2-3 テオン

 停戦から数ヶ月が経ち、暴動や掠奪は急速に減っていった。議会は本来の統治力を取り戻し、国王レルラ七世による抜本的な改革が進められることになる。

 国王が最初に乗り出したのは、戦時中から例の酒樽事件に至るまでの悲劇の原因となった自警組織の解体だった。船乗りを中心とした自警団のみならず、神秘教徒たちも寺院を中心に強い共同体を組織している。こうした民族主義的思想的組織が強く存在している以上、民族や宗教の間での対立は避けられない。そこでレルラ七世は職能団体を規制し、大規模組織を国王の承認なく結成することを禁じた。

 結果的にこの禁令はイストラリアンに良い未来をもたらすことになる。職能団体の規制により国内経済の自由競争はさかんになり、市場経済が大いに栄えた。イストラリアンでは帝国や協商のように多額の関税を課していなかったというのも、経済を後押しすることになる。これらの要因が重なったことで、イストラリアンは帝国と協商を繋ぐ、世界最大の港湾都市に発展していったのだ。

 とはいえ、それは少し先の話だ。両親を失ったテオンの眼の前に広がっていたのは、荒廃した国土と、ぽつぽつと再開された闇市、それに弱りきったひとびとだった。

 しばらくの間は両親の遺品を売って暮らした。それが尽きたら働かなくてはいけなくなった。だれもが仕事に飢えていて、子供に回されるのはろくな作業じゃなかった。真夏の暑い盛りだった。云われるがままに、ひたすら穴を掘る作業をやらされて、それらがすべて墓穴だと知ったのは仕事が終わった後だった。

 生まれつき身体が細く、筋肉のつきにくかったテオンにとってそれらの肉体労働は苛烈を極めた。だがかといって、学校にも行っていないテオンに他の仕事などない。テオンだけではない。あの時代に生まれた子供たちは、だれひとりとして学校になどいけなかった。


 闇市の積荷を港から運び込んでくる仕事をしていたときのことだ。停戦後に桟橋も新調され、戦禍を避けていた漁船や商船も少しずつ戻ってきている。だが港を歩く船乗りの姿は、やはり少なかった。噂によれば戦争で船乗りたちは皆、水兵に抜擢されて戦艦を操舵していたらしい。だから多くの船乗りが犠牲になって、生きて帰った者たちも「二度と海には出れない」身体になってしまったのだ、と。

 ひとくちに船と云っても色々だ。商船はたいがい肋骨のような巨大な帆を持った木造帆船だが、帝国からやって来る北方系の船は荒海に耐えられるような頑丈で背の高い構造をしている。かれらが運ぶのは食糧や石材などの資源類が多い。一方、南部諸島からやって来る船は正反対に船底が浅く、代わりに小回りの効く形状をしていて、積荷も細々とした工芸品や金属類が多かった。

 テオンが積荷を下ろすのを手伝っていると、北方系の商船の甲板にひとりの男がいるのが目についた。ふつう船乗りというのは出身地にかかわらず動きやすい服装をしているものだが、その男はひとめで神秘教徒とわかる灰色の寛筒衣と頭の日除け布を装備し、海の男らしからぬ難しい顔をして空を睨んでいた。

 作業は夜まで続いた。そのころには重荷を運び続けた両手はもうひりひりと痺れ、膝は笑いっぱなしだ。もうそろそろ終わりだろうとそう思ったとき、桟橋に妙な人影が現れた。

 その人物は細長い筒と扇形の板を組み合わせたような道具を手に持って、それを夜空の方へと向けていた。頭上には澄み切った星空。そのあちこちに道具を向けて、ウンウン唸っている。

 何をしてるのだろう。

 テオンはこっそり近づいてようすを伺った。どうもあの筒を使って星の方を見ているらしい。

 近くで見るとその道具にはいくつもの目盛りや螺子が取り付けられており、ある種の楽器のようにも見えた。その複雑な機構は外国の技術なのだろうか。

 そのとき、男が振り向いてテオンを見た。目が合う。どうしよう。退散しようか。そう思う間もなく。

「坊主、見てみるか? これ」

 男がその装置を差し出した。見れば、かれは昼間にテオンが甲板で目撃した神秘教徒だった。テオンは周囲を見回して、自分しかいないのを確認した上でそうっと男に近づき、手を出した。

 ずっしりと、重かった。その道具は金属で作られていた。

「ここが望遠硝子だ。目に当てて見れば、どこまでも遠くの星もしっかりと見える」

 教えられるがままにその筒を覗き込む。その丸く狭い視野の中に、真赤な星がしっかりと映っていた。普段遠くに見ている南の空の星が、今はその輪郭や色がわかるほどにはっきり見える。

「……すごいっ!」

「そうだろう。こいつは天文儀って云うんだ。ほんとうは海に出て自分の位置を確かめるために使うもんだが、こうやって遠見にも使える。今は陸で調節してたってわけさ」

「自分の位置を……?」

「ああそうだ。場所によって見える星の姿は少しずつ異なってくるんだ。だから裏を返せば、星の位置さえわかれば、自分がどこにいるのかもわかるってわけ。船乗りにとっては必須の知識だ」

「そんなことが……!」

 天の星をただ眺めるだけでなく、船の操縦にも利用できるなんて。テオンにとってそれは驚くべき発見だった。

「坊主、星は好きか」

「はい!」

 テオンは天文儀を操作してみる。北の星空に焦点をあわせ、目盛りが水平になるように調節した。

「なるほど……これで天体の傾きが測れるのか」

「おい、まさかもう使い方を憶えたのか?」

「まぁなんとなくですけど……」

「それに坊主、おまえ……」男は慄いたように手を震わせた。「北極星を知っているのか?」

「北極……星?」

「坊主が今、天文儀で見た星だよ。迷わずあの星に鏡筒を向けたじゃないか!」

「ああそれは……」テオンは頭をかく。「あの星はいつも動かないですから。目安にはちょうど良いかなと思って」

 男は口をあんぐり開けて、テオンの顔を見た。

「坊主、星の名前を知らないのか?」

「ええまぁ」

「だれにも習ったことはない?」

「学校には行ってません」

「じゃあなぜあの星が動かないと知ってる」

「毎晩見てれば気が付きますよ」

 テオンは当然のように答える。自分にしてみれば別にたいしたことではなかった。それよりも、自分よりはるかに多く星のことを知っているらしいこの神秘教徒の男に興味を持っていた。

「……坊主、家族はいるか?」

「両親は……死にました」

「そうか」

 男は素っ気なく返事をした。多くを語る必要はない。このご時世だ。大切なひとを失う苦しみくらい、云わなくてもわかる。

「実は船員の数が足りないんだ。知ってるだろう? 船乗りは今、慢性的に人手不足だ」

 男は苦しそうに目を細める。

「そこでだ。坊主。うちの船に来ないか? 見たところ、まともに飯も食ってないんだろう?」

 テオンは自分の身体を見下ろす。痩せた両腕。骨の形が見えるくらい。衣服は汚れ、ところどころ破れている。

「おれはリーバ。そこにある定期船の船長だ。毎月、ティエンシャンとイストラリアンを往復している」

「テオンです。テオン・アッシャービア」

「アッシャービア……神秘教徒か?」

「そうです。父は帝国出身で、母はエヌッラ出身でした」

「そうか。それは大変だっただろう」

 テオンにはその言葉の意味がわからなかった。大変? 大変ってなんだ?

 自分が生まれてきてここまで体験してきたつらいことは、その一言で説明できるのだろうか。

 そんな疑問を飲み込んで、テオンはリーバを見る。きっと船長だって深い意味を込めて云ったわけじゃない。テオンが深読みしてばかりいるだけなのだ。そんなことは分かっている。

 伸ばされた手を取るかどうか。どうせこの場所に未練なんかない。与えられたものは藁でもなんでも掴んでやる。空っぽの自分には、もう失うものなんてない。

 決めた。

「ぜひ船に載せてください。今日からでも……いや、今からでも」

 船長はにやりと笑い、両掌を胸の前で合わせて、一礼する。神秘教徒の仕草だった。

「歓迎しよう。テオン。前途ある若者を遇することは信徒の義務だからな」


 そこから海の上での日々が始まった。

 最初のうちは予想をはるかに超える激しい揺れに体調を崩し、まともにものを考えられないような状態で過ごしたが、数日もするとそれも馴れ、見習い船員として雑用をこなす日々が始まった。最初に驚かされたのは食事の量だった。楽しみの少ない船乗りにとって、三度の食事は数少ない楽しみのひとつだ。魚料理や米料理を中心として、毎朝毎晩振る舞われる食べきれないほどの馳走に、テオンは刮目し、そしてそれらをあっという間に平らげる船員たちを見てもう一度驚いた。

 乗組員たちの構成にも驚かされた。ティエンシャンに向かう船なのだし、船長であるリーバも神秘教徒なのだから、てっきり他の乗組員もそうなのかと思いこんでいたが、そんなことはなかった。それどころか南方系出身者はもちろんのこと、東方の聞いたこともない島国から来た者や、元は帝国の貴族だったと名乗る男まで、様々な連中が雑多に入り乱れていた。かれらはいつも乱暴な言葉遣いで喧嘩腰のような会話を繰り広げていたものの、それでいて出自や自分たちの過去について、深く切り込むようなことは一切しなかった。民族派閥同士でいがみ合っていたイストラリアンの下町とは丸っきり違う。

 船乗りたちは皆、快活で力強く、狼狽えるテオンなどそっちのけでずけずけと会話をぶつけてくる。テオンは思いがけない距離感に驚きつつも、次第にそんな独特の空気に馴れていった。

 わだかまりがないわけではなかった。

 父と母が殺された夜。あの場で原因を作ったのはエヌッラの船乗りたちだった。かれらが結成した自警団が、事件のきっかけを作ったのだ。実際に父と母を殴打したのがだれなのかは、今となってはわからない。だがテオンにとってエヌッラの船乗りというのは、いわば仇なのだった。

 それなのに、こうして自分も見習い船員になって海に出ている。エヌッラ人と一緒に船に乗っている。そのことに違和感がないわけではなく、むしろ毎晩のようにそのことを意識せずにはいられなかった。

 だが、否定しようがないのは、ここでの生活は間違いなくイストラリアンでのそれよりもはるかに住心地の良いものだということだった。

「おれたちは学校にも行ってない。親父やお袋のいない連中だってここには少なくない。だがな、大切なことは船の上でだって学べるんだ」

 リーバはそう云った。かれを始めとして、船員たちはテオンに対して親切にいろいろなことを教えてくれた。読み書きは教えてくれなかったが、風の読み方と天気の変わり方は教えてくれた。

 計算は教えてくれなかったが、星の測り方は教えてくれた。

 法律も歴史も演説の仕方も教えてくれなかった代わりに、義務と権利と仕事のこなし方は教えてくれた。


 中でもテオンにとって大きな転機を与えることになったのは、一等航海士のエルクロスという男だった。

 エルクロスはエヌッラで生まれ、今ではシューミッシュから神秘教徒に改宗したという異色の経歴を持つ人物だった。山のように巨大な肩幅を持ち、日除け布は乱雑に巻かれて背中に垂れ落ちている。それでいてこの人物は、天体観測にかけて一流の技術を持っていた。

「こんなナリしてるけど、この船でいっとう良い目を持ってるんだぜ、エルクロスは」

 リーバはそう云った。事実、悪天候や進路の誤り、海上の魚影などにまっさきに気づくのは、いつも決まってエルクロスだった。

「星のことならエルクロスに聞け。おれなんかよりよっぽど詳しいからな」

 船長にそう云われたは良いものの、テオンはあまり気が進まなかった。エルクロスの強面な風貌が恐ろしかったというのもある。しかしなんといってもかれはエヌッラ人であり、やはりテオンにとってエヌッラ人は面と向かって顔を合わせる気にはなれない存在なのだった。

 エルクロスは無口な男だった。夜中はひとりで甲板に出てあぐらをかき、天文儀や双眼鏡を使って星を見ていた。同じく星を見るために甲板でよく寝転がっていたテオンにとって、エルクロスは無視できぬ存在であることも事実だったが、ふたりが言葉を交わすことは少なかった。

 ある日、いつものようにテオンが甲板で空を見ていると奇妙なことに気がついた。普段見ているはずの夜空に明確な異変があったのだ。数日前まで小さな星があっただけの東の空に、見たこともない眩い星が現れていたのだ。

「……あれっあんなところに星なんてなかったはずなのに」

 思わずそう口にしたとき、視界の外から低い声が届いた。

「変光星さ。時期によって明るさが変わる星だよ」

 そう云ってエルクロスはテオンのそばに腰を下ろし、望遠鏡を覗いた。

「あの星は岩熊座のハルという名前を持っている。岩熊というのは北方大陸の山奥に住んでいる紫色の毛をした珍獣だ。どうもやつらは世界でいちばんでかい心臓を持っているらしい。あのハルという星は、云ってみれば岩熊の心臓だよ。心臓だから、脈打つようにゆっくりと明るくなったり暗くなったりするわけだね」

 それはテオンがこれまで聞いた中で、エルクロスがもっとも長々と喋った瞬間だった。

 テオンはまじまじとエルクロスの岩のような背中を見た。

「詳しいんですね」

 本心からの言葉だった。しかしエルクロスはそれには答えず、ひとりごとのように呟いた。

「星は面白いよなぁ」

 あっけらかんとした言葉だった。

「静かなようでいて、実はこっそりととんでもない動きをしていたりする。昨日まで見えなかったような星が、ある日突然現れたりもする。そんなとんでもないことが起こっているのに、星は何も喋らないで、ずっと無言なんだ。だからこっちがしっかりと観察して、面倒を見てやらないと何も教えてくれない」

 星は何も喋らない。

 こっちから観察してやらないと。

「テオン」エルクロスはまたも唐突に話しかけてきた。「北極星のそばにある青い星団、あるだろ? あそこにいくつの星が見える?」

 青い星団──。それは北の夜空でもっとも派手な星のひとつだった。いくつもの青い星が束のように連なっている。後にテオンはそれが猿座の星であることを知るが、このときはまだ何も知らなかった。

「一、二、三……七つですね」

「七? ほんとうに七見えるのか!」

「ええ。あの……なんかおかしいですか?」

「僕でも六が限界だ。テオン。もしかしたら君は、天性の『星を見る眼』を持ってるのかもしれない」

「星を見る眼……でも、ぼくはエルクロスさんほど視力が良くないですよ」

「単に視力が良いだけじゃあだめなんだ。星を見るのには感覚が重要だ。人間の眼というのは、ひとりひとりほんのわずかに見え方が違うらしい。色や、光の感じ方。それらに微妙な個人差がある。だからその中には、真夜中の星を見るのに最適な『星を見る眼』を持っている者もいる。僕に星の見方を教えてくれたひとも、七つ星を見分けることができたが、ひょっとすると君もそうとうに良い眼を持っているのかもしれないよ」

「ほんとですか?」

「ああそうだ。せっかくの眼をそのままにしとくのももったいない。じゃあ今度はこっちの星を見てみて……」


 それからエルクロスとテオンは毎晩のように天体観測をするようになった。テオンはエルクロスの話す星の物語をひとつひとつ暗記していった。やがて無名だった星空はいくつもの名前と神話で溢れ始め、夜空はいっそう華やかなものに変わっていった。

 天文儀や双眼鏡での観測の仕方も教えてくれた。観測結果からいかにして船の座標を算出するのか。あるいは他の船との距離を測るにはどうしたら良いのか。エルクロスは様々なことを教えてくれた。テオンがひと通りの知識を得るころには、エルクロスの出自のことなどいっさい気にならなくなっていた。

 ティエンシャンとイストラリアンを結ぶ航路を、何度も往復した。いくつもの季節が巡った。テオンの背格好は相変わらず細いままだったが、しかし腕には薄い筋肉がしっかりとつき、肌は焼けて頑丈になっていった。星の知識もエルクロスと遜色のないほどにまで増え、やがてエルクロスにすら見えない星の位置まで正確に観測できるようになっていった。今や船乗りたちはテオンを「坊主」ではなく「テオン」として扱うようになり、そんなテオンの姿を見てリーバは莞爾とした笑みを浮かべた。

 十五の誕生日を海上で迎えたとき、テオン・アッシャービアはリーバと祝杯を交わした。

 自分にとってもうひとりの父親であるリーバに、テオンは心からの感謝を捧げた。

 シャラビーユ卿と出会ったのは、ちょうどそのころのことだった。

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