1-14
屋敷に戻り、母の部屋へと通された。何を云われるのか、だいたい想像がついているからこそ気分は重かった。どうすれば良かったのだろう。テオンとケルロスの口論がなければこうはならなかっただろうか。いや、いずれはこうなることを避けられなかっただろう。だってポーラはずっと嘘をついてきたのだから。母にも。テオンにも。
あの星空はもう見られないかもしれないな。
冷たい木椅子に腰掛けて、母が来るのをひとり待った。室内の寒さに身震いした。
お姉さまだったら、どうするだろう。
きっとこんなふうになってしまう前に、正しい選択をするのだろう。
わたしは出来損ないだ。
ポーラは自分の手を強く握りしめた。
今日だって上手くやってるつもりだったけど、実はずっとバランたちに見守られていたのだ。いや今日だけじゃないかもしれない。もしかしたら母はポーラの夜の外出も気づいていたのかも。そう思うと恥ずかしさのあまり顔が熱くなった。
やっぱり、どこへ行っても大人たちの視線からは逃れられないのだ。
見守られていないと何もできず、それなのに守られていることにも気付けない出来損ないだ。
どうしようもなく、子供でしかなかったのだ。
扉の開く音がして、母がやってきた。薔薇の香りがした。深紅の部屋着のその広がった裾を床に引きずっているのが見えた。
顔を見る勇気はなかった。
母が正面に座る……そんな予想を覆し、薔薇の匂いを纏った彼女はポーラのそばに屈んだ。椅子にも座らず、あの優美な母が不馴れな姿勢で椅子のそばに身を下ろして、ポーラの手をそっと両手で包み込んだ。温度が伝わった。
「何があったのか、教えて」
その言葉を聞いたとき、やっと気がついた。
ポーラが欲しかったのは怒りでもお説教でも同情でも懲罰でもなくて、ただ自分の言葉をだれかに聞いて欲しかっただけなのだ。あの星空の下で起こったこと、この数日間に起こったことはあまりにも夢のようで、それを母に話さずにいることがポーラにとってどれだけの苦痛だったのか。この瞬間になるまで、ポーラは自分自身そのことに気づかなかったのだ。
いつでもポーラの話を笑って聞いてくれる母に。この思いを話したくて話したくて仕方がなかったのだ。
空を覆った黒雲から、不意の雨粒がぽつりと落ちて、そのまま止まらず午後の港へと乱れ撃ちの大雨が降り注ぐように。ポーラの心の中から自然と生まれた言葉が溢れ出した。あの夜の彷徨。星空の美しさ。テオンとの邂逅と、自分なりの莫迦莫迦しい考え。丸いもので埋め尽くされた世界。月の表面の石の世界。望遠鏡を作りたかったこと。それらすべたが無作為的に、順序も理屈もばらばらになって思い出された。何度もつっかえながら、ひとつひとつの出来事をぐちゃぐちゃに並べていった。
楽しかったのか。苦しかったのか。それももうわからないほどに、色々な思いが乱雑に詰まって濁った水の流れのように海へと注いで、ポーラはずっと母の手を握り返していた。母は何も云わず。ただ相槌を打ってポーラの言葉を聞いていた。
濁った言葉の渦は何度も、あの別れ際のテオンの表情に戻ってきた。失った信頼と、消えてしまった思い出に。
そして次に思い出されるのは、あの禁書の文字。
わかっている。わかっているのだ。
「お母様……お母様はテオンがだれなのか、知っているの?」
どういうわけか声がちゃんと出ない。喉に何か粘土のようなものが詰まっている気がした。母は黙って頷いた。
「テオンは、テオンは……罪人なの?」
思い出されるのはユーアの言葉。
『国王陛下や議会の命令で発行が差止めされた書物のことです。公序良俗に反するような書物や、罪人が書いた文書などですね』
禁書にされたテオンの本。『天体の運行』。推理すれば答えは簡単に出る。
わかっていながら、ポーラはずっと眼を背けていただけだ。
「ポーラ」母は口を開く。「私があなたとあの老人のことについて知ったのは、ついさっきのこと。バランたちから報告を受けたわ。たしかにテオン・アッシャービアにはちょっと並々ならぬ事情があるようね」
「……じゃ、じゃあ」
「ねぇ、ポーラ」
母はポーラの顔を下から覗き込む。世界でいちばん美しい女性の、そのいちばん美しい眼がポーラを見た。
「あなたにとって、テオンはどんなひと?」
「どんなって……?」
「テオンはあなたを傷つけた? それともあなたに何かをくれた?」
「わたしは……」
あの仏頂面。無愛想。その顔が、星のことを語るときだけは機嫌良くポーラに向けられた。あの望遠鏡をポーラに渡したとき。ポーラに北極星の位置を教えたとき。たしかにあの眼は笑っていたのだと、今ならわかる。
「わたしはテオンから夜空のことをたくさん教わった。世界にはこんなに綺麗で、謎ばかりのものがあるのだと教えてくれた。夜空の神話も星の仕組みも。何百年という月日をかけて、みんなが星の秘密を解き明かそうとしてきたことも」
「楽しかった?」
母の問い。たった四晩の交流だったけど、間違いなくこれだけは、ちゃんと答えを返すことができる。
「ええ……もちろん」
母はその答えを聞くと、ポーラの手を引いて立ち上がる。ポーラもつられて椅子から立つ。母はポーラの顔に手を当て、その頬を拭った。
「あなたの思いはわかったわ。次に聞かなくちゃいけないのは、あなたがどうしたいか」
母はポーラの頭を撫でながら、しかしいつもの母らしいきっぱりとした口調で云った。
「あなたがこの国の王族であろうと、あの老人が罪人であろうと、そんなこと関係なしに云えることがある。このまますべてを投げ出して、それで万事解決なんてことにはぜったいにならないの。投げ出した先に正解はないのだから」
投げ出した先。そこに答えなんかない。
『眼の前のことから逃げ出すことを、〈自由〉とは呼ばないの』
お姉さまが耳元で囁く。
「ポーラ。あなたはちゃんと自分の言葉で、テオンと向き合いなさい。答えが出るまで。それがあなたに課された義務よ」
逃げ出すわけにはいかない。投げ出すわけにはいかない。
ポーラにはもうよく分かっている。
ここで逃げたら、一生後悔する。
「答えはもう出てるでしょう?」
ポーラは肯く。
「わたしは……」
やらなくてはいけないことがある。
会わなくてはいけないひとがいる。
「……もう一度、テオンに会いたい」
母の手が、背中を叩く。
「行ってきなさい。バランが案内してくれるわ」
そして人差し指を口に当ててこう付け足した。
「お説教は、そのあとでちゃんとしてあげるから」
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