狐面は仮面の下で奇怪な声を上げると、ぶんっと人狼型の体をあさっての方向に投げた。すさまじい力だ。頭部を失っていた体が、ごろごろと転がっていく。
狐面が身軽になったとばかりに飛び跳ねて手を叩き、足の裏を合わせて「キャ、キャ」と何度もふざけた動きを取った。
シンのこめかみに一滴の雫が流れる。
冷や汗だった。
狐面の仮面は瞳の部分が丸く空いている。その暗く小さな穴の中にある、蒼い瞳と目が合ったからだ。
気味の悪い形と色。背筋に悪寒が走った。
シンは反射的に内ポケットから魔力回復薬を取りだした。
中には明るい水色の溶液が満ちている。
リデッドの親玉が出てきた。出し惜しみする必要はなくなった。
それに――ここは使わなければならないタイミングだと、シンの勘が叫んでいた。
「――正念場だな」
シンは手にとった瓶をあけようとして、目を見開いた。
回復薬が、なぜか手の中になかったのだ。あっけにとられるシンの目と鼻の先で、ひとさし指ほどの大きさの蛇が瓶を咥えていた。
感情のない黄色い瞳が歪み、ごくんと喉を鳴らした。
「『武曲』! ――くそっ!」
狙いが定まらなかった手刀をあざ笑うようにかわし、床に空いている小さな穴に胴体を滑らせて逃げた。
シンがその先を目で追う。なんと、狐面の足の小指が伸びて、床に刺さっていた。
そして、シュルシュルと元の長さに戻ると、蛇の小さな顔が指の先についていた。
「ァイアァイアアアッッゥ!」
思わず耳を塞ぎたくなる絶叫が響いた。狐面の体がどくんと光を放ち、上半身が奇怪に膨らみ、下半身がそれに合わせて大きくなった。背がじわりと伸び、腕や足が一回り太くなる。
シンは忸怩たる思いでつぶやいた。
「小技まで使えるうえ、回復薬まで取り込めるとは――これが色付きか。リーンさんの言ったとおりですね」
仮面から顎が覗いている。顔も大きくなった証左だ。
魔力がまたも膨れ上がり、体つきは明らかに頑丈になっている。戯れに振った腕が貪欲に人狼型と巨猿型を喰らい、さらに膨らんでいる。
「《巨門》、《破軍》」
シンは瞳を動かさずに口にした。《巨門》で肉体の活性化を、《破軍》で防御力を上昇させる。
攻撃はあきらめた。
ここにきて、単独では勝ち目がほぼなくなった。できることは時間稼ぎしかない。
A級パーティの名は伊達ではない。『探索者』として上り詰めるためには、自分の強さ以上に、敵の強さを計れることが重要だ。
時に命をかける必要はあっても、無茶な戦いは挑まないに限る。
戦略を練り、己を鍛え、機と場をとらえて戦う。それが勝つための絶対条件なのだ。
何度も危険な場面に陥った経験のあるシンは、取り乱すようなことはない。
しかし、冷静に自分の残り体力と魔力を狐面のそれと比較すれば、結論は一つしか出ない。
あとはどれだけ敵を削れるかだ。
狐面が持っている技と能力をすべて引き出し、後の仲間にうまく引き継ぐ。それが『探索者』の流儀。
四つのギルドのうち、北に属すると決めたパーティの一員として、未知のリデッドについて是が非でも情報を遺さなければならない。
そうすれば、仲間か職員が仇を討ってくれるはずだ。
まったくついていない。
そして、ついていないと言えば、壁の向こうにいる二人もそうだ。
「かかってこい!」
シンが吠えた。
狐面がそれに誘われるように肩を前面に押し出して強襲する。とてつもない速さと重さだ。体が完成に近づいたのか、動きにキレがある。
桁外れのパワーと素早さを兼ね備えたリデッドは、瞬発力を重視する《体術》使いには分の悪い相手だ。時間を稼ぐためには、正面からやり合うのではなく、身を引きながら撤退するのがセオリーだろう。
しかし、シンは避けなかった。
時間をかけて消耗するよりも、先にどうしても伝えなければならないことがある。
ここで倒せないなら、逃げるしかない。だが、逃げてどうなるだろう。
シンが敵わない敵だ。もし、カルエッタとランツが追われるようなことになれば、数秒で勝敗が決まる。
付き合いは短くとも、土壇場で見捨てるようなことはできない。
「ぉぉぉっーーーー!」
裂ぱくの気合とともに、シンは突進する狐面を体の真正面で受け止めた。
インパクトの瞬間に体を流し、ほんのわずか威力を殺す。だが岩のような塊は少しもひるむ様子がない。地面を削り、がりがりと音を立てながら、ただひたすらに押しつぶそうとする。
狐面が「きゃっきゃっ」と体に似合わない高い声を上げる。
無邪気な子供が、うまく扱えない力を見せつけるような異質な光景だ。自分が今、何をしているのかすらわかっていないかもしれない。
シンはひたすら抑え込もうとした。
吹き飛ばされないように、狐面にしがみつくような恰好で耐えた。
だが、室内の広さには限りがある。
とうとう出入口そばの壁際まで押されると、壁に背をぶつけた。
肉壁と『宮殿』の部屋の壁の間にシンは挟まれた。
「ぐっ――」
狐面は楽しそうにシンを壁に押し付ける。弄ぶようにじわじわと力を込め、奇妙な笑い声をあげる。
至近距離で仮面の奥の蒼い瞳と目が合った。
狐面は愉悦の表情だ。力とはこう使うものなのか、と始めて気づいて楽しんでいるのかもしれない。
シンは内心で苦笑いしつつ、最後の力を腹に込めた。
そして――今持てるだけの声で、叫んだ。
「ここから、逃げろっ! 地下に戻れ!」
それは壁の向こうで息を潜めているであろう二人に向けたものだった。
シンは間違いなく死ぬだろう。狐面に加えて、まだ人狼型も巨猿型もわずかに残っている。
けれど、一番危険なのは狐面だ。
それに比べれば、昇ってくるまでに出会ったリデッドは大したことがない。もしかしたらカルエッタとランツもシンに明かしていない力があるかもしれない。
「早くしろ!」
狐面が気づいていないと思いたい。
壁裏のわずかな気配はまだ動かない。聞こえていないはずがない。
「行けっ!」
シンは三度声を上げた。
と、それに反応するように――
「ッッアァァァァァァァ!」
狐面が最大級の咆哮を放った。至近距離での大音量に、シンは途方もないめまいに襲われた。
今ので二人が委縮していたら――
そんな絶望的な想像が頭をよぎった、その時だった。
シンは、腹部に熱した鉄棒を当てられたような痛みを感じた。何度か経験のある灼熱のごとき感覚。よく知っている。
「どうなって……いるんだ……」
群青色の刃が、彼の腹部に突き刺さっていた。ぽたりと刀身を伝って赤い血が落ちた。
急激に血の気が引いていく。意識が遠くなり始め、視界がぼんやりと滲んでいく。
シンはそんな中で、必死に目を凝らした。
刃の出どころは――
「こいつ……じゃない……のか……」
狐面が力を緩めた。
それに呼応するように刺さった刃が新たな痛みを生み出しながら、ゆっくり抜けていく。
――腹から背中へ。
刺した者は、壁の向こう側にいるのだ。
「ばかな……」
シンは混乱の渦に呑まれながら、膝から崩れ落ちた。
信じたくはなかった。
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