2-9 テオン

 自分の生きる楽しみはなんだろうか。

 十歳のとき。それは橋の袂から見た星々だった。見ているだけで空腹を忘れられるような圧倒的な輝かしさ。その雄大さ。それこそが狭い世界にひっそりと暮らす自分にとってのいちばんの喜びだった。

 十五歳のとき。それは学びの喜びだった。あの船の中で暮らした日々は自分が初めて心の底から笑えた生活だった。もしリーバやエルクロスに出会えなかったなら、きっと自分は他人の心を知らないまま大人になってしまったのだろう。星の名前も、皿の洗い方も、会話の仕方も。すべてあのときに学んだことだ。

 二十歳のときには、楽しみはひとつじゃ収まらなくなっていた。自分にとって研究は天職だった。星のことを知り、解き明かすことは至上の喜びだった。だがメルルの存在は、百万の星とも等価だった。たったひとりのその愛すべきひとがいたからこそ、自分はこうして今も生きていることができるのだ。

 そして今。三十を数えた自分にはまたもうひとつの生きる喜びに恵まれている。

 テオンは右手の中にある、小さな柔らかい掌を握りしめた。

 ポーラは穏やかな母とは対照的に、どこまでも活発で火花のような少女に育った。その名前はテオンのもっとも愛する星──リーバ船長と出会ったときに最初に教えてもらった星の名前からつけた。だがその「不動の星」の名前とも正反対に、ポーラはどこまでもすっ飛んでいくような元気溌剌とした少女だった。

 そしてまたテオンにはもうひとりの愛児がいた。それはひとの子ではなく、研究の子──かれの研究の結晶ともいうべき書籍の刊行だった。『天体学概論』と銘打たれたその書籍は、全六巻を睨んでまずは最初の一冊『天体の運行』が執筆された。今晩はその完成を祝して、天文台の同僚たちとちょっとした酒宴を催す運びとなっていた。

 盃を掲げる。かれの視界に映るのは、信頼できる同僚たち。珍しく海を見下ろせる酒場を貸し切っての豪勢な一夜だ。星空と海峡の濃紺が奏でる夜景を選んだのは、もちろんテオン本人だった。

「今日はわざわざ集まってくれてありがとう」

「所長の本が完成したというのに、祝わないわけがないでしょう」

 十年来の同僚が叫ぶ。

「いやいや、まだ第一巻ができたばかりだ。大変なのはこれからだ。はたして完成まで生きていられるかどうか……」

「所長が死んでもおれが書き継ぐから安心してくださいよ!」

 若手の冗談に一同は破顔した。

「それにしても天動説と地動説をほんとうに両立させるなんて……まだ理論だけで検証段階には至ってないものの、これは冗談抜きに世界規模の研究ですよ」

「そうですよ! 天動説か地動説か。帝国と協商の学会を二分している大問題を止揚できるのなら、世界初の偉業です」

 皆は口々に称賛の言葉をくれる。普段から肝胆相照らす同僚たちの忌憚ない言葉だとわかるからこそ、嬉しさもひとしおだった。

 エルクロス。それにラクロン。自分は偉大な天文学者たちのおかげで今もこうして研究を続けることができている。かれらにもこの本を見せたい。全巻が完成したらきっとこの手で見せに行こう。そしてあのラクロンの鼻をもう一度あかしてやるんだ。あいつのことだからきっと、この本を読めばもう三日三晩は喋りが止まらなくなるに違いない。

 酒を思い切り喉に送り込んだそのとき、がたんと大きな音がして人影が入ってきた。

「メルル……どうしてここへ?」

「あなた、大変よ!」メルルは荒い息を必死に整えながら絞りだすように云った。「あなたが告発されているの。政治犯として」


〈テオン・アッシャービア 三十歳

 王立天文台所長

 右は、自著『天体の運行』の中で、異端の説を唱え国王陛下の権威に疑義を呈し、もって王室に対する不敬を犯した疑いがある。直ちに当該書籍の流通を禁じた上で、被告の王室裁判所への出廷を命ずる。〉


「カルラビエの報復よ」

 メルルは今にも泣き出しそうな顔でテオンに縋り付いた。

「あいつは失脚したあとも十年間、ずっとこの機会を伺っていたんだわ。噂ではまた皇太子殿下に取り入って、今じゃ爵位も目前だって話よ」

「ちょうどだれもが忘れたころに戻ってきやがったということか……」

「でっち上げの罪であなたを失脚に追い込むつもりなのよ。自分がやられたように。ぜったいに出廷してはいけないわ」

「でもだからといって、どうすれば良いというんだ。逃亡犯にでもなれと?」

「その方がマシだわ! 不敬罪で死刑になるひとだっているのよ!」

「ぼくは罪を犯したことなどない! 後ろめたいことがないのなら、正々堂々と立ち向かうべきだ」

 口ではそう云いつつも、テオン自身悟っていた。きっとカルラビエは自分の全生命を賭してテオンを潰すつもりだ。おそらく出廷してもそこは罠だらけだろう。裁判官たちは買収されているかもしれない。証拠は改竄されているかもしれない。自分の過去の発言は散々曲解されて伝わっているのかもしれない。

 そして何より、テオンが地動説と天動説というきわめて複雑な政治的問題に切り込んでいたのは紛れもない事実なのだ。地動説は神秘教団の、天動説はシューマ神話の教義ときわめて密接に結びついている。シューマ神話の信仰を取り入れているイストラリアン王家の前で両者の習合を説くということは、実際に異端と思われても仕方のない部分があるのだ。

 唯一頼みの綱はテオンを天文台の所長に任命したレルラ七世の存在だったが……これについても良くない状況であった。国王はここ数年病で臥せっており、実験を握っているのは息子であり才気の点で国王より遥かに劣る皇太子だったのだ。そしてその皇太子もカルラビエの影響下にある……

 状況は最悪としか云いようがなかった。


「この者は公費で研究を続けながら、王家の信頼を損なうような発言を繰り返してきました。懲役刑は避けられません」

 訴追人は高らかに宣言した。テオンは頭痛のあまり、目眩を感じていた。このところ一睡もできていない。自らの中で何かがこわれていくのを感じていた。

 王宮裁判所大法廷。

 テオンを待っていたのは、偏見と決めつけに満ちた完全な悪意であった。

 裁判官たちは最初から疑り深い目でテオンを睨めつけた。訴追人は床にひっつくほど膨大な長さの罪状を読み上げ、テオンの私生活、普段の行動、職場での態度から発言に至るまでを赤裸々に語っていった。それらのなかには正しいものもあれば、まったくのでたらめと云って良いようなひどいものもあったが、テオンの抗議の声も虚しく強引に裁判は進められていった。

 傍聴席には大勢が詰めかけていた。研究所の仲間たちは不安そうな目で見ていたが、かれらにもテオンを救うことはできなかった。相手は王権だ。どうすることもできない。一方で、かつてあの討論会に集まったような好事家たちが、今度はテオンの失墜するさまを見ようと興味津々の無粋な視線を送っていることも、無視せずにはいられなかった。

 罪状が読み上げられた後、ひとりの男が証言台に立った。十年の年月を経てもその男の顔はすぐにわかった。

「カルラビエ・ザビール、証言なさい」

 裁判長の言葉に続いて、やつは証言を始めた。

「小生とテオン・アッシャービアとは、かつて王立天文台で共に働いた仲でありました。被告は当時から強い思想的偏向を持ち、ことに天動説と地動説の関係については──口にするのも憚られることですが──過激な主張を繰り返しておりました」

「ふざけるな! 云いがかりだ!」

「静粛に!」

 テオンの両脇を衛士が固めた。

「証言を続けなさい」

「被告は国王陛下や皇太子殿下のほか、王家の成り立ち自体を否定するようなことすら述べておりました。小生が反論したことが気に食わなかったらしく、卑劣な妨害工作によって天文台から追い出そうと試みるなど、当時から卑怯きわまりない人物でした」

 それは貴様のことだろう!

 心中そう叫んだが、もはや裁判はやつの独壇場となっていた。カルラビエは滔々と意見を述べ続ける。

「被告は幼少期、先の大戦でたいへんな辛酸を嘗めて育ったそうです。そのことが、かれの人格を歪めてしまったのでしょう。かれは神秘教徒とエヌッラ人の混血です。小生にはまったくもって人種に関する偏見はないのだと、再三申し上げますが、しかしかれが受けた差別というものはおそらく言語に絶するものだったことでしょう。ですが、これだけは云いたい。いかに悲惨な出自だろうと、国王陛下への侮辱は、この国の精神に対する侮辱は許せないのだと!」

 テオンはこれでもかというほど大げさな身振りで演説を締めくくった。

「いい加減にしろ!」考えるよりも先に声が出ていた。「私は少年のころ貧困と差別の奥底にいた。それは事実だ。たしかにこの国に恨みを思ったこともないとは云えない。だが今は……」

「おい認めたぞ!」

「やはり恨みを持っていたのかッ!」

「こいつは有罪だ!」

 続く言葉は傍聴席からの野次にかき消されてしまった。愕然とした。おそらく傍聴席の中にカルラビエの仕込んだサクラが混ざっていたのだろう。収まらぬ騒ぎの中、カルラビエは悠々と席を立ち、出口へと向かう。被告席を通ったとき、テオンにこっそりと口を寄せ耳打ちした。

「おれも王家の連中など大嫌いだ」その顔を蛇のように口が裂けるほど笑っていた。「反吐が出る。だがな、今回ばかりはおれが一手先を行っていた。おまえはもうおわりだ」

 カルラビエは肩を震わせ、声を出さずに大笑しながら裁判場を出ていった。


「どうして! どうしてこんなことになってしまったんだ?」

 机を思い切り叩く。裁判は終わり、判決は明日告知されるという。おそらく明け方には、この家に警吏が来てテオンを逮捕することだろう。

 裁判から戻ると、家の扉には隅で大きく「国賊」と書かれていた。その落書きを見てまず思ったのは「ポーラの読めないような難しい字で良かった」という妙な安堵だった。いまさらその程度のことで怒りなど湧いてこなかった。

 もし自分が逮捕されたら家族はどうなることだろう。メルルはきっと働かねばなるまい。だが雇ってくれる口などあるだろうか。反逆者の元妻など忌み嫌われるばかりだ。

 きっとポーラもいじめられることだろう。自分の幼少期を思い出す。どこにも属せず、だれからも嫌われていた子供の時分を。

 あんな思いをさせるわけには、ぜったいにいくものか。

 猶予は僅かしかない。テオンにできることも、限られている。

 これはおまえにできる最後のことだ。おまえが家族にできる、最後のこと。

 考えろ。考えろ。考えるんだ。

「お父さん、どうしたの?」

 机を叩いた音でポーラの眼を覚まさせてしまったようだ。眠そうな顔をして居間に来た娘の頭を、そっと撫でる。

「大丈夫。大丈夫だよ。さぁ寝なさい」

「お父さんは?」

「ちょっと考えなくちゃいけないことがあるんだ。夜風に当たってくるよ。さぁ部屋に戻って」

 大丈夫だから。それは娘じゃなくて自分に聞かせるべき言葉だ。

 海岸通りを歩く。気分は子供だったころのあのときと同じ。無力感。家族の苦痛をどうすることもできない、自分の弱さ。研究ばかりで家庭を顧みてこなかった罰なのかもしれない。

 いつもの天文学でひとが救えれば良かった。数式を書いて妻子を救えるのならどれだけ楽だっただろう。だがあいにく、今のテオンには解決の方法がないのだ。

 人影のない港。さざなみの音が、かれを責めたてるように聴こえた。何か方法があるはずだ。そう思う一方で、もう何もできないのだろうと膝をつく自分がいる。いっそここから海に飛び込めば……いやそんなことができるはずもない。守らなければならない家族はどうする。

 視界に、ひどく懐かしいものが映ったような気がした。気のせいかと思った。追い詰められた自分の精神が見せる幻覚ではないか、と。

 波止場に停泊したそれは、しかし何度たしかめても間違いようのない船影だった。山のような貨物を一挙に収容できる懐の広い佇まい。北海の荒波を何度も乗り越えてきた硬い船首。そしてその甲板には、あの日のように小難しい顔をした寛筒衣の男が、背筋を伸ばして立っていた。

 テオンの口から、自然とそのひとの名前が漏れる。

 気がついたときには駆け出していた。

 男はその足音に気がついたのか、ゆっくりとこちらを向き、そしてあっと驚いた表情でかつての「息子」の変わり果てた姿を見つめた。


「あのふたりのことは任せろ。おれが必ず、責任を持ってシャラビーユ卿の元へ送り届ける」

「ありがとう……ありがとうございます。リーバ船長」

 テオンの両手は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「おまえはほんとうに、来なくて良いのか」

「ぼくが逃げても、帝国の検問ですぐに捕まって送り返されるのがオチです。船長だって不法入国者が送り返されるのを、何度も見てるでしょう」

「そうか……そうだな」

 リーバは心底寂しそうな表情で頷いた。白髪の増えたその頭。しかし老境に入っても、やはりこの男は大木のように頼りになる存在感を持っていた。

「テオン。立派になったな。もう坊主とか小僧とは呼べないじゃないか」

「そんなことはないです。ぼくなんか全然……」

「いや。おまえは立派だ。おまえは自分の正義を曲げず、自分のやるべきことを突き進んだんだ。おまえはおれたち乗組員の誇りだ。おまえはこの船で一番の海の男なんだ」

「はい……」

「エルクロスも、きっとあの世で誇りに思っているはずだ」

「エルクロスが……」テオンは電撃に打たれたような感覚を受けた。「そうですか。あれから十五年も経ったんですものね。そういうことがあってもおかしくない」

 リーバはテオンの肩に手をかける。お互い云いたいことはたくさんあった。十五年ぶりの再会がこんなものじゃなければ、どれだけ良かっただろう。ふたりで海の上で、あの頃のように夢を語り合えたらどれだけ良かっただろう。テオンがこれまでやって来たこと、経験してきたことを語ることができたなら……。

「そうだ。船長」

「どうした。おれにできることならなんでもしよう」

「この本を、持っていってほしいんです」

 テオンは懐から『天体の運行』を取り出す。何冊分も刷って製本したこの本も、一冊除いて他はすべて焼き払われてしまった。家に置きっぱなしになっていたこの一冊だけが、テオンの持っている正真正銘最後の本だ。

「もしできれば、シャラビーユ卿の子息、ラクロンに渡してください。ほんとうはエルクロスにも読んでほしかったのですが」

「おうよ。任せな」

 リーバは拳で自分の胸を叩く。

「ティエンシャン航路で物を運ぶことにかけては、このリーバの右に出る者はいねえ」

 ふたりは固く抱き合って別れた。

 明け方、妻子を乗せたリーバの船が出港していくようすを、ずっと眺めた。

 あのころのように海は燃えていない。海上に浮かぶのは、絶望ではなくて希望だ。

 もうだれの叫び声も聴こえない。だれの泣く声も聴こえない。

 波止場に座り込んで、かれを探しに警吏がそこに現れるまで、ずっとそうやって白波を眺めていた。


 警吏が読み上げた文章も、テオンの頭には入ってこなかった。

 懲役三十年。そのことを意識したのは、逮捕から数日が経ってからだ。

 復讐心よりもやるせなさの方が大きいと気がついたとき、テオンは初めて大声を上げて泣いた。

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