2-4 ポーラ

 汀から沸き立つ白泡。水を切り裂いて進むその鈍重な歩みは、巨人が膝まで海に使って歩いているかのような威容を思わせた。偵察陣形を組んだ六隻の戦艦。その中央の船の甲板に、ひとりの男が立っている。

 双眼鏡を握った手は岩を彫り込んだ彫像のように分厚い。その眼は硝子越しに、対岸のイストラリアンの街並みを見つめていた。

「閣下、左舷前方に帝国の未確認戦艦を発見いたしました」

「砲身は?」

「出ております」

「おそらく威嚇行動だろうが……いちおう戦闘配置をとれ」

「はっ!」

 一ヶ月の間、この調子での海峡での睨み合いが続いている。帝国だけではない。協商の護衛艦も複数観測されている。デメトール・ロ・イドロゲンは苦々しく思った。

 六十年前の停戦協定で海峡における両大国の非武装中立は明記された。以来、イストラリランとその近辺の海域に立ち入れる軍艦はイストラリアン水軍の巡視艇のみであるという決まりが厳しく守られてきた。

 それが一ヶ月前。帝国が停戦協定の更新を拒み、海峡への戦艦派遣を決行した。表向きは海洋資源の調査ということだったが、協商に対する示威行動であることは一目瞭然だった。協商側もこれに対抗するように海峡への侵入を行い、そこから先は鼬ごっこの始まりだった。

 今現在、人命のかかった戦闘には至っていない。だが時間の問題だった。

 この海の上で、いくつもの敵意が張り詰めている。それらのうち一本にでも触れれば、瞬く間に導火線に火がつく。

 そしてまた、この海は炎に包まれるだろう。

 デメトールは戦争を知らない世代だ。先王レルラ七世の口から、その悲劇を伝え聞いただけだ。

 だがそんなかれでも、もしこの場で撃ち合いが始まればどうなるのかくらい想像はつく。

 そしてそれを止められる力を、かれが持っているということも。

 あと二週間後、イストラリアンで両大国の調停のための会談が行われる。それがおそらく、この戦争を阻止するための最後の死線になることだろう。

 何がなんでも成功させる。

 それしか道はない。

 デメトールは海の向こうで待つ娘のことを想った。


 テオンはぽつりぽつりと自分の過去を語りだした。

 きっかけは些細なことだった。官邸の図書室にある資料をいくつかテオンに見せたのだ。もちろん事前に母やユーアの許可を取った。あえて持ち出しという手段を選んだのも、「さすがに官邸に通すのはテオンにも母たちにも気まずいだろう」というポーラなりの配慮によるものだった。

 テオンが名前を挙げた書籍をユーアと探して公園へと向かう道すがら、ポーラは疑問を口にした。

「けっきょく、テオンの本が禁書にされた理由ってなんなの?」

 ユーアは腕を組んで首を傾げた。

「私もよくは存じ上げませんが……でもそれについてはポーラ様がテオンさんから直接お聞きになった方が良いのではないでしょうか」

 前にテオンは「天文台の所長を務めていた」と云っていた。そしてその地位を追われたとも。かれは「裏切られた」と表現した。きっとそのときにかれの本も禁書になったのだろう。しかし具体的に何があったのか、テオンは未だに話してくれない。

 テオンが自分のことを語ろうとしない理由。それはきっと、テオンの本があの禁書の烙印を押されたことと無関係ではないのだろう。ポーラもテオンの過去に興味がないわけではなかったし、自分の知らない事情を母やユーアたち大人が知っているとなればなおさら気にはなる。だが、だからといって不用意にテオンの過去に踏み込むことが、またふたりの間に罅を入れてしまうかもしれないと思うと、やはり積極的に聞こうという気分にはなれなかった。

 公園で望遠鏡の調整をしていたテオンに、運んできた巻物や書類を手渡す。日はまだ高く、テオンはその場で受け取った資料を確認することができた。書類の大半は、王立天文台での観測資料だった。

「ふん……さすがにめぼしいものは揃ってるようだ、が……おお、これは……」

 テオンが一冊の本に気づく。それはかれ自身が書いた本。『天体の運行』だった。

「持ってこようか、迷ったの。禁書扱いだし、テオンはその本を持ってくるようには云わなかったし……でもやっぱりその本はあなたの元にあるべきだと思ったから」

「……そうか」

 テオンは愛おしそうに、古書の表紙を撫でた。

 本の中身にはポーラも目を通してみたが、難しい言葉ばかりで理解することはできなかった。それはテオンの複雑な天文理論体系の集大成なのだ。

「『天体学概論』の第一巻、って表紙には書かれているけど、それ以外の本は見つけられなかったの。ごめんなさい」

「いや、それはいいんだ」テオンは首を振った。「だって二巻以降が書かれることはなかったからな」

「そうなの?」

 ポーラは虚を突かれる。

「ああ。書くつもりはあったがな。それどころじゃなかった。あいつのせいで……」

 テオンは悔しそうに唇を噛んで、空を眺めた。

 その日を境に、テオンは少しずつ、かれの生い立ちを話し始めた。

 それは云うなれば苦楽があざなえる縄のように入り乱れた、数奇な生涯だった。

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