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星が降ってくる。
眼を開けていられないほどの光を放つ星たちが、ぽつりぽつりと落ちてくる。
赤、青、緑。
水たまりには星の光が乱反射し、真っ暗な世界にとげとげした光が満ちていく。
手を差し出せば、掌に硝子玉のような青い星が触れる。
冷たい!
そう思ったときにはもう、星は溶けて、掌の中で液体になって溢れた。
星の雨。やがてその冷たい世界に別の光が差す。
今度は星のとげとげした冷たい光ではない。重くて温かい光。
橙色の親しげな顔。その光は遠くからゆっくりと近づいてきて、降り注ぐ硝子玉を溶かし、身体中にじんわりとした熱をくれる。
やがて曙光は天地に満ちて、わたしは……
「ポーラ様! 朝ですよ。起きなさい。ポーラ!」
重い瞼をこすって起き上がると、アパラン先生の見馴れた顔があった。
「まったくそんな格好で寝るなんて……さぁはやく支度なさってください。お食事が済んだら授業を始めますよ」
「……はい」
公園から帰ってから、そのまま眠ってしまったようだ。一晩遊び呆けたつかれと睡眠不足もあって、まだまだ眠っていたい気分だ。寝台に後ろ髪を思いっきり引きずり込まれそうになりながら、ポーラはなんとか立ち上がった。
朝食を食べて、ティエンシャン語と古代イストリア語の授業。アパラン先生との口頭試験は集中力も切れて散々だった。「先週やったばかりでしょう」と先生はたっぷり説教をしたうえで、新たに単語を三十と、例文を二十、暗記してくるように云った。
「明日までにがんばりなさい」
「あっ、明日?」
これじゃあ今晩はずっと試験勉強するしかなさそうだ。テオンに会いに行けそうにはない。
そもそも多忙なポーラにとって毎日のように夜中の外出をするのは、根本的に無理のあることだった。昼間の授業や公務、それに八人の先生たちが出す課題をこなしていればあっという間に一日が終わり、ぐったりと寝床に戻るだけだ。そんななかで夜中の外出までして寝不足とあっては、体力の限界も近い。
なんでわたしはこんなにたいへんな思いをしなくてはならないのだろう。
数年前、ポーラがそうこぼしたとき、お姉さまはこう云った。
「イストラリアンの王族は昔からティエンシャンの皇帝一族や、エヌッラの貴族の家と婚姻関係を結んできたのよ。なぜだかわかるでしょう? 小国であるイストラリアンにとっては、両大国と緊密な関係を結ぶことが最重要の課題なのだから。だから男だろうと女だろうと、外国の重要一族と婚姻を結んで繋がりを作る必要があったというわけ。嫁いだ王族は悪く云えば『人質』、よく云えば外国とイストラリアンの間に立った『口利き役』という役割を果たすというわけね」
ポーラたちはいわばイストラリアンにおける外交の切り札なのだ。王族の子供たちは将来、外国との架け橋になる資産として育てられている。
「わたしたちが外国語を厳しく教えられるのもそれが理由。外国の文化や歴史についてもたくさん習うでしょう? すべて将来の結婚のための準備なのよ」
トーランお姉さまはちょっと皮肉めかしてそう云った。当時のポーラにはその言葉の意味がよくわからなかった。
ポーラがやっとその意味を理解できたのは、トーランがエヌッラに嫁ぐと聞いてからだった。
ポラロロアーナ内親王の私室にあるもの。相応の大きさの寝台。大陸から輸入したという黒塗りの、とにかく不必要に重い机と椅子。それにちょっとした宴会が開けそうなくらいに広い衣装箪笥。だがポーラにとって大事なのは、そのどれよりも、あの離宮からわざわざ運んできた『宝箱』だった。
中に入れられているのは、去年の誕生日に貰った胸飾り。離宮の庭で咲いた竜胆で作った押し花。ユーアからもらった古文書の切れ端。マリウス卿にせがんで買ってもらった白軸の筆。母が描いてくれた愛らしい渡り鳥の絵。
そのどれもがいっとう大切なものだったが、ポーラがひときわよく見返すのはトーランから送られてきた何枚もの便箋だった。
茶色い封筒に入れられたその手紙の数々。この前ケルロスが持ってきたものも、もちろんその中には含まれている。
商人としてエヌッラとイストラリアンを往復するケルロスに託して、トーランはポーラに手紙をくれる。必ずひと月に一度。トーランお姉さまらしいまめな規則に従って。手紙にはエヌッラでのくらしや、日々の疑問、ポーラに対するちょっとした忠告が、余白なくびっしりと綴られている。それを読んで、ポーラも必ず返事をする。海の向こうにいる姉に思いを馳せながら。
トーランとは三年間会っていない。
トライメリアーナ・ル・イドロゲア。トーラン。東の海の女王トロイメリアーナにちなんで名付けられたこの娘は、元から海の向こうの国に嫁ぐことを運命づけられていたのかもしれない。トーランの母親はデメトール──ポーラの父──の第一夫人だった。ポーラの母は第三夫人だから、トーランとポーラは血縁としても年齢としても、すこし離れている。
ポーラにとってトーランはひどく大人びて見えたし、実際に大人だったのだ。
イストラリアンは外交の国だ。いずれまたトーランとその夫がこの国を訪ねにくることもあるだろう。あるいは、ポーラがエヌッラに渡る機会もあるかもしれない。従兄弟にあたるエルメ王子は現在、帝国の勅命学府に留学している。ポーラもやがては外国に留学しに行く機会もあるかもしれない。だからきっと、会うことはできる。
そのときは、お姉さまに成長した姿を見せよう。
立派な大人になれたことに胸を張ろう。
今はまだ、無理だけど。
手紙を見返しながら、ポーラはケルロスのことを考える。たしか今月いっぱいはイストラリアンに滞在していると云っていたはずだ。ケルロスから反射鏡の材料を手に入れることができる可能性は、高い。だってケルロスはエヌッラでいちばんの商人なのだから。
明日、ケルロスに会えないかお父様に聞いてみよう。話はそれからだ。
トーランからのいちばん新しい手紙。そこにはこう書かれている。
『ポーラ。あなたはもう十歳になっているはずね。きっと今までよりもずっといろいろなことに気づいて、あれこれと思い悩むこともあるころでしょう。もしかしたら先生方の授業に嫌気が差してたりするかも。なんでわかるかって? それは私自身がそうだったからです』
『きっとお父様やお母様のすることにも不満を感じることがあるでしょう。たとえ今はそう思ってなかったとしても、生きていればきっと必ずそういう日が来るものです。でもこれだけは憶えておいてください。眼の前のことから逃げ出すことを、〈自由〉とは呼ばないの』
自由──。
ポーラは寝台に座って、手紙を見つめる。最後の一文を指でなぞった。
お姉さまはとても強かった。どんなときも慌てず、いつでもあの優しい笑顔を忘れなかった。トーランが大人たちに逆らっているところも、一度として見たことがなかった。
逃げ出すことは自由とは呼ばない……。
「……あっ、まずい……」
眼の前にあること。それは明日のアパラン先生の試験だ。
単語三十、例文二十……。
ポーラは慌てて例文を暗唱し始めた。
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