第2話 「逃げなきゃ、ダメだ…逃げなきゃ、ダメだ」

 「ポケー」

 会社内の彼は、イスの上で、植木鉢のように這いつくばって、口を開け続けていた。そうしながら、ぶつぶつと、独り言を言っていた。

 「あーあ。心配だなあ」

 そんな様子を見て、既卒入社のカミオ先輩が、奇異な眼差しを、向けていた。

 「あいつ、何を、心配しているんだ?」

 風が吹いて、木の葉が舞った。

 少しだけ、寒くなってきたようだった。

 「今日は寒いんで、俺、帰ります」

 「え?お前、これ、寒いの?」

 「まじで?」

 「トキオ君?まだ、業務時間じゃないか」

 「いや、寒いんで」

 「…」

 秋もはじまった日、夕方のことだった。

 「この前までは、暖かかったのにな」

 彼は、いつものように、会社からの家路を急いでいた。

 アパートに、1人暮らし。

 「面倒だなあ。早く帰って、部屋の中へ入り込むのが、一番だ」

 1人は、寂しいものだった。

 「ただいま」

 そう言っても、何も言葉が返ってこなかった。それは、だれかに守られてこそ生きてこられた彼らの世代特有の事情からすれば、殺人的な悲しさだった。

 「我慢。我慢。俺はまだ、本気出していないだけ。わかってくれないあいつらが、変わっているんだよな。お父さんやお母さんの、言っていた通りだったよ。社会は、厳しい。俺たちを、わかってくれないんだからな」

 彼は、会社近くのアパートに、住んだ。

 友人からは、こう言われたことがあった。

 「トキオ?会社の近くに、住むの?隣りの駅近くに、良い物件が、あったじゃないか?そこに住んで、通えば良いじゃないか。電車一本で、通勤できる」

 が、彼は、そのアドバイスを退けた。

 「隣り駅の物件で、良いじゃないか?」

 念を押されても、応じられないものは、応じられなかった。

 「1人で電車に乗るなんて、怖いじゃないか。俺は、新卒だよ?まったく…、会社の人が、迎えにきてくれるわけでも、ないし…」

 会社の外は、ただ、緩やかな気温だった。

 「もうすぐ、帰れるぞ。走れ」

 アパートまでの途中の道には、ラフレシア公園という、変わった名の公園があった。

 いつも、そのラフレシア公園を横切って、アパートに帰ることにしていた。大通りを進むよりも、少し、近道になるからだった。

 「走れ」

 公園の中に、公衆電話が、見えた。

 「ああ。あれって、公衆電話って、いうんだったな。教科書に、出ていたなあ。珍しい」 

 珍しいと感じられたのも、そのはずだ。

 「今は、公衆電話がどんどん減っている」

 会社のパソコンで見たネットニュースで、知っていたからだ。

 丁度、そのときだった。

 プルルルル。

 「ええ?」

 驚がくの事件、だった。

 「減らされた公衆電話の怨念のようなものが、音を発していたんじゃないだろうか?」

 奇妙、だった。

 彼がそこを横切るタイミングを見計らったかのようにして、襲ってきた。

 「俺は、新卒だぞ?世界に、1つだけなんだぞ?最高の花に、ケンカ売ってるのか?」

 プルルルル。

 気になって、仕方がなくなってきた。ずっと、鳴り続けていた。

 「これは、挑戦なのか?俺の知らない人の声が、するんだろうなあ?…だが、逃げちゃいけない。俺は、新卒なんだ!」

 腹を、くくった。

 「逃げちゃ、ダメだ…逃げちゃ、ダメだ」

 おそるおそる、電話機に近付いてみることにした。

 「これか!」

 プルルルル。

 音を鳴らし続けていたのは、教科書通りの公衆電話だった。

 「新卒の力を、見よ!」

 ガチャ。

 震える手は、どうにも止まらないロマンチックに、なっていた。

 ついに、電話ボックスに入って、受話器を取ってしまった。

 すると、女性の声がしてきた。

 「トキオさん、ですよね?」

 彼は、震えた。

 お母さんたちの声では、なかったからだ。

 ただ、冷や汗らしきものは、出なかった。汗を上手く出せる身体の作りに、なっていなかったからだ。

 「トキオさん?もう、こちらにはきてくれないのかしら?」

 「何ですか?」

「もう、トキオさんったら…」

 「誰?…しまった」

 つい、応じてしまっていた。

 電話の主が彼の名前を知っていたことで、無視をして受話器を戻すのも、怖くなっていたのだ。

 「いたずらか?」

 「…」

 「もしもし?」

 「…」

 「何か、言えって」

 「…」

 「やっぱり、いたずらなのか?」

 「トキオさん、聞いているんですか?」

 「え?」

 「だから、聞いているんですか?」

 今度は、怒られた。

 「ちょっと、誰なんですか?」

 「何、言っているのよ」

 また、怒られた。

 「あ。知らない人に、怒られた。俺は、新卒なのに。お母さん…」

 「もう、いつになったら、私を、ちゃんと見てくれるのよう!」

 「何だよ!早く、帰りたいのに!」

 「自分の胸に手を当てて、よーっく、考えてみてください!」

 「何だって?」

 一体、誰の声だったというのだろうか?女性なのは、間違いないと、考えていたが…。

 「困ったな」

 どうしても、思い出せないままだった。

 「新手の、詐欺か?そうだな。詐欺も、巧妙化しているっていうからな」

 1人で、そう、納得してしまっていた。すぐに電話機から離れることを、決断。

 「逃げなきゃ、ダメだ…逃げなきゃ、ダメだ」

 ラフレシアを裏切り、アパートに着いた。

 部屋の中は、暖かだった。






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