2-2

2 ポーラ


 一ヶ月で終わるはずだった官邸暮らしがどういうわけかさらに伸びて、細々とした公務が立て込んでいる。帝国大使夫妻との昼食会、エヌッラ文化使節団の歓迎挨拶、それに港湾再建六十年記念式典。本来であれば父がこなすべき仕事すら回ってくるようになってきて、いよいよ忙しさは増していた。だが肝心の父が不在なのだから仕方ない。母に尋ねても、「お父様には重責がある」と云ってはぐらかすばかりだった。

 そんな中で、ポーラに珍しい吉報が届いた。望遠鏡が完成したのだ。

 エヌッラのラパティ大使一家との昼食会を終えたポーラは、ユーアとバランを伴ってまっすぐ公園に向かった。広場の真ん中ではテオンが、ポーラの背丈ほどもある機材を調節していた。

「それが望遠鏡? なんだか思ったより……」

「思ったより大きい、か。当然だ。これはこの前の玩具とは違う。大口径というやつだからな」

 三脚の上に乗った鏡筒は、随分とずんぐりしている。ポーラが両手でぎりぎり抱えられるかどうかという大きさだ。筒の先には硝子が嵌っておらず、一方の側には穴が開いている。

「これってどこから覗くの?」

「筒の脇に硝子が嵌っているだろう。ここが覗き穴だ。試しに月を映してみるとしよう」

 テオンは三脚と鏡筒を繋ぐ鏡台部分につけられたいくつかの目盛りを調節し、向きを月に合わせる。まだ日が出ているというのに半月が登っていた。

 月は地上を監視するために作られた──

 さぁどうだ、と云わんばかりにテオンが手を広げる。ポーラは少し背伸びして、硝子を覗き込んだ。そこには青みがかった月の大地が克明に映っていた。大地を飾る山々や谷。その表面の凹凸を際立たせる影のひとつひとつまではっきりと見える。

「焦点距離はかなり近くしている。こいつが本気を出せばもっと遠くの星まで見えるだろうな」

「すごい!」

「あの……」ユーアが恐る恐る手を挙げる。「私も見て良いですか」

「遠慮することないわ。ほら来て!」

「こうですか? ……すごい! ほんとうにこんなによく見えるものなんですね」

「……そんなに云うなら私も」

 バランも落ち着かないようすで仲間に加わった。


 あの事件以来、ポーラとテオンの交流は変わらず続いている。変わったのはその天体観測の面々にユーアとバランが加わったことだった。ふたりを付き添いにするというのは、母が外出を認める代わりにポーラとテオンに出した条件だった。

 それどころか母は望遠鏡を買うための資金も工面してくれた。職人たちに報酬を弾んで、最短の工期で組立をさせたのも母の功績だ。母はテオンと直接顔をあわせることはなかったが、その口ぶりからはテオンに対するある程度の信頼が感じ取れた。

 とはいえテオンとの仲直りの後にポーラが母から受けたお説教は、史上最大級のとてつもない代物だった。夜間の外出。門兵へのごまかし。数え切れぬほどの嘘。それに自分の立場を弁えぬ軽率な判断。パラエの祭の夜から、市場での事件に至るまで。

 問題は山ほどあり、ポーラは罰として毎日単語六十と例文四十の暗記を課せられることになった。アパラン先生の試験に合格できなければ、その週は天体観測に出てはいけないという、あまりにも厳しい約束を結ばされたのだ。

 今のところ、ポーラはなんとか合格点を維持している。それどころか、自分でも不思議なほどに勉強が苦ではなくなっていた。知りたいことが山ほどある。この星編の仕組みを理解するために、知らなくてはいけないことなどいくらでもあるのだ。いずれテオンが書いた本も読めるようになりたい。そのためにはもっとたくさんの知識が必要だった。

 それでも勉強に疲れたときは、宝箱を開けてみる。

 姉の手紙や思い出の品が詰まったその箱の中に、今はもうひとつ新たな宝物が入っている。テオンから貰った望遠鏡──テオンが「玩具」と呼んだ、ポーラにとって最初の望遠鏡だ。小さなその筒はあの大口径とは性能の点で比べ物にならなかったが、それでもポーラにとっては大切な思い出の品だった。

 勉強に詰まった夜、ポーラは箱からそれを取り出して、星のことを思い、ときには自室の狭い窓から見えるわずかな星空に向けてみたりもする。そうすれば、自分の目標を思い出せるからだ。

 日々の忙しさも、週末の天体観測があれば吹き飛んだ。今ではユーアやバランにも星のことを話せる。テオンはポーラに滔々と星の授業をし、ポーラはユーアとバランに得意げな顔で自分の知識を披露するのだった。


 ひとつ妙なことがあるとすれば、めっきり父の姿を見なくなったことだ。

 テオンに関する一連の騒動でポーラと母の間にひと悶着があった間も、父はずっと不在だった。官邸に帰って来るようすもなく、出入りの水兵たちに尋ねても父の行き先を知る者はいなかった。ただ「重要任務」についているらしいということをマリウス卿がこっそり教えてくれた。

 でも父の仕事のうち「重要」じゃないことなんてあるだろうか? それとも今までとは比べ物にならないような「重要任務」だってこと?

 心当たりがあるとすれば、エヌッラのラパティ大使との食事の席で耳にしたことだった。

「近く帝国の名代を交えて会談を開くという提案をペリメ国王陛下から頂きました。六十年前の再現といったところでしょうが、果たして……」

 ラパティはここまで話してから気が変わったのか口をつぐんだ。六十年前。それはあの停戦合意の年だ。それが何を意味するのか。

 立ち込める暗雲を窓から眺めつつ、「今晩は星が見れないだろうな」とポーラは思った。

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