第10話 「君の瞳に映ったボクに、乾杯!」

 彼の緩やかな新卒脳裏に、ラックスゼミでの思い出が、またまた、よみがえってきた。

 「美味い」

 「うん、美味い」

 「これ選んで、大正解!」

 「教授の入れた、たっぷりパセリも、最高だね!」

 大量パセリのシーザーサラダは、もてはやされた。新卒市場の、ように。

 「君の瞳に映ったボクに、乾杯!」

 アンディが、満足したのか、レモンティーの入ったグラスを、高々と掲げた。

 「失礼するにゃ」

 「あい」

 丁度、そのときだった。

 建築学のマトーヤ教授に、考古学のシルチス教授が、ラックスゼミ室に、入ってきたのだ。

 「お祭り気分、良いにゃあ!」

「あい」

 「隣りにある私の研究室に、こちらから、お祭り気分の楽しそうな声が聞こえてきたものでにゃあ。つられて、きましたにゃ」

 「あい」

 ラックス教授が、そんな2人の来客を見ながら、大いに、お祭り気分だった。

 「おお、先生方?良いところに、きていただいたものですよ。お祭り気分は、大勢であってこそのものですからね。どうですか?先生方も、食べてください。美味しいんですよ?」

 だが、マトーヤ教授は、一切、食べ物には手をつけてくれなかった。

 そういえば、マトーヤ教授は、ネコだったのだ!

 シルチス教授もまた、食べ物には、手をつけてくれなかった。

 そういえば、シルチス教授は、虫歯になっていたのだ!

 「あれ?マトーヤたちは、食べないの?ほっぺた、落ちちまうぜ」

 ラックス教授は、アンディのその言葉を聞いて、一喝。

 「こら、アンディ君。私なら怒りは抑えるが、他の先生方にそう話しかけては、いかんよ。君たちは、新卒なんだよ?そんなに努力しなくても、社会に出ていくんだよ?ああ、だからか…。心配かけさせないで、ほしい」

 「じゃあ、美味しいコーヒーは、いかが?紅茶も、淹れるわよ?ホットで、最高よ?あたし、キャバいくらいに、張り切っちゃうんだから」

 「これ、ドロシー君!」

 2人の教授は、困った様子となった。

 「猫舌だから、やめておくにゃ」

 そういえば、マトーヤ教授は、ネコだったのだ。

 「もう、僕、眠くなってきちゃった」

 そういえば、シルチス教授は、子どもだったのだ。

 「マトーヤもシルチスも、仕方ないわ」

 「こら。ドロシー君」

 「何さー」

 「あのねえ…、良いかな?社会では、君のまわりがすべてお友達と思ったら、大間違いだよ?」

 「でも、教授?」

 「何かね?」

 「ここは、ゼミ室よ?嫌だわあ、教授って。あたし、ここは、社会とは違うと思うんですけれどう」

 「いいや、社会だね」

 「教授?もしかして、イライラしてるの?あたし、良いオイル、もってきたほうが良いかな?」

 「…」

 「おお。教授が、黙ったぞ!」

 「本当だ!」

 「ドロシーの、勝ち!」

 「いやーん!」

 「…き、君たち!まったく…。新卒は、強すぎだ。就職氷河期世代の子が聞いたら、泣くだろうなあ。先生方?怒ってくださいよ!」

 ラックス教授はそう言ったが、マトーヤ教授は、怒るそぶりなど、みじんも見せなかった。

 そういえば、マトーヤ教授は、ネコだったのだ。

 「あれ?シルチス先生は?」

 慌てた、ラックス教授。

 「あ、いた!」

 シルチス教授は、ラックス教授の専用机の上で、寝ていた。

 「ファンタジックな、ゼミですこと…」

 「ドロシー。そういうこと、言うな」

 「ああ、シルチス先生?そこ、私の教授机なのですが…」

 「あ!」

 「机から、落ちた!」

 「あ!」

 「起きた!」

 「泣いた!」

楽しい楽しい、学生時代だった。

その日の、カムリ先輩は、饒舌だった。

 「皆、ラックス教授の、これからのますますのご活躍を祈って、片付けをはじめようじゃないか。さあ、仕事だ、仕事だ。良いお祭り気分を、味わえたな。これも、教授のおかげだ」

 「片付ける?」

 「誰を、片付けるの?」

 「家庭に強制送還された、定年退職組?」

 「誰が、片付けるの?」

 「家庭の、奥様」

 「あら、サム?それ、マジ、ウケるんじゃないの?」

 皆が、幸せだった。

 たとえ困ったことが起こったとしても、ネットで検索すれば答えがわかり、それで、万事終了となれた。テキストには、多くの解決策が、載っていた。それを見て、頭の中にコピーするだけで、良かった。

 新卒世代は、いつだって、最凶だった。 

 毎日のように、彼らなりの鼓動を感じさせた存在だった。大学に入ればすぐに、毎日、面接の猛練習。

 「こう聞かれたら、こう言い返せばいい」

 マニュアルを元に、暗唱を重ねた。

 頭にたたき込み、心臓にも、暗唱をさせていった気になっていた。その意味では、鼓動で、生きていたわけだ。

 鼓動だ。

 教授の言っていたように、大切なのは、鼓動だった。

 どんなときにでも、困ったことがあれば、まわりに見てもらえるように、振る舞った。

 そうすれば、声をかけてもらえた。

 「君?どうしたんだい?新卒社員の子、かな?名前は、何かな?言える?どこから、きたのかな?」

 それは、仕事を誰かに肩代わりさせるための、新卒世代くらいにしかできない、大いなるテクニックでもあった。

 「心臓を、ドキドキ」

 そうして鼓動を出して待っていれば、誰かに、助けてもらえた。

 皆が、友達だった。

 社会は、彼らのステージ!

 それなのに、教授は、おかしなことを言った。

 「君たち?お祝いの会でのことを、思い出してほしいな。パセリだよ、パセリ。パセリ気分の感覚は、どこまで、社会に通用するものだろうね?」

 ラックスゼミの仲間らには、その意味がわからず、信じることもできなかった。

 それが、どうか?

 何と、いうことか!

 実際に社会に出てみれば、どうにも、ラックス教授のいっていた通りになってしまったようなのだった。

 それはそれは、驚きの連続だった。

 特に驚かされたのは、このことだった。

 「社会には、いろいろな人がいた。君たち新卒者には、わかるまい。それまで懸命に学んできたのに、その努力が叶わずに、上手く社会へ参入できなくなってしまった人たちもいたのだ。もう少し言ってしまっても許してもらえるのならば、努力して学んできたのに、何の職にも就けなかった人たちもいたと、いうことだ。想像以上に、苦労させられていたのだ」

 そんな伝説は、現実的でなかった。

 ゼミ生の皆には、混乱の種だった。

 「社会は、空前の、人手不足。何で、仕事が見つからないなんてことがあるのか」

 「何の氷河だか知らないがなあ、そんなとこに落とされるなんて、かわいそ。バカだよな」

 「だよねー」

 彼らは、本当に、そう思っていた。

 新卒の学生時代は、ゆるゆるで、本当の本当に、楽しさの記憶くらいしかなかった。

 教授は、そんなとき、いつも、顔をしかめていたものだった。

 「やっぱり、懐かしいなあ…」

 その日も彼は、会社のデスクの上にスマホ画面を広げ、オダマキの花写真を見て、ニヤニヤしていた。

 「あの人のことが、心配、か。何が心配だって、言いたかったのかねえ」

 彼はまた、ニヤニヤをはじめていた。

 「あのサラダ、美味しかったなあ」

 学生生活が終わり、ゼミ仲間と別れた。働く先の保証された、素敵な別れとなった。

 「内定、いくつ、もらったの?」

 「3つ」

 「え、それだけ?」

 「新卒、楽だよねー」

 「特に、俺たちは、勝ち組」

 「就職課の、お墨付き」

 「だよな」

 入社した先は、優しかった。

 「あのう…。俺、観たいテレビ番組があるから、帰りたいんですけど」

 「ああ、そう。じゃあ、君はもう、帰って良いよ」

 手を振って、帰宅させてくれたものだ。

 その会社は、すぐに、やめた。

 「俺は、FAになったんだな。新卒って、格好良いな」

 他の誰かも、こう言っていた。

 「あのう…。知らない人から、ごちゃごちゃ言われるじゃ、ないですかあ。俺ら、ああいうの、許せないんですよね?業績を上げろ、業績を上げろって、競争に負けるなって、部長が言うじゃないすかあ。あれも、効率、無理っす。仲良くやるのが、普通のはずですよね?競争って、無理。あ、そうそう。俺、ルーター買ってこなくちゃいけないモード、なんすよね?帰りたいんですけど」

 「わかった。明日から、会社にこなくて良いからね」

 優しく、言ってもらえた。

 「皆、元気かなあ…」

 たくさんの笑顔が、浮かんできていた。

 「ああ…。良いなあ、新卒」

 何も苦労せずに新卒気分に浸ることのできた彼の姿を見て、リー社員が、ずっと、うらやましがっていた。

 リー社員が就職したころ、社会には、不思議な恐ろしい氷河があった。

 社会は、タイミングの身分差だった。

 会社には、カミオという、彼に気さくに声をかけてくれる先輩がいた。

 「見ろよ、トキオ?」

 そのカミオ先輩が、リー社員を指差して言った。カミオ先輩が社会に出たころは、大変な好景気社会だったらしく、日々、天国だったそうだ。

 「見ろよ、トキオ。いいか?あの子は、大学院卒らしいぜ。人事課から、こっそりと、聞いたことがある。個人情報がどうのと、とやかく言われる前のことだ。間違いない。大学院卒だってよ。懸命になって、勉強していたらしいな。だがな、どこにも就職できず、だ。かわいそうに。それで、さまよってな。うちの会社が、拾ってやったんだとさ。あの子、本当に、かわいそうになあ。ああなっちゃったら、おしまいだよな」

 「そうっすね。カミオ先輩」

 トキオも、彼女を、哀れに思った。

 「ほら、トキオ。お前、かわいそうなあの子を、元気づけてやれよ。俺は、あんな哀れな子には迷惑をかけないように、あまり関わらずに、1人きりで生きなけりゃならん」

 「そうっすね。カミオ先輩」

 「それじゃあ、頼んだぞ」

 彼らは、間違いなく、鼓動を感じながら生きていた。




 



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