第16話

 しばらく眼を閉じて、ただ海水に身を任せていた。何時間くらい浮いていただろう。恐らく酸素の残量もほとんどあるまい。なのに、まるで培養液に浸された細胞のように、傷口が癒えていくような安らぎがあった。

 間違った選択ばかりしてきたことを「自分のせいじゃない」としか思えなかったのに、何故だかその時の浩二は「自分は愚かだった」と心から感じて涙を溢れさせた。

 その涙が、海水に溶けていくのを見て、羨ましいと感じた。

 計り知れない偉大な力がある。

 浩二は確かにそれを感じとっていた。

 砂の大きな円が真っ白に広がり、水色のドォムが囲う。その水色は、合わせる焦点によって、薄くも濃くも変わった。海水はさらさらと軽く、どんな形にも姿を変える。激流にもなれば、空気のように穏やかにもなった。

 対照的に、硬くて、真っ黒で、刺だらけ、傷だらけだった浩二の心も、しばらく泣くとほぐされて、色が落ち、丸くなり、辺りの景色に吸い込まれていく。

 ザワザワと、あぁしたいこうしたい、あれが欲しいこれが欲しいという欲が消え、もう、そこにただ浮いているだけで、本当に幸せな人生だったと過去のすべてに感謝できた。

 よく考えてみると、今まで浩二が敵だと認識していた人々が、必ずしも敵ではなかったように思う。

 例えば、浩二に写真を教えてくれた人物は、偏屈窮まりないじじぃだった。

 いつも理不尽なことで怒鳴られたし、専門的なことはなにも教えてはくれなかった。

 毎日掃除や雑用、接客、とにかく自分のしたくないことを浩二に押し付けているようにしか思えなかった。

 浩二は、彼を馬鹿にしていた。

 俺はじいさんみたいにちっさな町の写真屋さんで、一生、証明写真や遠足の写真なんか撮ってる人間では終わらないんだ。

 いつもそう思い、彼の話などほとんど聞かなかった。彼から学ぶことなんてないとさえ思っていた。

 無理難題を云われ、てんてこ舞いしていると「どうした一流のカメラマンになるんじゃないのか?」と笑われた。

 死ぬ程悔しい言葉だった。

 じじぃはそれからすぐ亡くなった。呆気ないもんだ。肝臓癌だった。

 結局、写真の知識は何一つ教わらなかった。

 ただ、浩二がなにも信用せずたった一人で日本を飛び出して以来、浩二を守ってきたのは「一流になるんじゃなかったのか?」と馬鹿にする笑い声だった。


 そうだ。俺は、ハリネズミのような人生を生きてきた。

 世の中のなにもかも信用できなかった。

 親も、兄弟も、親友も。

 そして、誰を見ても全身の針を逆立てて、俺に触れるなと脅かして生きてきた。

 自ら敵を作って生きてきたんだ。

 それは、自分に自信がなかったからだ。

 自分を愛してくれる人の、期待にこたえる自信が。


 やがて、浩二は眼を開けた。

 そこには、海はなく、みたこともないような不思議な光景があった。

 下からは直径五メェトル程の円から、身体が溶けそうなくらい光が発されている。

 円筒の部屋の壁は黒く、大小様々な四角いパネルが光っている。

 天井からも円が光を発していて、どうやらこの光によって身体が浮いているらしかった。

 浩二は慌てた。水中眼鏡を外し、身体を起こした。その勢いのせいで、身体がグルンと回転した。

 お目ざめですか?

 誰か女の声がした。

 今度は、ゆっくりとバランスを取りながら辺りを見渡すが誰もいない。出入口もない。

「私は異次間航行艦ハルタミナのAIエリトアです。言語選択はあっていますか? 」

 浩二はしばらく茫然として返事もできなかった。

「I am AI Eritoa of spacecraft Harutamina. The language selection is correct?」

 エリトアは今度は英語で聞いてきた。

「あ、あぁ、日本語で大丈夫だ。ここは伝説の宇宙船の中なのか? 」

 浩二は吾を取り戻して返事をした。

「そのようです。ここ百年程、そのような民間伝承があるようです」

 エリトアは、浩二の知っているAIとは違って、人間の、しかもどちらかというといい女の部類の、流暢で物腰の柔らかい話しぶりだった。

 浩二は、たぬきにでも化かされているような気分だった。もしかしたら、激流に呑まれたときにそのまま死んだか、気を失ったかしたのだと解釈した。

「なぜ俺を受け入れた? 」

 もし夢でないなら、浩二が真っ先に知りたいことだった。

「この船のセキュリティは、同質の波長かどうかで決まります。あなたは、自分で思うほど悪い人ではないようですね」

 エリトアはそう返答した。その言葉には、なにか、機械とは思えないやさしさが篭っている気がした。

 光がゆっくり弱まって、浩二の足が床についた。

 浩二は今度は躊躇いなくフィンもボンベも外す。

「なぜ、一億年もここに? 」

 AIといい艦内といい、故障しているようには見えなかった。

 だとするなら、ここに一億年も留まる理由がわからない。宇宙人がいくつまで生きるのか知らないが、さすがに一億年も生きるとは思えない。

「一億年前、戦闘による墜落でここに落ちました。私もいったんはこうしてお話することができなくなりましたが、現在は自己修復プログラムのおかげでほぼ修理は完了しています」

「触ってもいいか?」

「どうぞ」

 浩二は、そっと壁に手を触れてみた。ツヤのある金属に見えるが、触れてみると温かい。動物の肌のようだ。

「修理が済んでいるならなぜここを離れない? 」

 不思議な触り心地に、指で押したりしてみるが、柔らかくはない。

「主を待っています」

 さっきまで浩二が浮いていた光の中に、美しい女性が現れた。真っ白な肌に、銀色の長い髪、白くてタイトなロングドレスを纏っている。眼が切れ長で睫毛が長い。鼻が高い。ロシア人のようだ。いや、地球ではみたことがないくらい美しい。

 浩二は驚いて、一瞬後ろに引いたが、今度はマジマジと見た。

「あんたがAIか? 」

 エリトアは軽く頷く。

「姿が見えた方が話しやすいでしょ? 」

 浩二は両手をあげた。

「聞きたいことが多すぎて……」

 一呼吸する。

「君の星の人間は、こんな姿をしているのか?地球人にそっくりだ。そもそもいったいどこから来たんだ? 」

 エリトアは、部屋の中心の円から降りて、ゆっくり浩二の前に歩みよった。

「私たちは、プレアデス星系の二番星プレオミスという惑星から来ました。プレオミスの人種も様々ですが、比較的地球人に似ていると思います」

 浩二はエリトアの言葉が耳に入らなかった。

「な、なんで歩けるの? 」

「私が自由に動けるのは艦内だけです」

 エリトアはくるりと背を向けて、部屋の円に沿って歩き出した。

「私たちの惑星は、ベガのベエタ人に侵略されて滅んでしまいました。そのベエタから、この星を守るためにここで主を待っているのです。もう、エンライトメントパワァのバリアが限界に近づいているから……」

 エリトアは一回りして浩二のうしろにきた。

 浩二は振り返る。

「な、なんのことだかさっぱり……」

 浩二は、壁にもたれて座り込み、身体に括り付けた防水ケェスを手繰り寄せ、中から煙草を取り出した。

「ここは禁煙か? 一本だけすわしてくれ」

 浩二はエリトアの返事を待たずにしわくちゃになった煙草に火をつけた。

 大仰に吸い込むと、また大袈裟に煙りを吐いた。

「私たちの星には、煙草という文化はありませんね。失礼ですが、やや原始的です」

 エリトアは、直接禁煙とは云わないが、喫煙をあまりよく思っていないのは明らかだった。

「あぁ、原始的だな。それでも、自分を保つには必要なもんだなと今日ほど思ったことはないね」

 浩二は、そう云って灰皿のないのに気付いた。

「どうぞ」

 エリトアの声と同時に、壁に五センチ四方の穴があいた。浩二は遠慮なく灰を払う。

「あんたの主は生きてるのか?」

 もう一度煙りを吸い込んで、吐きながら聞いた。

「まさか。プレオミスの寿命も地球の人と変わりません。三百年程度です」

 三百年も生きた地球人なんて聞いたことがない。浩二はそう思いながら、そこには触れなかった。

「じゃあなんで一億年もくるあてのない主を待ってんの?」

「オリスは必ず来ます」

 エリトアは間髪あけず答えた。

「オリスってのか。死んでるなら、来るに来れないだろ?」

 浩二は、そう云いながら何かこのAIを気の毒に思った。来るあてのない主を一億年も待っているなんて。

 しかし、エリトアの方でも浩二を気の毒に思っていた。

「地球では、死んだら終わりってことになっているのですものね」

 浩二はまた両手をあげる。

「なってるもなにも! プレオミスでは違うのかい?」

「こう云ってはなんですが、先進星では死んだら終わりだという思想の星は一つとしてありません。世界は、何次にもわかれていて、死は、異次への旅立ちに過ぎない。この理論が五百億年前に証明されて、異次間航行の発明に大きく寄与したとされています」

 浩二は、エリトアの言葉をすべて理解したわけではないが、なんとなくはわかった。

「ふ~ん。死んだら異次元へ行くのが宇宙じゃ常識なんだ?」

 エリトアの返事を上の空で聞いて、もうなんでもありだなと、そう思った。

「あんたの話しだと、もう一億年も前から地球は狙われてんのか? 」

 浩二は大事なところを思い出した。

 この夏の主要都市のUFO騒ぎに、アステロイド騒ぎ。なにか関連しているのは明らかだった。

「そうです。一億年もこの星を守ってきたのはオリスです。地球人は彼女には頭があがりませんね」

 エリトアは冗談まじりにそう返事をした。

「一億年も前なら人類なんてまだいなかったろ? なのにどうして?」

浩二は、目の前で展開されていることを目の当たりにしても、まだ、何一つ信じられないといった様子だった。

「一億年前、地球にはすでに文明がありました。現在より優れたものです。そのときの文明は結局滅びてしまいましたが……それから、ここは大陸となって浮いたり、また沈んだりしながら、地球人の文明とともに一億年を過ごしてきました」

 エリトアは話しにくそうに下をむいた。

 それが真実なら、それも不都合な真実だなと浩二は思った。

 浩二はもう一つ大切なことを思い出した。

「そういえば、ここに入る前に漁船やボンベが落ちてるのを見たが、奴らも無事なのか? 」

 エリトアは一瞬表情を曇らせた。

「……残念ながら、彼らはセキュリティを通れませんでした……」

 エリトアはそう云って俯いた。その寂しそうな表情は、ホログラムだとは思えない。

「俺が通れたのに? 」

 浩二には、それが一番の疑問だった。

 エリトアはクスクスと笑って浩二をみた。

「だから、あなたは悪い人ではないんですよ」

 浩二はそのエリトアの笑顔に、なにか懐かしい淡い気持ちが蘇っていくのを感じた。

「冗談はよせよ。相手はAIだぜ? 」

 浩二は小さく呟いた。

 エリトアは不思議な顔をして聞いた。

「すみません。聞き取れませんでした」

 浩二は慌てて立ち上がった。

「いや、独り言だ。それより、なにか俺にできることはあるか? 」

 エリトアは、またフフッと笑った。

「何かおかしなことを云ったかな? 」

 浩二は両手を斜めしたに広げて聞いた。日本をでてから、両手を挙げたり広げたり、ボディランゲェジが大袈裟になっていた。

「だって。普通ならさっさと証拠の写真を撮ってこういいますよ。俺を港に帰してくれないか。って」

 エリトアは物真似を交えてそう云った。本当なら、音声を浩二の音声そのままに話せるのだが、あえて、エリトアの音声で浩二の声色を真似た。

 浩二は、なるほどと思いながら、首に提げたカメラを構えた。そして、少し考えてから一枚も撮らずにカメラを下ろした。

「やめた」

 浩二はその場にへたりこむと、頭に両手をあてて寝転んだ。

「なにか、お気に障りましたか?」

 エリトアは、悲しい顔をして浩二を覗いた。

「なにも?」

 エリトアは、浩二の横に腰掛けた。

「じゃあ何故?」

 エリトアはそう聞いてから、辺りの景色の殺風景なのに気付いた。

 次の瞬間、そこは砂浜になり、美しい水平線に夕日が沈みゆく。波の音が妙に切ない。

 浩二は驚いて上体を起こした。

 上等な卵で焼いた半熟の目玉焼きのような夕日があった。そう思ってから、自分の貧困なボキャブラリにうんざりした。

「どうせ残らないんだろ?」

 立てた膝に腕をのせて聞いた。

「写真のこと?」

 エリトアはじっと浩二の眼をみた。

 浩二は視線を泳がせて不自然に斜め上を見て「あぁ」と答えた。

「ためしてみたら?」

 エリトアは、悪戯っぽく笑って立ち上がると、そのまま波打ち際に走り、波と戯れた。

 あれが本当にAIなのか? いったい宇宙はどうなってんだ?

 浩二はエリトアに向けてカメラを構えた。

 被写体が夕日の影になって、それが美しさを逆に際立たせた。

 しばらくして、笑いながらエリトアが戻ってきた。

「ほら! あなたも!」

 エリトアは浩二の手を取ると波の方へ引っ張った。  

 そういえば、ホログラムであるはずの砂も確かにそこにあるように感じる。

「なんで、俺に触れられるんだ?」

 手を引かれながら、疑問を口にする。

「そんなこと内緒です! さあ!」

 エリトアは、先に膝まで海に浸かると両手で海水を掬って浩二にかけた。

「やったなこの野郎!」

 浩二も、もう深く考えることはやめて、エリトアに水をかけかえした。

「キャッ」

 エリトアはバランスを崩して波に背中から倒れていく。

 浩二は慌てて彼女の手を取るが、そのまま二人は波に倒れ込んだ。

 海面に顔だけを出すエリトアの鼻が、浩二の鼻に今にも触れそうだった。

「ダメよ!」

 エリトアは浩二を突き放すと、顔を真っ赤にして砂浜に戻っていった。

 あれが本当にAIか!

 いったい宇宙はどうなってんだ!

 浩二はまた同じことを思った。





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