2-1 天体の運行
第二部 天体の運行
「すべて天体は楕円軌道の組み合わせによって運行している。
我々の住むこの場所もまたその軌道の内側にありその仕組とは無縁ではない。
我々が動いているのか、はたまた天空が動いているのかという問題は
長年多くの研究者を悩ませてきたわけだが、
筆者からすればこれは問いかけ自体が間違っていると云わざるをえない。
実際のところ、天体とはなんなのか、星編とはなんなのか。それが問題だ。」
──テオン・アッシャービア『天体学概論第一巻 天体の運行』
1 テオン
海が燃えている。
比喩じゃない。そうだったら良かったのに、と強く願う。
港に停泊していたあれだけたくさんの船たちは、乗組員たちとともに逃げ出し、桟橋にはかれひとりが佇んでいるだけだった。
火の粉の混ざった熱風が頬をひりひりと撫でる。一刻も早く立ち去らねば。襲撃の鐘が高らかに鳴ったときからそうわかっていたのに、かれはただ足がすくんで動けない。波の向こうの炎は、そこに浮かんだ散り散りになった戦艦の残骸を飲み込み、黒煙を上げて真赤に染まった夕暮れの空に牙を突き立てるように悪意的な激情をむき出しにしている。
砲声が耳を劈いた。
すくんだ足は崩折れて、木製の桟橋に膝がつく。波の音と、木が炎に爆ぜる音。時折思い出したかのように鳴る砲声。その共鳴の中に、だれかの叫び声が聞こえる。助けを求めるだれかの声。今まさに命を失おうとしている人間の断末魔。いやだ、いやだ、いやだ。やめてくれ。
必死に耳を塞いで目を閉じて、すべてを締め出そうとしても、潮風に混ざった肉の焦げる匂いを無視することはできなかった。
少年はその場に座り込んで、空を星々が覆うまで、そこを一歩も動くことが出来なかった。
王暦三〇七年。
十年に及んだ大戦争の、最後の年のことだった。
テオン・アッシャービアはチャオパティ川の畔の慎ましい家で生まれた。「慎ましい」というのはかれの家が小さな木造平屋であるという意味でもあり、同時にかれの家族が非常に慎ましいひとびとであったというふうにも云えた。
かれの父親は神秘教団の司祭であり、母はエヌッラで生まれて仕事のためにイストラリアンへとやって来た移民だった。テオンという名はティエンシャンの言葉で空を意味する「テン」と、エヌッラの言葉で同じく空を表す「テオ」を組み合わせて作られた。その名前はかれの出自と在り方を完璧に表わしていた。
不必要なほどに完璧に。
戦争が始まったのはテオンの出生の直後だった。交易利権を巡って元より対立していたイストラリアン議会における親帝国派と親協商派の協議は、両大国の軍事的緊張をきっかけに完全に決裂。政権は機能停止に陥った。海峡はすぐに主戦場へと変わり、両大国の水軍が熾烈な戦闘を繰り広げた。当初は局所的な小競り合いだったものが、やがて双方の最新兵器を投入した総力戦へと変わった。
ときにはイストラリアンの市民にも被害が及んだ。なかでもエヌッラの火炎兵器の威力たるや凄まじく、ひとたび火を吹けば海上のあらゆる船を──無論、軍艦だろうが民間船だろうが無関係に──海の藻屑に変えた。
戦争が始まって数年。イストラリアンの社会も壊れていった。
議会は憎悪をぶつけ合う闘技場に。学校は傷ついたひとびとの仮設の治療場に変わった。市場には軍人以外の人影もなく、夜盗と賄賂が横行した。海峡で激戦が行われている以上、王国の主産業たる漁業と交易は完全に立ち行かなくなる。国土が狭く生活物資の多くを輸入に頼るイストラリアンでは、すぐにひとびとが飢え始め、少しでも余裕のある者は伝手を辿って帝国か協商に亡命した。
残されたひとびとは野山で育てたわずかな食糧を食みながら、互いに助け合い、そして同時に憎みあった。イストラリアン国内においても、帝国側に属する神秘教徒と、協商側に属するシューミッシュがお互いを憎むのは当然の帰結であり、そしてまたそのどちらにも属せなかったアッシャービア家がだれよりも憎まれたことは何も不思議なことではなかった。
裏切り者と罵られた。どちらの陣営からも。家に火をつけられ、顔を隠さずに出歩くこともできなくなった。いつも空腹で、草を噛んでそれを紛らわせた。
テオンにとって最初の記憶は、川辺の橋の下で泣いていたときに見た景色だ。きっと夕暮れから夜に変わる瞬間だったのだろう。川の色が赤から黒へと移りゆくのを見ていた。なぜ泣いていたのかはわからない。理由がわからないのではなく、心当たりが多すぎたからだ。
涙が枯れるまで何時間も泣いて、ようやく橋から顔を出したとき、かれを迎えたのは海だった。星の海。空を覆い尽くした無限の星。
それは生まれてこの方、穏やかな海を見たことがなかったテオンにとって、唯一平穏の大海であった。
きっと王様の冠も、この美しさには敵わない。
だってこれだけ煌めく星々が、こんなにもたくさんあるのだ。
世界中の富を集めてもこれには足らないだろう。
もしその星の中の、たったひとつでも自分の手に入ったなら。
その美しい宝石をたったひとつでも空から取ってくることができたなら。
きっと父も母もひさしぶりの笑顔を見せてくれるだろう。あの苦しそうな表情が張り付いてしまった、ふたりの顔もきっとほぐれて丸くなるだろう。みんなでお腹いっぱい好きなものを食べよう。そして新しい家を買って、丘の上に住むんだ。王族の別荘があるという赤燕の丘のようなところに……
あの星が、手に入ったなら。
戦争が終わるらしいと聞いたとき、テオンは奇妙な脱力を感じた。
なぜだかわからない。それで何かが変わるというのなら、きっと喜ばしいことなのだろう。でも自分にとって戦争とは、なんとなく永遠に続いていくもののように感じられたから、前触れもなしに呆気なく終わったということが受け入れ難かったのかもしれない。
父や母は涙を流しながら喜んだ。良い大人が声を上げて嗚咽していた。両親だけではない。街の至るところで、ひとびとが泣いていて。こわれてしまったひとたちが大きな声を叫んで、だれにともなく己の身の丈を虚空に放っていた。
あるいは逆に、怒り狂っているひとびともいた。かれらは「戦争を途中でやめるとは何事か」「相手を殲滅するまで続けねばならん」と口々に叫びながら街を練り歩いていた。かれらの多くはエヌッラ出身の荒くれ者の船乗りたちで、以前から『自警団』を結成して幅を利かせていた連中だった。かれらと関わればろくなことにならない。それはこの街で住んでいる者ならだれでも知っていることだった。
テオンの心にあったのはただの空虚な無力感だった。
生まれてからずっと戦争だったのだ。
これからどうしたら良いのかなんて、知る由もない。
戦争なんて、どうでもいい。
だけれども、戦争以外のことを知らないのだ。
「今晩は教会で酒が振る舞われるのだそうだ」
父は意気揚々とそう云って、母と連れ立って出かけて行った。母も父と結婚してから神秘教団に改宗していたのだ。停戦が決まった今、教団の面々も父と母を受け容れてくれるだろう。元より教団の寺院は、テオン一家にとってこの国で唯一の居場所と云っても良かった。僧侶たちだけはどんな状況にあっても一家を暖かく迎えてくれたからだ。その僧侶たちや信徒たちと、停戦を祝うというのだ。
テオンがかれらに着いていかなかった理由は、特になかった。だが今夜ばかりはひとりで星を眺めていたい気分だった。酒盛りの席など苦手だ。誰かと言葉を交わしたいなんて思わない。空を見つめているときは、そんなことを気にしないで済む。
かれは父や母が、あれだけ街の人間たちの悪意を向けられながらなお、こうしてだれかと酒を酌み交わせる神経が理解できなかった。
事件はその夜に起こった。
後に『酒樽事件』と呼ばれるその出来事は、戦時下のイストラリアンで長らく燻っていた民衆対立が、偶然と云って良いようなきっかけで暴発して起こった悲劇だった。「きっかけは偶然だったが、起こったことは必然だった」と後の歴史家たちは述懐する。
事件の経過は大まかにしか記録されていない。
宴会のために酒樽を運んで海岸通りを歩いていた神秘教徒の一団に前に、船乗りの『自警団』たちが立ちふさがった。かれらは神秘教徒に対し、「火薬を運んでいるのではないか」と云いがかりをつけた。
その場で酒樽の中身を開けて示せば、そのあとに続く事態は避けられたかもしれない。だが神秘教徒たちも連日の疲労と宴の前の昂りにより、冷静な判断ができなくなっていた。かれらは自警団に対しておおいに怒り、日々の暴虐や神秘教徒への謂れのない非難に対する反論を口々に始めたのだ。
口論はやがて殴り合いの喧嘩に発展し、そしてそのまま現場は狂乱状態になった。
だれかが引っ掴んだ棍棒が、別のだれかの頭にめり込んだ。
だれかが持ち込んだ刃物が、別のだれかの喉を切り裂いた。
いつしかそこでは無差別の虐殺が始まっていた。怒り狂った船乗りたちは目についた神秘教徒を片端から嬲り、神秘教徒たちも仲間を呼んで応戦した。衛士隊が駆けつけて殺し合いを終わらせるまでに、両陣営から合わせて七十七人の命が失われた。
その中には、無抵抗に殺された市民が大多数含まれていた。
テオンが父と母の死体に対面できたのは、それから二日経ったあとのことだった。
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