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 港で積荷を台車に運び込んだ少年たちが、小走りに海岸通りの石畳の道を抜けてチャオパティ川の河口付近に向かう。そのあたりは通りも狭く、牛車は入れない。代わりに荷運びを行うのが、小回りの効く見習い船員の少年たちだった。

 かれらが流れ込む先には祭と見紛うばかりの大盛況が広がる。だが祭ではない。これは市場のふだん通りの光景だ。狭い通り沿いに茣蓙を敷いて商品を並べるひとびと。朝方は生鮮食品、昼間にかけては古道具や宝飾品など雑多なものが中心に並ぶ。商人たちは道行くひとびとにさかんな声を浴びせながら、ひとたび雨が降り出せばいつでも店をたためるように万全の整えをしている。驟雨の激しいイストラリアンならではの配慮だった。

 船乗りたちが『潮風と僧侶に逆らうな』と口にするように、商人たちにも馴染みの諺がある。

「『晴れの日は店を出せ。雨が降ったら……』」

「どうするの?」

「『それでも店を出せ』ってな」

 ケルロスは呵々大笑した。

「雨で品物が濡れようが、それくらいでへこたれてちゃいけない。濡れたら濡れたでどうやって売りさばくか考えるのがほんものの商人ってわけです」

 ポーラは市場に目を瞠った。まだ朝早い時間だというのに、たくさんのひとが押し合いへし合いに店の前を通り、声を張り上げて言葉を交わしている。怒声のような激しい応酬に肩をすくめるが、どうも揉めているわけではないらしい。

「商人にとっては日々が戦場だ。お互い生活がかかってる。だからこそ買い物ひとつにこれだけ真剣になれるんですよ」

「そういうものかしら」

 そもそもポーラには何かを買うという感覚がよくわからなかった。貨幣も見た目には美しいと思うが、実際に使ったことはない。彼女がこのまま育っても、きっと生活のために汗水流すということはおそらく一生ないのだろう。自分はかれらの暮らしのことなど、決して理解することはできないのだろうか。生きるために生きるかれらの同語反復的営みと自分の立場が、今後もきっと交わることのないのだと考えると急に怖くなってきた。


 ケルロスとともに市場の見学に行く、というふうに説明をしたところ母はすぐに外出許可を出してくれた。それだけケルロスが信頼されているということだろう。もちろんテオンについてはおくびにも出していない。

 もちろんポーラは今回もお忍び用の衣服で来ている。例の鍔広の帽子も忘れていない。

 テオンとはここで待ち合わせをしているのだが、ちゃんと来てくれるだろうか。あまり気乗りしていないようすだったけど……

 そう思ったころに、人混みの中からやせ細った灰色の人影が現れた。

「テオン!」

 老人はいつものしかめ面で群衆をにらみつつ、ポーラのそばへ近づいた。あまり機嫌が良くなさそうだ。

「あんたがテオンか。私はケルロス・バンダロス。ケルロスと呼んでくれ!」

「……ああ」

 テオンは気のない返事をしてそっぽを向いた。ケルロスと会わせたのはまずかったかな……。ポーラはちょっと不安に思ったが、ケルロスが意に介さずという顔で道案内を始めたのでひとまず胸をなでおろした。

 一行はまず硝子商人に出店に赴いた。眼鏡をかけた男がひとり茣蓙の上に丸椅子を置いて座っている。男の正面に開いて置かれた木箱の中には大小の硝子や切子細工、硝子鏡やそれに小型の望遠鏡などが並べられていた。

 市場に馴れたケルロスが率先して話しかける。硝子の流通経路や職人の居場所などを聞き出したうえで、反射鏡を発注することができるかどうかをたしかめる。

「さぁて、そんな品物はそうそう扱いませんからな。具体的な仕掛けなどはわかりますか?」

「図面を用意してきた」

 テオンが懐から紙を取り出した。そこには円筒形の望遠鏡と、その内部に仕掛けられた鏡の仕組みが説明されている。

「ほう……ずいぶんとややこしい代物ですな。昔、王立天文台から下請けしたときに似たようなものを用意した憶えがありますが。いや、もしやこれとそっくり同じものだったかもしれん。あなたはいったい……」

 王立天文台というのは帝国との国境近くの山間部に建てられた研究施設のことだ。

「そんなことより、できるのか? できないのか?」

 テオンが腹立たしげに聞いた。

「できますとも。私もこの商売に矜持を持っとりますからな。できないとは申しますまい。ただ問題は、この精度の反射鏡を切り出せる硝子が手に入らんということでして……」

「それなら構わん。私に伝手があるからな」

 ケルロスが誇らしげに笑った。

「……それでしたらお受けいたしましょう。お客様の名前は?」

「ケルロスだ」

「ケルロス……? まさかバンダロス家のケルロス様でいらっしゃいますか!」

「噂で聞くより、ずっと良い男だろう?」

「でしたら是非ともお受けいたしましょう」

 硝子売りは勢い込んで頷いた。


「おまえさん、バンダロス伯家の人間だったのか」

 職人の調達を終え、望遠鏡の円筒部に使えそうな木枠を探しながら一行は市場を物色していた。テオンはケルロスの身なりをじろじろと首を突き出して眺める。

「まぁおれは跡取りじゃないからな。せいぜい顔が効くだけだ。それがどうしたか?」

「……バンダロスの先代は前の戦争で海峡越えの上陸作戦を指揮した一族だろう」

「それは先々代の話だ。昔のことさ」

「あの作戦で海峡と帝国の市民にどれだけの被害が出たのか知らんのか……?」

「ちょ、ちょっと、テオン」

 ポーラは慌ててテオンの灰色の寛筒衣の裾を引っ張る。だがポーラにはテオンがなぜそんなことを云い出したのかも、なんとなく想像がついていた。

『──ティエンシャン帝国とエヌッラ協商連合との国境紛争はイストラリアン王家の仲介を経て王暦三◯七年に停戦合意に至った』

 帝国と連合の大戦争は十年以上に渡って続いた後、つい六十年ほど前にようやく停戦に至った。多くの被害を出し、双方の国で数え切れぬほどの死者と負傷者が出た。

 何より大きな被害を受けたのは海峡に位置するイストラリアンだった。

 テオンは神秘教徒。教団の本部は帝国にあり、テオン自身も北方系の角張った顔立ちをしている。きっとティエンシャン帝国と縁の深い人生を送ってきたのだろう。それにおそらく……前の戦争をその眼で見てきた世代だ。

 一方のケルロスはエヌッラの十八貴族のひとつバンダロス家の出身。まさにテオンとは正反対の存在。

 両国の禍根は、六十年経った今でも驚くほどに深い。

 かつてユーアがそう教えてくれたのを思い出した。

「私はあんたにも帝国にもなんの恨みも持っていない。争うつもりもない。あなたがポーラの友人なのであれば、私も敬意を持って接しよう。だがな……」ケルロスは珍しく真面目な口調でテオンと対峙する。「私の一族がそのように非難される謂れはない。戦争ではだれもが自分の立場にとって最善のことを尽くした。敵も味方も関係ない。帝国だって、多くの市民を犠牲にしたことをお忘れか!」

 テオンは舌打ちをした。

「戦争も知らずに生まれた若造が、知ったような口を聞くな」

「年寄り以外は戦争を語ってはならぬとでも云うつもりか?」

 通行人たちが足を止めてこちらを見ている。三人からちょっと距離を置いて、たくさんの眼がこちらを見つめているのをポーラは感じた。まずい。止めないと……

「ああそうだ。年寄りには敬意を払え。貴様の二倍は生きてるのだからな」

「ポーラ様の前だぞ! いい加減にしろ!」

「なんだ貴様……」

「やめてよ! テオン! ケルロスも、どうしてそんなこと云うの?」

 ふたりは今にも殴り合わんばかりの勢いで言葉を飛ばす。ポーラが思わず声を上げる。そのとき、群衆の中から人影が飛び出しケルロスとテオンの間に割り込んでくる。

 その人物はだれもがよく知る緑の制服。

 しゃんとした真面目一徹の背筋。王族を守るため鍛え抜かれた細身の身体。


「おふたりとも落ち着いてください!」


 その思いがけない闖入者に、場が静まった。

 ポーラの護衛。衛士隊員バランだった。

「バラン! どうしてあなたがここにいるの?」

「ポーラ様が外出なさるのが心配だとアカラッチアーナ様が仰るので、あなた方の行動は衛士隊員がずっと監視していたのです。黙っておりましたご無礼、お許しください」

「お母様が……」

 上手く云いわけしてこっそり出かけてきたつもりだったのに、母にはばれていたのだろうか。いやな寒気が背筋を走る。取り返しのつかないことになってしまった。直感的にそのことに気付いて目眩がした。

「それよりこの往来は人目が多すぎます。とにかくお嬢様は帰りますよ。ケルロス。あなたにはあとでしっかりお話を聞きますからね。それに……」バランはテオンを見据える。「あなたにも」

 テオンは狼狽えた表情でバランとポーラを見比べる。

 まるで天地がひっくり返ったとでも云うような周章ぶりだった。信じていたものに裏切られたとき、ひとはこんな顔になるのだろうか。

「衛士隊……それにポーラ……まさか」

「ね、ねぇテオン。あとでちゃんと説明するわ。だから今は……」

「おまえは……ポラロロアーナ・イドロゲアだと云うのか? 王族だったと云うのか!」

「それは……」

「お嬢様。早く戻りましょう。これ以上、人目に触れるわけにはいきません」

「待って!」

「待てません。さぁ行きますよ」

 バランに抱き上げられながら、ポーラは何もできなかった。

 麦藁帽が地面に落ちたが、拾う余裕もなかった。

 あっという間に市場を駆け抜けて、その端に止まった牛車に載せられる。すべてが走馬灯のように過ぎ去って、市場の喧騒もテオンとケルロスの姿も遠くに消えていった。

 あの別れ際、ポーラを抱えたバランの身体の影からわずかに見えたテオンの顔。

 その大きな失望の滲む口を開いた表情を思うと、身体中がひりひりと痛んだ。

 ああ、どうして。何がいけなかったのだろう。黙っていたこと? 嘘をついたこと

? 弁解の言葉は百も思いつくのに、そのどれひとつとしてテオンには届かないことを、ポーラは悟っていた。

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