3-4
4 テオン
テオンは部屋の隅に置かれていた鉄製の硬い寝台から布を引き剥がし、身体に纏った。この状況で年老いた自分がいちばん注意しなければならないのは体調を崩すことだ。それに、今からしようとしていることを考えれば、少しでも上衣があるに越したことはない。
この船はおそらくティエンシャンとイストラリアンを結ぶ定期貨物船──それも石炭を運ぶ中規模貨物船だろう。船に染み付いた墨の匂いでわかる。それに部屋の外周の湾曲具合から船全体の大きさはだいたい推測できる。
子供のころに憶えたことほど、案外忘れられないものだからな。
寝台を引きずって扉の前まで移動する。こうすることで不審に思った連中が部屋に入ってこないようになるだろう。まさか自分たちがテオンを監禁しているはずが、逆にテオンに立て篭もられるという状況になるとは思ってもいないだろうが……
続いてテオンは部屋の中央部の床板を、梃子の要領で取り外す。
テオンの狙い通り、抜け道はあった。床下の浮力調整室だ。
造船技術の発展によりこうした面倒な機能は次第に使われなくなっていたが、まだ旧式の貨物船ではその名残がある。若手の船員や素人の兵士たちがそのことを知らなかったことは仕方のないことだったが、五十年前の船乗りであるテオンがこの仕掛に知悉していたのは必然だったのである。
床下に降り立つ。使用されていないのだから、収納庫も当然伽藍堂だ。収納庫は他の部屋と繋がっており、テオンは慎重に頭上からの物音を確かめながら歩いた。
船内の基本的な区劃についてはだいたい想像ができる。おそらく自分がいたのは船体の最上部にある個室ということだろう。居住区劃は人目につく可能性が大きい。少し離れて、かつすぐに甲板に出れる階段付近となると……
「このあたりか」
頭上の羽目板をそろりと外し、地面を蹴って、這い上がる。だいぶ厳しいが、なんとか上ることができた。
「……牢獄で鍛えていたのがこんなところで生きるとはな」
周囲を伺いつつ、甲板に上がる。時刻は昼。下手を打てばすぐに見つかってしまう。
時間との勝負だ。見つかる前に脱出を終わらせるほかない。
テオンの計画は、しかし即座に挫折した。すぐに船乗りのひとりと目が合ってしまった。
一瞬の沈黙。テオンはさも当然というような調子でそこを通り過ぎる。
「待て! どこへ行くつもりだ!」
背後からの声。迷わず走り出す。ぜったいに振り向いてはいけない。
貨物船には緊急用の小舟が必ず積まれている。それを下ろして脱出する。
異変に気づいた船員たちが次々と現れる。かれらはまず全力疾走する老人に面食らうような表情をし、そしてその行手を阻むように立ち塞がる。
だがあいにく、船の上の知識に関してはテオンの方が数段年季が入っている。
するりと走り抜け、小舟に辿り着く。その中に飛び込んで、海面に下ろすための縄に手をかける──
「そこまでだ」
テオンが掴もうとした縄は、すでに兵士の手の中にしっかりと握られていた。
やはり老人の脚力では敵わなかったのだ。
「ちょっと海風にあたりに行こうかと思ったんだが……」
兵士は無愛想に首を振る。
「部屋に戻れ」
あと少し。あとわずかだったのに、届かなかった。
ポーラの元へ行かなくてはならないというのに……
こうなったら海に飛び込んででも行くしかない。
どこまで泳げるかはわからないが、せめて……
立ち上がり服を脱ぎかけたそのときだった。
「待ってくれ──ッ!」
風に乗って運ばれてきた、その途轍もない大音声にだれもが振り向いた。そこの声の先には、もう一隻の巨大な船影があった。
「その男の身柄を引き受けに来た!」
ゆっくりと近づいてくるその船は帝国の巡洋艦だった。甲板には幾人もの帝国兵たちが並び、その中央にやたらと身振りの大きな騒々しい男がいる。
「テオン・アッシャービアだな?」
だんだんと近づくにつれ、その男の顔がはっきりと見えてきた。その騒々しい口ぶり。年老いてなお、そのようすはあのころのままだ。
「まさか、おまえは……」
首からかけられた七つの徽章がその身分を現している。かつてのかれの父親と同じ地位。
この男もまた、自分なりの道を極めたのだ。
「私はティエンシャン帝国七賢にして、皇帝陛下の名代。ラクロン・シャラビーユ卿。我国への追放が決まったその男の身柄を、職権により引き受けに来た!」
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