1-15
バランとユーアに連れられて、屋敷を出た。牛車じゃなくて歩いていくことを選んだのはポーラ自身だ。ちょっとでもこの街の道を知りたかった。それがテオンの家へと続く道なら、なおさらだ。
もうあんなふうに迷う夜はいやだ。
燦々の日差しが麦藁帽を熱する。顔はすでに汗だくだ。馴れない徒歩で、なかなか早くも歩けない。でもゆっくりと、道を踏みしめていく。
チャオパティ川を三番橋で渡り、ごみごみとした区劃に入っていく。ユーアは猥雑な街並みに眉をひそめていた。だがポーラは構わず進む。バランが「あともう少しです」と告げた。
「こんにちは」
ポーラがその部屋を覗いたとき、テオンは書類の山の中にうずくまり、望遠鏡を分解していた。手入れでもしているのだろう。
かれの部屋は、官邸の一階にある例の小部屋と同じかそれ以下の広さしかなかった。その驚くべき乱雑さと、生活感の薄さにポーラは驚かざるをえなかったが、同時にテオンらしい部屋のようにも思えた。
老人はじいっとポーラを見つめている。出会ったばかりのころのあの無愛想な表情で。
「あなたと話したくてきたの。入っていい?」
「……これはこれは、ポラロロアーナ内親王殿下。こんな場所にいらっしゃるなんて、貴方様に相応しくありません。どうかお引取りください」
口ぶりは妙にかしこまっていたものの、老人はあぐらをかいて茣蓙に座ったままだ。妙に格式ばった喋り方も心からの言葉ではないことは明らかだった。歓迎されていないのはきっとほんとうなのだろうけど。
「その話し方やめて。それにポーラって呼んで」
ポーラはずかずかと部屋に入り、本の山を掻き分けて勝手に腰を下ろした。テオンが嫌がるように呻くが構わない。たとえ摘み出されたとしても、また戻ってくる覚悟だ。かれに話を聞いてもらうまでは。
「……ひとりで来たのか?」
「バランとユーア──ええと、つまりあのとき来た衛士と、わたしの家庭教師も一緒に。でも外で待ってもらっているわ」
「なぜここに来た」
「謝りたかったから、よ」
ポーラは肩をすぼめた。
「騙すつもりはなかったの。ごめんなさい。ほんとうにあなたと星を見たかっただけだから。それにケルロスのことも……ふだんは良いひとなのよ。だけどかれにも立場があるから……」
「いい。いい」テオンは手を激しく降って拒絶を示した。「孫ほども歳の違う娘に頭を下げさせるなんて、わしも落ちぶれたもんだ。謝るな。悪いのはわしだ。おまえさんのことも、バンダロスのことも、わしが悪かった」
「……そう」
ポーラに返す言葉はなかった。気まずい沈黙が流れた。
「……お父様の書庫にね、あなたの本があったの。『天体の運行』っていう」
その書名を出したとき、テオンのようすが変わった。豆鉄砲でも食らったように顔をあげる。よほど意想外だったのだろう。
「ほう……あんな本がまだ残っていたのか。ぜんぶ捨てられちまったかと思っておった」
「たしかにそうみたいね。『禁書』と書かれていたわ」
「そうか。そんなものを見たのか」
「でもね。テオンがどういう人生を送ってきたのかは知らないけれど、わたしはテオンからいっぱい素敵なことを教えてもらったの。わたしは星のことも宇宙のこともほんの少ししか知らないけれど、もっと知りたいと思ってる。これからも。あなたがだれであろうと、わたしがそう思ったことだけはほんとうだから。だから、その……」
「ありがとな。こんな爺に嬉しいことを云ってくれるもんだ」
「え……」
それはテオンの口から初めて漏れた、素直な言葉だった。驚いたポーラがテオンの顔を改めて見ても、かれはそっぽを向いて例のしかめ面をするばかりだったが、たしかにその言葉はポーラの耳にしっかりと残っていた。
「わしは昔、王家に仕えておったことがある。王立天文台という場所だ」
国境の山腹にある施設だ。ポーラも名前くらいは聞いたことが会った。
「あのころは良かった。だがわしは裏切られた。この国と忌まわしい連中のせいで放逐されたのだ。ポーラ。おまえに罪がないことくらいわしにもわかる。だが王家の連中のことを考えるとどうにもわしには良い思い出がないんだ」
テオンはそれだけ云って黙った。きっとそれが、今のかれに語れる最大限の言葉なのだろう。ふだんは決して自分のことを話したがらないテオンがこれだけのことを打ち明けてくれたのだ。今はそれで十分だ。
ポーラは黙ってテオンの手を取った。皺だらけの冷たい手だった。きっとかれはポーラの想像もつかないような苦労をしてきたのだろう。つらい思いもたくさんしてきたのだろう。じゃなきゃ、こんな暗い人間にはならなかっただろうに。そんなふうに思いつつ、ポーラは口には出さなかった。余計なことは云ってはいけないと思った。
「ポーラ」テオンはゆっくりと立ち上がる。「シューマ神話の由来を知ってるか?」
「神話の由来?」
「シューマ神話の中では、大災禍の中で神々が籠〈シューマ〉を編み、そしてその中に私たちの世界〈シューマ〉を作ったと云われておる。この宇宙自体がシューマ。すべては神々の掌の上。希望の果てというわけだ」
イーストラ叙事詩の冒頭に書かれていることだ。籠を編んだ話はもちろんポーラも知っている。テオンは何が云いたいんだろう。
テオンは部屋の隅の書類の山をひっくり返し、紙がいっぱいまで詰まった籠を掘り当てると、それをひっくり返した。ばさばさっと書類が床に落ちるが、かれはそれを一顧だにせず竹籠を両手に抱える。
「ポーラ、こっちにおいで」
立ち上がったポーラの頭に、テオンはそっと籠をかぶせた。
「なにこれ?」
「いいからいいから。何が見えるか云ってみなさい」
「……えーと」
籠の中の世界。視界全体が籠に包まれる。
竹で編まれたその籠のわずかな隙間から、いくつもの光が漏れているのが見えた。
頭上を覆う暗がりに、いくつもの光が差す。
暗い世界に、いくつもの光芒が──
「星空みたい……」
細く細かく編まれたその隙間には、ひとつひとつの星が宿っていた。
頭の周囲を覆い尽くしていたのは天球で、ポーラは今、星空の下にいるのだった。あくまでつくりものの、不完全な夜空だったが、たしかにそれはテオンが即席に生み出した小宇宙なのだった。
「これがシューマの由来だ。宇宙は巨大な籠のように見える。きっとだれかがそう思ったのだろう。籠の外には神々の明るい世界があって、そこから光が差し込んできて、星の穴を通って地上に降り注ぐ」
「だから、籠〈シューマ〉……」
「ああ。もしかしたら私たちの世界は大きな籠に包まれているのかもしれない。これを見れば、ちょっとはそんな気が湧いてくるだろう?」
話はこれで終わりじゃない、テオンはそう云って。籠をゆっくりと動かし始めた。
ポーラの顔の周囲で、籠がゆっくりと回転していく。
星々が巡っていく。
頭上の一点。北極星を中心として、左回りに。
「こうすると、さらに本物らしくなるだろう?」
「すごい……けど、これがどうしたの?」
テオンは籠を動かす手を止める。
「今度は、ポーラ自身がその場で回転してみるんだ。右回りに、ゆっくりと」
ポーラは云われるがままに身体を動かしていく。
今度はまた同じように星が左へ、左へと流れていく。
やはり星が動いて見えるという点では、籠の方が動いているときと変わらない。
「さっきと同じじゃない?」
「ああそうだ。これが天動説と地動説というやつだ」
ポーラの頭から籠が取り払われ、眩しい光が世界を覆った。
「天が動いているのか、それとも大地が動いているのか。まったく正反対の現象なのに、見え方は同じになってしまう。そうだっただろう?」
ポーラは肯いた。
「シューマ神話の民間伝承ではこう云われておる。籠〈シューマ〉の外では常に戦乱の風が吹いていて、それによって籠は常に回転し続けているのだと。そしてその回転が止まり、星々が動きを止めたとき、神々の戦乱は終わったのだとわかる」
シューマ神話。つまりエヌッラを中心に南方系では天動説が信じられているということだ。
「これに対して神秘教団の教義ではまったく違う説が唱えられておる。大地はいくつもある星のひとつに過ぎない。他の星々が回り動いているように、大地も円軌道を描いているのだ、と。神秘教団は帝国の科学学院で研究を続け、膨大な観測結果からこの結論にたどり着いた」
神秘教団はティエンシャン帝国で大きな勢力を持っている。つまり北部大陸では地動説が主流ということだ。
この世界を支配するふたつの大国。帝国と協商は、宗教の点でも、そして星の動きを巡る世界観の点でも、まったく正反対の見解を持っているということだ。
どこまで行っても相容れない二国。犬と猿のように決して仲良くなれない因縁がそこにはあるのかもしれない。ポーラはなんとなくそんなふうに思った。
「それで……どちらが正しいの?」
ポーラの問いにテオンは首を振った。
「前にも云っただろう。神話でも科学でも、この世界を説明する方法はひとつではないのだ。天動説も地動説も、そこで実際に起こっていることをどう説明するかという問題だ。まだどちらが正しいという断言は、わしにはできない」
「じゃあ、テオンはどう思うの? やっぱり地動説?」
「わしが神秘教徒だからか? いや、たしかに昔はそう思っていたこともあった。だが今は違う。そもそも前提が間違っているのではないかと思っておる」
「前提が?」
「おまえさんはあの本を読んだか?」
テオンが云っているのは『天体の運行』のことだろう。ポーラは首を横に振った。
「あれはわしの研究の集大成と云っても良いものだった。結果的にそのせいでわしは身を滅ぼすことになるのだがな」
「あそこに、天動説や地動説のことも書かれていたの?」
「ああそうだ。実のところ……」
テオンは手に持った籠をまじまじと眺めた。どこか遠い過去に思いを馳せるかのように、目を細めて。
「天動説も地動説も、両立しうるのではないか」
天が回るのか、地が回るのか。
大地と天界を説明するための、最大の謎。
この世の理をめぐる、あまりにも大きな疑問。
それを説明するための相容れぬふたつの理論が、両立する。
テオンはそう云っているのだ。
「そんなこと……できるの?」
「わからん。まだ証明は出来とらんのだ。だが、わしのこれまでの研究人生からわかる……きっとこれが正しいという直感があるのだ」
「もしそれがほんとうなら……」
帝国と協商。南北の二大国の間に横たわるあまりにも大きな価値観の溝が、ひとつ埋まるかもしれない。
決して共存できないかに思われた山猫と猿が、ここで共に暮すことができるのかもしれない。北の空に浮かぶ、ふたつの星座のように。
「わしに残された時間はそう長くない。だがな、これだけはなんとしてでも証明したいのだ。それができるのなら、他に何もいらぬ。立派な墓も葬式も欲しくない。ただわしはこの説の正しさをたしかめたいだけだ」
テオンの言葉に熱いものが籠もっているのが、たしかにポーラにも感じられた。この老人が長い旅路の果てに見つけたただひとつ確かものが、この籠の暗がりの中に詰まっているのだ。
「もしそうさせてもらえるのなら……」ポーラはテオンを見上げた。「わたしも手伝いたい! いえ、ぜったいに手伝うわ! わたしも知りたいの。この世界がどうなっているのか。この眼で確かめたい!」
きっとわたしはこのために、この言葉を伝えるために、テオンと出会ったのだ。そんな確信が胸の中で燃え上がった。あの夜、バランとはぐれ、公園に迷い込み、そして星と出会った。そのすべてはこの言葉を発するためにあったのだ。
「ポーラ。もうひとつ教えておくことがある」
テオンは籠をポーラに差し出した。受け取ると、意外にもそれはずっしりと重かった。
「宇宙、世界、星界。いろいろな言葉がある。この大地を取り囲む空間を示すために、様々な言葉が生み出されてきた。シューマ神話では『星籠』、と呼ばれることもある。綺麗な響きだ。だが私がもっとも好きな云い方がある」
竹籠の表面を撫でる。
このひとつひとつの穴が、星になる。光になる。暗闇を照らす灯火になる。
「神々が星を編んで作った……この世界は『星編〈ほしあみ〉』だ。はるか昔のだれかが編んで作った星編。それこそがこの世界の真実なのかもしれない」
星編。
星を、編む。
その響きを口の中で試す。不思議としっくり来た。
「一緒に星編のかたちを、探しに行こう」
差し出された手を、今はしっかりと結ぶことができる。
──第一部「老人と少女」完
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