2-5 テオン
それは思いがけない客人だった。
イストラリアンの港からひとりの貴人が乗船した。リーバの船は本来、定期貨物船であって客船ではない。だが船籍が帝国に属しているということもあって、ときには帝国の渡航者を乗せることもあった。シャラビーユ卿が乗船したのも、そうした縁があってのことである。
客人をもてなすとは云っても、ふつうテオンたち乗組員がかかわることはほとんどない。接待をするのは基本的に船長のリーバと、せいぜい一等航海士のエルクロスたちくらいなもので、下っ端の船乗りは気にすることもなかった。だからシャラビーユが乗り込んできたとき、テオンにとっては何ひとつ気に留まることはなかったというのもごく自然なことだった。
夜。テオンが浮力調整室の掃除をしていると、エルクロスがのっそりと現れた。
「おう、テオン。遅くまで悪いな」
「いえ。自分で引き受けた仕事ですから」
あまり一般には知られていないことではあるが、北方航路を通る中規模貨物船には船室の下部に収納用の空間が設置されている。これは船体全体の重量を調節し、浮力を制御するために使われる仕掛けだ。荒天で知られる北海を航行する場合、慎重な重量制御が必須になる。場合によっては船室の下部に水を詰めた樽を敷き詰めて船体を重くして揺れを押さえたり、あるいは逆に重量物を下ろして船体を軽くすることで沈下を回避するという手法が取られている。
テオンが乗っていたころにはすでに操船技術の過渡期であり、こうした調整室が実用されることは少なくなっていた。調整室は単なる倉庫として使われることが増えていたわけだ。とはいえこの当時はまだ重要機関のひとつであり、こまめに掃除しないといざというときに使えない。
「そうか。良い心がけだな。まったく他の連中も君くらい勤勉だったら良いのだが……」
エルクロスはうんうんと大きな頭を縦に振った。
「そうそう。忘れるところだった。船長がテオンを呼んでたよ。どうも客人に挨拶するように、って」
「ええ?」
今までにないことだった。テオンは手早く雑巾を片付けて、手を拭きながら船長の船室へと向かった。
船長とシャラビーユ卿は、酒を酌み交わして歓談の途中だった。
「やぁ、坊主。よく来たな。こちらが帝国の七賢とも呼ばれるシャラビーユ卿だ。さぁこっちに来て挨拶なさい」
「こ……こんばんは」
シャラビーユは身なりの立派な男だった。歳は船長とさして変わらない……四十といったところだろうか。白装束の上衣、赤い縁飾りのついた足帯。首にかけられた徽章。帝国の正装姿だ。首の徽章の数が身分の高さを表すのだと船長から聞いたことがあったが、シャラビーユのそれは一、二、三、四、……。
「七賢は皇帝陛下の頭脳として政治の実行に携わる役職だ。つまりこのシャラビーユ卿は、それはもう帝国でもっとも責任ある立場のひとりだということだよ」
「それは大げさですよ。リーバ船長」シャラビーユ卿は優雅に微笑んだ。「もっとも責任があるのは皇帝陛下にほかなりません。私なんぞはただ官試の成績が良かっただけです」
「またまたご謙遜を」
信じがたい光景だった。シャラビーユは七賢──いわば皇帝の側近だ。あの北部大陸を治める大帝国、ティエンシャンにおいて二番手か三番手と云っても良い大権力者だということになる。そんな人物が、こうして眼の前で船長と酒を酌み交わしている。
リーバもリーバだ。それだけの大人物を前にしながらまったく物怖じせずに、それどころか親交まで結んでいる。これがこの男の真の力ということか。テオンはこの途方もないふたりに対して、呆れるやら感心するやらわからなくなってきてしまった。
「……それで、どうしてぼくを呼んだんですか?」
「ああ、そのことだったな」船長は顔を赤くしている。もうだいぶ飲んだようだ。「実は話の流れでシャラビーユ卿に、おまえの話をしたんだ。ちょっと驚くくらい賢くて、星を見ることにかけちゃあ天下一の坊主がいるってな。そうしたらぜひとも会ってみたいと卿が云うもんだから……」
「天下一だなんて、そんな。お恥ずかしいかぎりです!」
テオンは本心から云った。テオンにとって世界はこの船の中だけで完結している。いつも帝国と海峡を往復しているとはいえ、帝国領にまともに足を踏み入れたこともないテオンが、世界を語る資格などまったく持ち合わせていないのだから。
萎縮するテオンに、シャラビーユは穏やかな笑いを見せる。
「そんなに気張らないで聞いてくれ。私にも君と同じくらいの息子がいるのだ。ちょうど天文学に興味があってね。将来は研究をしたい、なんて云っている。私が云うのもなんだが、随分と甘やかされて育った子でね。同世代では自分より賢い者に会ったことがない、なんて大言壮語をしている始末なんだ」
「はぁ……」
「それでもし、君がほんとうに星に興味があって、かつ本気でその知識を極めようと思うのなら、息子の良い好敵手になるのではないかと思ってね。どうかね。息子と一緒に、ひとつ試験を受けてみないか」
「試験を?」
試験など生まれてこの方、受けたこともない。それに自分の知識をだれかに試されるなんていうのもいやな気持ちがした。きっとそれが顔に表れていたのだろう。船長が助け舟を出す。
「別に無理に、という話じゃない。試しにやってみれば良い。おまえがいやだったら、途中でやめて船に戻ってきても良いんだ。だがもし上手くいけば、帝国の勅命学府に入学できるかもしれないんだぞ。こんな機会、めったにあるものじゃない」
「勅命学府に……」
帝国の学府の噂については、テオンも多少聞き及んでいる。帝国のみならず世界中を照らしても、それ以上の研究機関はないとまで云われている場所だ。いわば知の殿堂。学府の出身者は皇帝の庇護の下で生涯、自由な研究を続けることが保障される。勅命学府を良い成績で卒業することは、科学立国である帝国において最大の名誉のひとつだ。
自分がそんな場所に行くことなど、考えてもみなかった。将来のことなど、気にしてこなかった。テオンにとっては今がいちばん満ち足りていて、おそらく船の上で生涯を終えるのだろうとなんとなしに思っていた。
だがもし、ひたすらに星のことを研究する人生を送ることができるのなら。この宇宙の謎を、星編の秘密を探っていくという幸運な機会を得られるのであれば、それは自分にとって何事にも代えがたい喜びではないだろうか。
「今この場で答えを出すというのも無理な話だろう。よくよく考えてみたまえ」
シャラビーユは温かい眼差しでそう云ってくれたが、テオンの考えはまとまるどころかどんどんと混乱に向かっていった。
夜も眠れずに考えた。自分の将来について。
仕事が手につかなくなった。
もし学府を選んで、そして試験に通過したならば、きっと自分はこの船に戻ってくることはないだろう。おそらく星に囚われて一生を研究に費やす道を選んでしまうだろう。そのことは容易に想像ができてしまった。だって今や自分は、それくらいまでも星空に夢中になってしまっていたから。この船での五年間の思い出。リーバやエルクロスに貰った恩。思い出。そして知恵。この心地よい場所は、あの悲劇の世界から抜け出して自分がやっと見つけることのできた安息の地なのだ。それをどうして容易に手放すことができるというのだろう。
あっという間に逡巡の日々が過ぎた。答えが出ぬまま、船は帝国の港に着き、シャラビーユは船を降りて行った。
「テオン。行かなくて良いのか?」
シャラビーユの去りゆく背中が小さくなっていくのを眼で追いかけながら、エルクロスは穏やかに尋ねた。
「はい。ぼくはこれで……」
いいのだろうか。
その一瞬の未練の影を、リーバは見逃さなかった。
「なぁテオン。戻ってきたければ、いつでも良い。だが今の機会を逃すなよ」
リーバ船長がテオンの肩に手を置いた。その温かさが、テオンをいっそう迷わせる。
「いいんです……ぼくなんてきっと学者になんかなれませんって……」
その言葉が云い終わらぬ間に、身体が宙に浮いた。視界が回転する。あっという間に、テオンはエルクロスの巨大な背に担がれていた。
「ちょ、ちょっと……」
「いいからじっとしてて! シャラビーユ卿を捕まえに行こう!」
エルクロスはそのまま船を飛び降り、桟橋を駆け出す。後ろ向きに担がれたテオンの眼に映ったのは、笑顔で手を振る仲間たちの姿だった。リーバは悪戯が成功した悪餓鬼のようににんまりと笑っている。このときになってやっと気がついた。みんな最初からこうするつもりだったのだ。最初から、テオンを送り出すつもりだったのだ。
皆の笑顔が遠ざかる。声を張り上げて、その名を叫ぶ。船長が大きな声で返答した。
「行って来い! 海の学校は卒業だ! おまえはほんとうの学校に行くんだ!」
次第に小さくなっていくかれらの顔を見ながら、テオンは必死にお礼の言葉を叫んだ。
ラクロン・シャラビーユはテオンがそれまで見たことがないような気質の少年だった。
シャラビーユ卿の話から想像していたのは、気取り屋で自信過剰などら息子だったが、はたしてラクロンという人間の特殊性はそんなものでは収まらなかった。
とにかく騒々しい。口を開けば止まらない。自分の思いついたことを片端から喋らずにはいられない。この悪癖には、騒がしい船乗りたちの喧嘩腰の会話に馴れたテオンですら辟易させられた。船乗りたちのそれは純粋に声が大きく激しいだけだったが、ラクロンはところかまわず自分の思考を喋り散らかす。それも、なまじ頭が良いだけにとてつもなくややこしい話を繰り出すものだから、まわりの人間にしてみれば溜まったものじゃない。
「テオン。せいぜいうちの息子の鼻っ柱をへし折ってやってくれたまえ」
シャラビーユ卿は冗談めかしてそんなふうに云ったが、鼻っ柱を折られそうになっているのはテオンの方だった。
船を降りてから、テオンは無事試験を突破して帝国勅命学府天文学科に入学した。
学府は帝都から歩いて二日ばかりかかる平野に広がっている。驚くべきはその広さであり、まさに学府それ自体がひとつの都市になっていた。ティエンシャンにおいては「学城」と呼ばれる、云わば学園都市である。
そもそも帝国はありとあらゆるものの大きさがとてつもなかった。道が広い。空が広い。建物は巨大で、加えて云えば人間の背丈も高い。隣の街に出るとなれば、片道だけで一日以上かかるなんてことは日常茶飯事だ。都市国家イストラリアンと、狭い船の中でしか暮らしたことのなかったテオンにとって、これは強烈な衝撃だった。
住んでいる場所が広ければ、人間の考え方も変わってくるのだろう。帝国の人間は総じて気長で他人の振る舞いにあまり注意を払わない性質を持っていた。その性質がよくはたらいた場合は温厚で落ち着いた人柄として現れるわけだが、悪くはたらくととてつもなく傍若無人な人格となって出てくるわけだ。ラクロンは間違いなく後者であった。
だが同時に認めなくてはいけないことがあった。
ラクロンは学府の中で唯一、テオンが対等に話せる友人であったということだ。
「二地点間の距離を元にして地球上の座標を計算する方法はよく知られているし、太陽の南中高度を影の長さで算出した上で、複数地点の観測結果を総合して距離との比率を計算し、地球の演習を算出する方法もよく知られているが、この方法には重大な問題があると思うんだ。いったいだれが地球の形を完璧な球状だと調べたんだ? 僕ならまず観測地点を七つに増やし、計算次元を拡張した上でこの算式を……」
「なぁラクロン。いつまでその話に付き合わなきゃならないんだ?」
「なんだよ、今重要な話をしてるんだ。だいたいおまえも卒業論文を書いたのか? 僕は双剣座乙星における連星の光度の変化と回転周期についての分析を書いているところだが」
「……天動説についてやろうと思ってる」
「天動説?」
ラクロンはその言葉が「新鮮豚肉」と同じくらい場違いな言葉であるかのように問い直した。
「いまさら二百年以上前に否定された学説を話題にして何になるっていうんだ?」
「否定されてはいない。帝国では廃れたが、エヌッラでは今でも真剣に議論されている見解だ」
「おいおい」勘弁してくれよ、というふうにラクロンが首を振る。「エヌッラなんていうのは後進国だぜ? 君と僕はこの学府で一番と二番の成績の持ち主なんだ。その君が、時代遅れの学説に惑わされているなんてことが教授たちに知れたらどうなると思う? 信頼を失うぞ」
「ふたつ訂正することがある。まずエヌッラは後進国じゃない。たしかに研究施設の規模では帝国に劣るが、かれらには豊富な資金がある。かれらが科学でぼくたちに追いつくのも時間の問題だ。それにふたつ目。天動説は時代遅れの考えなんかじゃない。立派な理論だ。その証拠にギェン教授はぼくの研究を支持してくれている」
「にわかには信じがたい話だな」
ラクロンは顔をしかめた。
「なら勝負しよう。卒業論文には教授陣の講評が行われる。中でも最高権威である総長先生の講評は、辛口で評判だ。なんでも一学年にひとりにしか最高評価の『優』を与えないらしい。君と僕と、どちらが優をとるかで勝負するんだ。君が負けたら、天文学が時代遅れだったと認めてもらおうじゃないか」
「良いけど」テオンは口ごもる。「じゃあぼくが勝ったらあることを認めてもらおう」
「なんだ」
「メルルとの結婚だよ」
メルル・シャラビーユは水色の服が似合う愛らしい女性だった。小生意気な兄とは正反対に、人懐っこく愛想が良く、それでいてお淑やかで嫋やかな魅力を持っていた。シャラビーユ卿に招かれて家族の晩餐に同席して以来、テオンとメルルは惹かれ合う仲になっていた。
身分はまったく違う。片や帝国の七賢の娘。片や海峡で生まれた移民の血の孤児。結ばれるはずのない立場であることはわかっていた。
だが帝国は実力社会だ。どんな身分の出でも官試に合格すれば官僚として認められる。学府を出れば一流の人間として尊敬を集める。テオンにとって卒業課題は、天動説という朽ちゆく学説に光を当てる野心的な試みであると同時に、学府を最優の成績で卒業し、胸を張れる身分になってメルルに結婚を申し込むための試金石でもあったのだ。
「なぁんて、そんな気障なこと考えていたの?」
「どうだかね」
ふたりの婚礼の宴は、シャラビーユ卿の邸宅で盛大に行われた。テオンが二十歳となった春の日のことだった。帝国ではこの時期になると柳の花が雪のように空を舞う。その美しい白に彩られながら、ふたりは喜びを分かち合った。
ラクロンはあいも変わらず研究を続けている。テオンに負けたのがよほど悔しかったのか、かれは「未だ学府を卒業できる身にあらず」と宣言して卒業せずに研究をしているそうだ。そのあまりの熱心さに、卒業を飛ばして教授待遇にしようかという話すら持ち上がっているとのことだった。式の場でも結婚については触れず、ただ「勝ち逃げは許さないからな」とテオンに釘をしっかり刺した。まったくもってラクロンらしい。メルルもそんな兄の姿を笑って見ていた。
ほんとうを云えばリーバ船長やエルクロスたちにも来て欲しかった。招待状はいちおう書いたのだが、かれらの定期船の時期と合わなかったのか、返事はなかった。きっとかれらは今でも海の上でせっせと働いているのだろう。
シャラビーユ卿はテオンとメルルを暖かく祝した。
「テオン。君はほんとうによく頑張ったね。卒業論文は学府始まって以来の大傑作だったと聞いたよ。なんでも天動説に対する従来の批判を反証したうえで、地動説との両立を図るものだったとか」
「シャラビーユ卿にそう仰っていただけると、恐悦至極です」
「そうかしこまらんでくれ。君はもう、私の家族なのだから」
「……はい」
思えば、遠くまで来たものだ。父や母が今のテオンを見たら、どう思うだろう。誇りに思ってくれるだろうか。
この幸せを、少しでも死んだかれらに分けてあげることができるならば。
「あの船の中で出会ったとき、もしかしたらこうなるかもしれないと僅かながらも思っていたのだ。君のような青年になら、安心して娘を任せることができる」
「ありがとうございます」
「それで、例の話だが」テオンは声を潜めた。「本気でやるんだな?」
「はい。長年の夢でしたから」
「メルル。おまえもそれで良いんだな?」
「はい。お父様」メルルは穏やかに微笑む。「私も最初からそのつもりで、テオンの申し出を受けたのですから」
「そうか」
シャラビーユ卿はしばし下を向いていたが、やがて決心したように顔を上げた。
「それでは行ってくるが良い。家のことは心配するな。うちの莫迦息子──ラクロンと私が揃えば百人力だからな。ふたりは気兼ねなく行ってきなさい」
「こんなにもよくしていただいて……」
テオンは回りを見回した。シャラビーユ家の宴会。政府の高官や学府の知り合い。それに教授たち。この盛大な席を用意してもらえたこと。そしてそれ以上に、自分にこの国で学ぶ機会を与えてくれたことを深く感謝した。
シャラビーユ卿はリーバ船長と同じく、テオンにとってはもうひとりの父親なのだ。
かれに報いるためにも、自分のなすべきことを全力でやり遂げよう。
「それでは、胸を張ってイストラリアンへ行って参ります」
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