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それは奇妙な感覚だった。
新鮮なようで懐かしいような。初対面なのにすごく親近感を憶えるというか。見覚えのある景色を前にして、ポーラはすっかりあの迷子の晩に戻ったような錯覚を得た。
老人はあのときと同じように、星明かりの降り注ぐ公園の広場に横たわっていた。
今ではもう死体だとか、パラエ王に見えたりはしない。そこにいるのはひとりの奇妙な神秘教徒の老人であり、それ以外の何者でもなかった。ポーラはちょっとした目眩を憶えながらも、かれのそばへと近づいた。
「こんばんは」
まずは礼儀正しく挨拶からだ。どんな相手にもまずは挨拶から、とアパラン先生も云っていた。
しかし老人はポーラの姿が目に入らないかのように、指先ひとつ動かさなかった。
「ねぇ。わたし、お爺さんに聞きたいことがあるの」
老人は答えない。星明かりに照らされて暗い眼窩の中にふたつ、きらりと光るものが見える。目を開いていることは間違いないのだ。それによくよく見れば肺が上下していることもわかる。あくまでポーラを無視する構えなのだ。
「どうして無視するの? 星を見ているから? わたしだって星は好きよ」
ポーラはそう云って、老人のそばに寝転がる。今晩も、空には星で編まれたヴェールがかけられていた。
「お姉さまが教えてくれたわ。夜の星々は一日で一巡りする。止まっているように見える星もほんとうは動いていて、そして見える星は一年間かけてさらにもう一巡りするって。それに星の中でも特に明るい赤星や一番星、それに月や太陽もまた別々に回っているって。どれひとつとして同じ明かりの星はなく、どれもが違う道筋を通っているのよ」
「……待て」
老人がポーラの言葉を遮った。その声はやはりあのときポーラに「奔星」という言葉を教えたときと同じ、しゃがれた声だった。
「星が『回ってる』? 回るとはなんだ。コマのように回っているとでも云うのか? それとも雲雀のようにくるくると回りながら飛んでいる、とでも? 何を根拠にそんなことを云うつもりだ。自分の眼で見たことがあるのか?」
「えっ……いや……」
突然の言葉にポーラは思わず老人の方を見る。かれは天を見上げたまま、言葉を続けた。
「だいたいこの星空を見て、どれがどの星だか見分けることができるか? 奔星と恒星と惑星の区別がつくか? つくっていうなら、聞かせてもらおうじゃないか」
老人は怒ったように云いたい放題に云って、そしてふたたび押し黙った。ポーラは二の句が接げなかった。
何がかれをそんなにも怒らせたのだろう。無理に話しかけたこと? それともポーラがてきとうなことばかり口にしたから? 迷ったすえ、ポーラは口を開いた。
「お爺さん。お爺さんにはどの星がなんなのか、わかるんでしょう?」
「……あたりまえだ」
「教えてよ。わたし、こんな星空今まで見たことがなかったの。だからぜんぜんものを知らないわ。星のこと、教えて」
ポーラは身体を起こして、芝の上にぺたんと座り、老人の顔を覗き込んでそう云った。老人はしばらく眼を泳がせていたが、ついにポーラの気持ちに押し負けたのか溜息をついた。
「……ポーラ」
「え?」
「ポーラだ」
その言葉が老人の口から発されたとき、耳を疑った。
「どうして……どうしてわたしの名前を知っているの?」
「……んあ?」
「ポーラよ。ポーラって云ったじゃない? わたしの名前はポーラよ」
老人はぎょっとしたように目を見開き、そして首を振った。
「そうか。だが私はそのつもりでおまえさんの名前など知らん。ポーラというのは星の名前だ。この夜空で唯一不動の星の、な」
「不動の星……」
「あそこに青い星が密集しているのがわかるか」
老人が天空の一点を指さす。
「星が笑っている口みたいに並んでいるところ? りょうど口の右端に星が一、二、……七つ固まってるわよね」
「七つ……?」
「間違ってる?」
「いや、随分眼が良いなと思っただけだ」
老人はぼそりと云う。ポーラは眼の良さには自信があった。
「……それはいい。とにかく、そこからその口の線を上方向に伸ばしていくと、親指一本分くらい離れたところに黄色がかったちょっと暗めの星があるはずだ」
老人は右手をまっすぐ上に伸ばして親指を立てる。ポーラも真似して図ってみた。口の線を伸ばして、親指一本……黄色がかった星が……
「あった!」
「……それがポーラだ。北極星とも云う。夜空でただひとつ動かない星。すべての星はポーラを中心に反時計回りに動いておる」
じいっと目を凝らす。ちょっと見ただけでは星の動きはわからない。だがなんとなく、自分と同じ名前を持つその黄色い星に得も云われぬ愛着が湧きつつあるのをポーラは感じていた。
「ポーラは山猫座の二等星だ。さっきの口のような形をしていたのは猿座。山猫と猿はどちらもイーストラの森の守り神として知られている生き物だ」
山猫と、猿。ポーラはその星々の中に二匹の動物の影を探す。云われてみると、北極星からは細長い尻尾が伸びているようで、それをたどっていくと四足の動物のかたちに星が並んでいる。これが山猫ということだろうか。ちょっと歪だがわからないこともない。
猿はというと、口のような形が特徴的すぎて動物のようには見えにくい。
「青い星団があると云っただろう? あれが猿の顔だ」
猿の顔……絵で見たことがある。雄の山猿の顔はちょっと驚くほどの美しい青色をしているのだと云う。そう思うと自然と、猿座の全体像が見えてきた。青い顔と痩せた身体。左右に伸びているのは長い手足だろうか。それが笑った口のように見えていたのだ。
「猿と山猫は仲が悪い。北の夜空は常に沈むことのない場所だから、それだけ高位の動物が守らなければならない場所だ。今は山猫がその役目についているが、猿はいつでも山猫の地位を奪おうと狙っている」
「空の上で喧嘩しているとでもいうの?」
「そうだ。あるいはいつの日か、猿が山猫を倒して、あの青い星々が北極星の座につくこともあるかもしれんな」
「冗談でしょう?」ポーラは反論する。「だってそれは神話の話じゃない? 北極星は不動の星じゃなかったの? それともまさかほんとうに空の上で山猫と猿が喧嘩しているなんて云うつもりじゃあ……」
「たしかに神話というのは物語だ。人間にとってわかりやすくて面白いように作り出された話でしかない。だがな、それが万に一つ、真実を云い当てていないとなぜ断言できる」
「ありえないわ。あの星が猿に見えるのだってこじつけのようなものじゃない?」
「それはそうだ。だが星々は常に動いている。猿の顔がいつの日にか北極星に成り代わる。そんな天変地異が起こらないと云い切れるか? この星々がどのように巡っているのかもろくに知らないというのに、そんなえらそうなことが云えるか?」
「でもそれは……論理的じゃないわ! こじつけよ」
「論理? 論理的ならなんでもえらいのか?」
「そうよ。お姉さまが教えてくれたもの」
「論理的に考えること。それはひとつの手段にすぎん。おまえさんが論理的に考えるというのなら、私は神話を使って考えてみる。あるいは呪術でも直感でも、なんなら魔法を使って説明することだって可能性としてはありうる」
「魔法を使えるの?」
「私は使えん。だが王様だったら使えるだろう? もし王が『魔法を使って星々の謎を解き明かした』と云いだしたとしよう。きっと何人かは信じて、何人かは疑うだろう。だがたしかめる術がない以上、どちらが正しいとは云えないだろ?」
老人の語りにポーラは混乱した。理屈で考えることの何が悪いって云うの? 老人の云っていることはとうてい受け容れられないが、それでいて今のポーラにはこれといった良い反論も思いつかなかった。
「神話というのは世界を説明するひとつの手段だ。論理や、魔法と同じ。ひとつの道具だ。譬えば工芸家にこんな依頼が来たとしよう。『私の像を作ってくれ』と。おまえさんはどうする?」
「像の作り方なんてしらないわ」
「そうだろう。だが作り方とひとくちに云っても色々ある。木を切り出して一刀彫で作ることもできる。あるいは石膏で作って鋳型を取り、そこに金属を流し込んで鋳造する方法もある。あるいは粘土をこねて組み立てても良い。だがいずれにしても出来上がるのは同じ形の同じ像だ」
「神話と論理も……それと同じだっていうの?」
「ああそうだ。経過がどうあれ、同じ結果に結びつくことはありうる。だから神話だからといって、あるいは逆に論理だからといって軽視することはできない。どちらも同じように価値があり、尊重すべきだ。そうやって先入観を捨てなければ、真実には辿り着けない」
ふと見れば、また星の位置が動いているのがわかった。猿座の顔の場所も微妙に変化している。山猫座は尻尾を中心にくるりと回転した位置にある。それでもやはりポーラ──北極星は同じ場所で不動だった。
「私もまだ知らないことばかりだ。一生かけても学び足りない。この空の下でどれだけの月日を過ごしても、まだ足りないのだ」
「ねぇ、どうして星を見るの? 星が好きだから?」
「知りたいからだ。この世界の理を。この星々を動かす何者かの正体を」
「ずっと星のことを研究してきたの……?」
老人は答えなかった。ついさっきまでの饒舌さとは裏腹に、自分のこととなるとてんで何も話さなくなってしまうというのが、この老人の習性のようだった。
「あっ! そうだ」
ポーラはここまできてようやく、かれに会いにきたわけを思い出した。あの晩の出来事のことについてたしかめようと思っていたのだ。
「この前、わたしたちが会った夜。わたし途中で眠ってしまったでしょう? あのあと何があったの?」
「そんなこともあったな」老人は素っ気なく答えた。「若い男がおまえさんを迎えに来たよ」
「それって、こおんなに背が高くて箪笥みたいに四角い顔してる……」
「ああその男だ」
やはりバランが迎えに来てくれていたのだ。これであの出来事が夢じゃなったことはわかった。まだまだ謎は残るけど……。
「ねぇ、最後にこれだけ聞いていい?」
「……なんだ」
「あなたの名前は?」
ポーラは老人の姿を見つめた。かれはゆっくりと立ち上がり、衣服のほこりを払って星を見上げた。布に包まれた重そうな頭。その知的な面影は、たしかに学者らしい佇まいだった。
「……テオン。それが私の名前だ」
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