1-9
夜明けとともにポーラは屋敷に戻り、裏木戸から庭に出て、正面玄関から堂々と帰宅した。
「ポーラ様、庭の散歩ですか?」
「ええ」
門兵に挨拶して通り過ぎる。家を出るのは難しいが、帰るのは簡単だ。ちょうど裏口から出て早朝の庭の散歩をしてきたかのような体で正面玄関から帰れば良い。我ながら賢い発想だった。
テオンは毎晩あの公園で天体観測をしているらしい。また会いに行こう。ポーラは階段を登りながら考えた。
論理的に考えることだけがすべてではない。神話だって、魔法だって、世界を説明する手段になりうる。
その言葉を反芻する。考えたこともない話だった。神話や、迷信が、論理と同じ道具? ポーラの頭は未だ混乱の中にあった。
神話とは、なんだろう。ポーラが知る神話は、イーストラ叙事詩に語られている建国の物語や、あるいはパラエの祭に出てくるような精霊と古代の王たちの物語。あるいは神秘教団が信じているというやがて来る審判の日。ひとくちに神話と云っても多彩だ。
イストラリアンの王家は、北の大地の王イーストラと東の海の女王トロイメリアーナが結ばれて発祥した。ふたりの息子レルラ王の即位が、王暦の始まりだ。イーストラとトロイメリアーナはこの世界〈シューマ〉の起源とともに最初に造られた六氏族のうちのふたりだ。
そしてシューマは大災禍の中で生まれたのだという。
「ユーア、聞きたいことがあるんだけど」
午後の授業でポーラは問いかけた。
「イーストラ叙事詩にはイストラリアンがいかに建国されたかの歴史が書かれているでしょう? でもあれってどこまでほんとうなのかしら」
「どこまで、と云いますと?」
ユーアは首を傾げる。引っ越したあともなんだかんだ云って授業は続いている。いちおう授業数は減っていて、日が沈む前には授業が終わるのが嬉しいが、今のポーラにとっては授業よりもあの星空のほうが興味の的になっていた。
「王家の起源がイーストラ王とトロイメリアーナ女王であるところまではわかるの。でもシューマや神々の物語については? それにイーストラ王がレルラ王の即位までに七〇〇年も生きたっていうのも信じられないわ。それにレルラ王が父親のイーストラを殺してしまったっていう話も。どこまでがほんとうでどこまでが嘘なの?」
「その疑問もごもっともです」ユーアは得意げに頷く。「イーストラ叙事詩の中には史実に近いものもあれば、創作としか思えないような内容もあります。どれが史実でどれがそうではないか、というのを調べるのも歴史学の役目です」
「どうやって見分けるの?」
「そうですね……例えば他の歴史資料と比べて共通する記述があるかどうか見比べたりとか、あとは遺跡から証拠品を探してきたりとか。ポーラ様も赤燕の離宮の近くに墳墓跡があったのは憶えておいででしょう? あそこから発掘された副葬品から、墳墓に埋葬されているのはレルラ王だと云われています。それにティエシャンの『正史』にもレルラ王が海峡を統治しているという旨の記述があります。つまりイーストラ叙事詩の中でも、レルラ王の即位の部分は少なくとも真実である可能性が高いということです」
「なるほどね……」
「イーストラ王が七〇〇年も生きたという話は……どうでしょうね。昔のひとは長生きだったのかもしれませんし、あるいは王家の魔法の力だったのかもしれません。なにせイーストラ王は大陸全土を支配した、後にも先にもただひとりの王だったそうですから。そういうこともできたかも……でも証拠がありません。ただ物語にそう書かれているだけです。で、あればそれは史実とは云えません」
「わたしもそう思うわ」
「イーストラをレルラが殺してしまったという逸話は、真実かどうかわかりませんが、親子が権力を巡って争うということは歴史では珍しくありません。イストラリアンの歴史としてほんとうにそういうことがあったとまでは云い切れませんけど、似たような出来事は実際に起こったのかもしれませんね。神話はおうおうにして現実の出来事を元にして生み出されますから」
「真実とは云えないけど、似たようなことはあったかもしれない、ってことね」
テオンだったら、どう考えるだろう。神話や作り話だって、学問と同じだけの力を持ちうると思っていたかれなら。
イーストラ王はほんとうに七〇〇年の時を生きた大英雄なのかもしれない。あるいはそれはレルラ王が自分の出自に箔をつけるために考えた作り話なのかもしれない。だがそんなに単純なことなのだろうか。
偏見の眼を捨て、先入観なしに考える。それが論理的思考の基本だ。お姉さまはそう云った。
ならば、わたしたちの考え方、常識、日常の感覚。それ自体を疑わないといけないんじゃないのだろうか。
今晩も、ポーラは公園に繰り出す心づもりだった。
昨晩は苦労したが、今度は前もって妙案を用意しておいた。
この前使った一階の物置部屋は、ポーラの私室のほぼ真下に位置している。物置小屋の小部屋にある窓は片腕が出せるくらいの狭いものなので、外に出るのには向かない。
だが、別の使い方をすれば活用できるのではないだろうか。
ポーラは昼間、二階を探索しておいた。父の書斎や寝室が並んでいるが、その中にちょうど四階のポーラの部屋と一階の物置小屋に挟まれた位置にある部屋を検査する。
その部屋は図書室だった。いくつも並んだ棚には巻物や書類がぎっしりと並べられ、床にまで溢れ出している。幸いにして鍵はかかっておらず、いつでも出入りできるようになっていた。
図書室の窓は物置小屋や、ポーラの部屋よりもずっと広くつくられている。おそらく書物を保管する室内に湿気が貯まらないようにするためだろう。特にこの時期のイストラリアンの湿気はすさまじい。
ポーラは窓を開けて身を乗り出す。十分な広さ。おそるおそる下を見ると、ちょうど物置小屋の窓が見えた。
物置小屋の小窓は金属製の格子窓を上に押し開けるような構造をしている。ポーラはあらかじめ窓を開けて、つっかえ棒をはめてきた。ゆっくりと二階の窓の外へと身体を滑らせる。伸ばした足が、たしかに一階の窓に触れる。そのまま二階の窓枠を掴み、ゆっくりと両脚を一階の格子窓に下ろす。そのまま壁に取り付けられている樋に右手を伸ばし、そこを伝って滑るように庭へ降り立った。
「やった!」
ここは裏口からも正面玄関からも死角になる場所だ。あとはこの場所から茂みを通って裏木戸まで行き、公園に出れば良い。帰りもこの道を使えるだろう。
夜への準備は万全だ。
テオンは細長い筒のようなものを持ってそれを空に向けていた。筒の先端を眼に当てて、片目を瞑って首を傾げている。
「なぁにそれ」
ポーラが近づくと、テオンはその筒を差し出した。
「これを眼に当てて、星を見て見るんだ」
筒は木で出来ていた。片方の端には膨らんだ形の硝子が嵌っていて、反対側の端にはそれよりずっと小さい硝子がもうひとつ嵌っている。長さはポーラの二の腕と同じくらいだろうか。
小さい硝子の方を眼に当てて、上を見上げる。ぼんやりと光るものが見えた。
「よくわかんない」
「筒の上の方をねじって調節するんだ」
ポーラは云われた通り、木製の可動部を動かす。少しずつ視界ははっきりとしていき、ぼんやりとしていた光の輪郭は縮まって、やがていくつかの星々に変わっていった。
「見えた!」
「望遠鏡だ。こいつを使えば星も見やすくなるだろう」
「どうなってるの? これ」
「硝子を研磨して、星の光を増幅させるんだ。今度は狙った星を見てみるとするか」
テオンはポーラに赤星や一番星の位置を教えた。
「夜空でも特に強い光を持つこのふたつの星は他の星々とは違う。惑星というものだ。他の星々より大地に近い場所を回っている、と云われている」
「だから明るく見えるの?」
「違いはそれだけじゃない。惑星は月と同じで、太陽の光を反射して光っているだけだ。その証拠を見せよう」
一番星を望遠鏡で見てみろ。テオンの指示に従って、ポーラは西の空に望遠鏡を向けた。一際明るく輝く黄色い星が一番星だ。
「あっ……欠けてるわ! 星が欠けて見えるの」
その丸い視界に映っていたのは月のように半分欠けた形をした星だった。
「太陽に照らされている場所が光っていて、その反対側は影になっとるんだ。あんなに小さいが、自分で光っていないという点では月と同じだな」
「すごい! こんなところまで見えるのね!」
ポーラは月にも望遠鏡を向けてみる。そこに映ったのは、黄色く光る月面とそこに刻まれた幾筋もの黒い影、ごつごつとした岩肌の手触りだった。
「月にもだれか住んでいるのかしら?」
「さぁな。あいにく私はお目にかかったことはないが」
「月の神話はないの?」
「当然あるに決まっているだろう。夜の王、パラエがトロイメリアーナとの百年戦争をしていたとき、攻防の拠点としてつくったのが月だ。ポーラ、おまえさんは月が昼間上っているのを見たことあるか?」
「それくらいあるわよ」
ポーラは怒ったようにテオンを見る。
「月は昼間の間、こっそりと姿を隠して地上を伺っている。夜になると煌々と地上を照らして不届き者を監視する。いわばあれはパラエが地上の王たちを見張るために作った監視塔なのだ、と云われている」
「でも新月の夜には月が登らないでしょう?」
「ああそうだ。月と太陽の公転周期の関係により、三十日に一度は必ず……」
テオンの言葉をポーラは熱心に聞いた。かれの講義は神話から天文学、星の探し方から名前の由来に至るまで、多岐に渡っていた。たったひとつの星について、テオンはいくらでも話を広げることができた。ポーラが質問をすれば、なおさら気を良くして喋り倒した。あたかもその木綿布で包まれた頭部の中には、これでもかというほどに大宇宙が詰まっているかのように。一度口を開けば、いくらでも星の話題が流れ出た。
この瞬間、この時間だけは、ポーラは内親王としての自分の立場を忘れていた。きっとテオンはポーラが王族であるということにも気づいてはいないだろう。この気難しい老人のことだから、たとえ知ったところでこれっぽっちの興味も持たないかもしれない。自分のことを語ろうとしないこの老人の前では、ポーラも自分の身分について語るつもりはなかった。
まるでこの星空の世界に、ふたりだけがいるようだった。
もしいま、世界中のひとが消えてしまったとしてもわたしとテオンだけは気がつかないに違いない。
だって、わたしたちは星空の世界にいるのだから。
ポーラはそんなことを考えていた。
もしわたしが王族だと知ったら、テオンはどんな顔をするだろう。きっと驚くことだろうな。この静かな時間は、壊れてしまうかもしれない。
それはいやだった。
今はそんなこと関係ない。わたしはわたし。テオンはテオン。それだけで十分だ。
「テオンは望遠鏡で見なくて良いの?」
望遠鏡を覗いていたポーラがふと口にした。テオンに指示されるがままに星を見ていたが、ふとかれのことが気になったのだ。テオンは真白の顎髭を撫でながら首を振る。
「私はもうあまり眼がよくないからな。望遠鏡を見ても仕方がない。それにせっかく見るのだったらもう少しちゃんとしたものを用意しないといかん」
「ちゃんとしたものって?」
「その望遠鏡はせいぜい船乗りが遠くを見るために使うものだ。星を見るためにつくられたものじゃない。ちゃんとした観測を行うには、反射鏡を使った専用の望遠鏡を用意しなくてはいけない」
「それはどこで手に入るの?」
そう問うと、テオンは苦しそうに唸った。
「イストラリアンでいちばんの硝子職人に材料を渡して頼めば、きっと組み上げてくれるだろう。だが、私は素材となるメルバンの反射鏡を持ってない」
「メルバンって……エヌッラにある街のこと?」
ポーラは地理の授業で聞いたことをおぼろげに思い出した。
「ああそうだ。めったに使うものじゃないから市場には出回ってない。商人から直接買い付けることができれば話は別だがな」
「その反射鏡を使った望遠鏡なら、もっとよく星が見えるようになるの?」
「ああ。ひとつひとつの星がどんな形をしているのかも見えるようになるだろうな。星団や重星、連星も見て取れる。あるいは衛生も見えるかもわからん」
ポーラは思い浮かべた。星々をもっと近くに見ることができる望遠鏡。星の形まで見ることができるような……そんなものが手に入れば、きっとテオンの話すこともより深くわかるようになるだろう。
もっと知りたかった。もっと近づきたい。
「実はね」ポーラは微笑んだ。「知り合いがいるの。エヌッラの商人で」
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