2-7 テオン
こんなにも綺麗な場所だっただろうか。
波止場に降り立ち、四方を見回しながら荷物を持って海岸通りの方へ向かう道すがら。テオンの心には懐かしさよりもむしろ落ち着かない思いが湧いていた。こうしてしっかりとイストラリアンの大地を踏みしめることができたのは、実に十年振りだ。
子供のころとは視線も違う。見えてくる世界も違う。
だがそれ以上に、この国は大きく変わっていたのだ。
壊された街並みは白塗りの整然とした建築に建て替えられ、通りを牛車や物売りたちが行き交う。ひとびとの身なりはシャンとしていて、道端に座り込んでいる者などひとりもいない。あたかもこの豊かさがずっと前からあったかのような素知らぬ顔でこの街は小粋な衣装を纏っているのだ。
「素敵な街ね」
メルルはなんの気もなしにそう云ったが、テオンにとってそれは素敵というよりも不気味だった。あの戦争のことはすっかり忘れてしまったというのか。この世界を壊し尽くした、この海を炎で覆ったあの戦争がなかったことのようになっているというのか。
だが王宮へと向かう道中、その思いは間違っていたのだと気付かされる。
表通りを一歩抜ければ、まだ取り壊されていない古い家々があった。屋根には穴が開き、扉は煤で真黒に焼けているような家が。路面に茣蓙を敷き、食糧品や衣類を売っている子供たちがいた。かれらの表情は暗かった。この街は決して戦争を忘れたわけではない。それどころか、あの暗い綻びは今でも拭えない疵になって、そこかしこに残されているのだ。テオンとメルルは子供たちから林檎をひとつずつ買った。
港の周辺を整備しているのは、外国からの来客が多いこの国ならではの都合だろう。せめて玄関口くらいは、丁寧に掃き清めておかねばならないということなのだ。だがそれでもなお、この国の綻びは隠しきれない。当然だ。あの戦争の残り火を消すためには、三十年、四十年……いや六十年経っても足りないかもしれない。
自分はそんな場所で生まれたのだ。チャオパティ川の緑色の流れを見つめながら、テオンは強く感じていた。ここは戻ってくるべき場所だったのだ、と。
テオン・アッシャービアはレルラ七世の歓待を受け、新たに設立された王立天文台の所長に任命された。二十を越えたばかりの若者にしては異例の大抜擢だが、それだけ帝国学府主席卒業の称号が大きな強みになったということでもある。天文台では最新の設備が用意され、暦の作成や気象の予測などを目標としてさかんな研究が行われることになった。
天文台に所属するのはテオンを含め二十名の選りすぐった研究者だ。イストラリアン王家の広範な人脈を活かし、各地から新進気鋭の者たちが集められた。規模の面では帝国の研究機関には劣るものの、非常にやり甲斐のある任務だった。
あの男が来るまでは。
カルラビエ・ザビールは、占星術師を名乗っていた。
占星術は天文学の一部門として、それなりの隆盛を誇っている。帝国では廃れつつあるものの、南部諸島ではシューマ信仰と組み合わさって重要な位置づけにあり、貴族たちの中にも占星術に耽溺する者が少なくなかった。
まともな占星術師であったならば問題にはならなかっただろう。だが、カルラビエはエヌッラ出身の名門占星術師という触れ込みで、イストラリアンの名士たちに取り入り、金銭を巻き上げているともっぱら噂されている札付きの男だった。そしてそんな人物が、なんの因果か天文台の研究者としてテオンの部下に配属されてしまったのである。
「どうもやつは国王陛下のご子息を騙して、その伝手を使ってここに来たようです」
「きっと王立天文台を足がかりにして、官職を手に入れようって腹ですよ」
テオンの信頼する研究者たちは口々に云った。
カルラビエは表向き、礼儀正しかった。極端なほどの綺麗好きで、衣服は仕立てが良く、それでいてどこかふつうの者とは違う神秘的な空気を纏っていた。研究一筋に生きてきたテオンにとってもっとも苦手な類の人間と云っても良い。
カルラビエの常套手段は次のようなものだった。
かれは独自の占星体系を用いて、出会った人間の職業や癖、家庭環境をずばずばと当てて見せる。そして相手を驚かせたところで、脅しかけるような極端な未来予測をし、最後に災厄を回避するための逃げ道を提示してみせる。その劇的な仕草は洗練されていて、人心を掌握することに特化した技術だった。
いちど天文学についての踏み込んだ話をしてみれば、カルラビエに専門的知識がないことは明らかだった。近代科学についてはからきし駄目。占星術についてもおよそ本で得た程度の知識しかないようで、エヌッラ出身の名門占星術師という触れ込みもおそらく真赤な嘘であろうことが察せられた。しかしながら素人を騙す話術の技巧は凄まじく、ひとつひとつの言葉に驚くべきほどの説得力があることは認めざるをえなかった。
事実として天文台の中にもカルラビエを信奉する者がちらほら現れ始めた。元々、自分の知識を信じて疑わない者ほど、こうした宗教じみたものには脆弱だ。カルラビエはじわじわとその人望を広げて、研究者たちを自分の取り巻きに仕立て上げていった。
科学と宗教の境目は、明瞭なようでいて非常に曖昧だ。どちらも理屈で成り立っており、その理屈を「信じる」という工程を踏むことで成り立っている。宗教を疑うものは、同様に科学も疑わなければならない。真の学者たる者は、常に自分の手に持った道具それ自体を疑い続けなければならない。
だが人間にとって何かを疑い続けるということはおそろしく困難な作業だ。何かを疑い続けるよりも、いっそ信じて身を委ねてしまった方が楽なのだ。思考放棄。それは人間の怠惰な本姓のなせる技なのだから。
「このままでは天文台全体が、やつに支配されてしまいます」
そんな言葉が聞かれる中、テオンは頭を抱えていた。そろそろ手を打たねばなるまい。すでに研究員の中には、カルラビエの占いに惑わされてまともに仕事が手につかなくなっている者も出てきている。かれらはカルラビエが「赤い服を着なさい」「朝食を抜きなさい」「仕事を一週間休みなさい」と云えばすべてその通りにしてしまう。これでは研究が成り立たない。
カルラビエと対決するための手段はすでに用意してあった。やつの知識がいかにでたらめなのか証明するためには、それを衆目の前で暴き立ててやれば良い。
かくして公開討論会は開かれる運びとなった。
一方の壇上にはテオン。そして反対の壇上にはカルラビエが立ち、観客には国中の研究者や関係者を呼んだ。その中にはカルラビエの信徒たちもいたが、テオンはいっこうに構わなかった。論理の力で反駁すれば必ずや嘘は打ち破れる。
討論会の会場には百人が入れるという触れ込みだったが、すでに場内は定員を遥かに越えて集まった者たちの熱気でむせ返っていた。国で最高水準の大科学者と、有力者たちから圧倒的な支持を集める占星術師。ふたりの対決を見るために、天文学のことなど考えたこともないような野次馬すら会場の外で耳をそばだてた。
「カルラビエ!」テオンは切り出した。「あなたはでまかせの占いでひとびとを騙している!」
「何を人聞きの悪い。私の占星術は理論に裏打ちされた学問です」
「ではこの場で見せていただこうじゃないか。その学問とやらを」
「よろしい」
カルラビエは落ち着いた笑みを見せる。最初からそのつもりだとでも云いたげだ。
「ではあなたのことを占ってしんぜよう。あなたの誕生日を教えていただきたい」
カルラビエはテオンの生まれた月日と姓名を組み合わせ、自分の計算表に当てはめる。
「ほう……こいつはまずいな。良くありません。非常に好ましくありません」
これ見よがしに声を潜め、手を振るうカルラビエ。テオンはその姿を尻目にじっと黙っている。
「あなたの生まれは祝福されていない。炎宮に包まれている……おそらく幼少期に火に纏わるいやな体験をしたはずです」
「ぼくは戦時中に育った。そんなことは生年月日を見ればすぐにわかることだ。戦災に火が付き物だということも常識だ。てきとうにでまかせを云っているだけだろう」
会場がざわめく。まだ双方互角といったとこだろうか。
「まぁ落ち着きなさい。占いはまだ終わっておりません……。ほうほう、姓名は悪くない。出世にも恵まれて……そうですね。あなた、今進めている改暦が成功すれば勲章を与えられる約束になっているのではありませんか?」
カルラビエがテオンに人差し指を突きつける。図星だった。それは本来テオンと数名の研究者しか知らないはずの事実だった。テオンは顔色ひとつ変えなかったが、観客席で同僚たちが見せた狼狽によって図らずもその事実が立証されてしまった。
「当たったようですね……。いけませんね。部下を差し置いて自分だけが叙勲されようなんて……おや、これはこれはいけませんね」
「なんだ」
「いや、こればかりはどうも。きっとこんなことを云ったらあなたは傷つくでしょうから。さすがにおいそれと口にするわけには……」
カルラビエの狙いは明白だ。最初から云いたくて云いたくて仕方がないのだ。それなのにやつは観衆に対する演出を盛り上げるために、わざと思わせぶりな態度を取っている。事実、だれもがカルラビエの次の言葉を待っていた。会場はいつしか静まり返り、今か今かとその瞬間を待っている。
「好きに云えば良い。ぼくはそのつもりで最初からここに立っているのだから」
「そうですか。そこまで云うのなら仕方がありませんね」
カルラビエは心底申し訳なさそうな表情をして、しかし腹の底ではどす黒く笑いながら言葉を口にした。
「あなたの奥さんは、流産なさったでしょう。もうお子さんもできないんじゃありませんか?」
その暗い一言が、会場を混乱に陥れた。だれもが聞いたことのなかったテオンの私生活の秘密。テオンの痛みに、カルラビエは堂々と土足で踏み込んできたのだった。
テオンはぎりぎりと拳を握りしめた。この人非人め……。大観衆の前で、テオンの私生活を晒し虚仮にする。この男は勝負を受けたときからずっとその悪意的な策略を練っていたに違いないのだ。
カルラビエはおそらくテオンの私生活を監視していたのである。この男が金を貯め込んでいることは明らかだ。きっと監視役を雇ってテオンのことをあらかじめ調べ上げていたのだろう。勲章のことも生い立ちのことも、テオンの知り合いのだれかを騙して聞き出したというふうに考えれば辻褄が合うのだ。
そしてどんな手を使って調べたことであっても、この壇上で上手く云い当てたように振る舞えば、そう見えてしまう。占星術が本物の魔法であるかのように。
卑劣なやり方だ。
許せない。この男は今ここで打ち倒さなければならない。
こいつはテオンの「予想した通り」の邪悪な人間だ。
「ですから、申し上げたくなかったのです。あなたが傷つくところなど、見たくはなかった」
カルラビエはいけしゃあしゃあと口にする。
そのとき、部隊の上手からひとりの女性が現れた。
水色の衣服を纏ったそのひとは、テオンにとって最愛の家族だ。
そして彼女が腕に抱きかかえているのは、もうひとり。最愛の家族。
観衆は思わず身を乗り出した。その姿に目を疑った。
だが間違いなく、彼女が抱えているのはテオンと同じ目を持った赤ん坊なのだった。
「さてみなさんご紹介しましょう」
テオンは握った拳をぱっと広げ、メルルと赤ん坊の前に差し出した。
「我が妻と、そして私の愛娘です」
どっと観衆が湧き、続いて割れんばかりの拍手が轟いた。
カルラビエの方策は最初からわかっていたのだ。あとはかれが誤解をするように偽の手がかりを撒いていくだけで良かったのだ。
「そ、そんなはずは……だって私は……」
「あなたが天文台に来たときから、ずっと私を監視していた……そう云うんでしょう?」
テオンはしたり顔で笑う。カルラビエはぎょっとしたように目を開いた。
「残念だが、一手遅かったな。私は国王陛下から頼まれて、あんたが天文台に来る前からこの討論会のことを計画していた。娘が生まれても、そのことをずっと隠していた。同僚たちもだれひとりとしてこのことを知らない。知っているのは陛下と私と妻だけだ」
「貴様……」
「さらばだ。カルラビエ。おまえはもうおしまいだ」
テオンは笑って、娘を抱き上げた。
ポーラと名付けたその娘を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます