1-5


 牛車の荷台からその見覚えある林が見えたとき、ポーラは思わず歓声を上げていた。

 引っ越しは使用人たち総出で迅速に行われた。衣類や家財道具は前もって運び出され、ポーラと母が官邸に着くころにはすっかりふたりが住むための準備は整っていた。ポーラが運んだ荷物は膝の上に乗せた「宝箱」だけだ。

 大理石を切り出してつくられた荘厳な門構え。街でもめったにない四階建ての高層造り。国王の弟が住むに相応しい贅を尽くした建物だったが、ポーラにしてみれば小さくて手狭なだけの仮住まいにすぎなかった。それよりもポーラの心を惹きつけたのは、官邸の裏手が、ちょうどあの慰霊公園に繋がっているところだった。

 あの日以来、何度か星空を見たいと思う瞬間があったが、そのたびにポーラは現実に打ちひしがれることとなった。彼女の寝室ははめ殺しの大窓があり──開閉できる窓では危ないだろうという母の配慮によるものだ──そこからわずかに夜空を見ることができる。しかし、あの公園の広場から満天の丸い空を見てしまったポーラにとってその中途半端な角度からわずかに見えるだけの額縁入りの夜空では不満だった。庭に出ればよく見えるだろうに、当然のことながら日が暮れてから八時以降に外に出ることは許されない。ましてやひとりでなんて、論外だ。

 でもこの新しい家だったら。ともすればユーアやバランを説得して夜の公園に連れ出してくれるかもしれない。それにあの不思議な老人とも……

 また会う機会があるかも。

「ポーラ。元気にしてたか?」

 父、デメトールがポーラと母を出迎えた。背は母より少し高いくらいしかないが、立派な口髭と鍛え上がった四肢のおかげで随分と大きく見える。

 総司令官は軍人の鑑でなくてはいけない。

 父はよくそう云って胸を張る。前にバランが教えてくれたことには、軍人たちの間での父の人気はとてつもないほどらしい。ひとたびかれが演説を打てば、だれもが襟を正して思わず胸を熱くするという。人望だけだったら国王陛下よりもあるかもしれないとかなんとか……とバランは少し言葉を濁しながら云った。

 ポーラにしてみれば父は父だ。父が軍隊で何をしているのかはよくわからない。演説をやったり船に乗ったり……けっきょくどういうことなのかはうまく想像できない。ポーラにとって父は驚くほどの量の食事を平らげ、片手でポーラの身体を持ち上げ、そしてごくたまに水軍将棋に付き合ってくれる、そういう存在だ。

「どうして私とお母様もここに住まなくてはいけないの?」

「ポーラ、気持ちはわかる。ここで暮らすのは少し落ち着かないだろう。だがな、これからしばらく外国からの色々なひとがイストラリアンを訪れてくるんだ。私たち王族が直接会って話さなくてはならないときも多い。王族の仕事がなんだか、ポーラは知ってるだろう?」

「この国の『名代』になる──それが仕事でしょ?」

「そうだ。この国を建てたイーストラ王とトロイメリアーナ女王の代弁者として、他の国のひとびとと顔を合わせて話をする。そしてその結果を民草に伝える。それが王族の役目だ。だから今後、ポーラにも手伝ってもらうこともあるだろうが……できるだろう?」

「……分かったわ」

「その代わり、忙しくなる分、授業は減らしてもらうからな」

「ほんとう?」

「ああ。だから手を貸してくれるな?」

「もちろん!」

 ポーラは二つ返事で答えた。授業が減るのだったら、これ以上嬉しいことはない。

 そのとき水軍独特の青と白の二色使いの制服を纏った男が現れて、デメトールに一礼した。後にポーラも知ることになるのだが、官邸は水軍の総司令部とひと続きの建物の内部にあり、特に昼間は軍関係者がひっきりなしに訪ねてくるといういささか落ち着かない場所だった。

「閣下。ティエンシャン東海沖合の巡視部隊から速報です。エヌッラの船籍未確認の一団が侵入したそうです」

「わかった。執務室で聞こう」デメトールはポーラの方を向き、優しく声をかける。「上の階にポーラの部屋がある。荷物はもう届いているはずだから、見に行くと良い。それとバランにこの屋敷の間取りを案内してもらいなさい。私はこれから仕事だから、ちょっと失礼するよ」

 そう云って父は部屋を出ていった。

 遠ざかっていく父と軍人の言葉に耳を澄ますと、「前線」「開戦期日」「条約破棄」などの言葉が聴こえた。

 ポーラはなんとなく寒気を感じて、自分の右腕をさすった。


 部屋に上がって、寝台ベッドの上に宝箱を置く。中身がちゃんと入っていることは、確認済みだ。次に衣装棚を見て、お馴染みの服が届いていることを確認する。

「あれ? こんなのあったっけ?」

 馴れない手触りの服を見つけて取り出してみると、黄色地に金の刺繍が縦横無尽に縫い付けられた礼服だった。新年や建国記念日など年に数度の式典でしか着ない衣服が二着も揃っている。

 外国のひとと会うときに着ていくということだろうか。ポーラはさきほどの父の言葉を思い出す。だが、ふつう大使や貴族に会うくらいだったら最上級の黄衣裳ではなく通常の礼服でも構わないはずだ。黄色地に金という色は王族、それも国王から三親等以内の王族にのみ着用が認められているもので、ポーラにしたところで滅多な場面では着る機会がない。それが二着も用意されているということは……

「それだけたくさん使うことになる……ってことかしら」

 最後に部屋の窓の外を見てみた。ちょうど表通りの反対側、つまり公園側に面して開いていて、背の高い木々が向こうに見えた。はめ殺しではないようで、いちおう外向きに開くものの、前回にはならないように調節されているようだ。下を覗くと小さな庭。庭に面して一階の裏口扉があり、扉の前には水軍の兵士が二人、直立不動の姿勢で立っている。護衛、ということだろう。空が見えるかどうかも試してみたが、木々の枝葉に隠れてあまり良く見えなかった。間接光のおかげで日当たり自体は良いのだが、どうにも上手くいかないものだ。

 さて。探検と行きましょうか。

 ポーラは寝室を出る。離宮ほど広くないが一階にはずっと見張りの兵士がいるようだし、自由はあまり利かない。とりあえずはバランを探すことにしようかな。


 バランといえば例の妙な出来事だ。

 あの後、遅れて出勤してきたバランに直接尋ねてみた。昨晩の帰りってよく憶えてないんだけど、けっきょく大使親娘との会合はどうなったの?と。

「ああ、あれですか」何をいまさら、という調子でバランは答えた。「向こうが集合場所に来なかったんですよ。なんでも急用が出来たとかなんかでお祭りを見に来れなくなっちゃったんですって。あの晩はポーラ様も体調が優れないようですし、結果的には良かったですね」

「待って、バラン」ポーラは聞き咎める。「わたしの体調が悪かったっていうの?」

「ええ、そうでしたよね。あのときは焦りましたよ。急にポーラ様の姿が見えなくなったんですから。私も焦りすぎたせいかあまりよく憶えていませんけど、気がついたら眠ってしまったポーラ様と一緒に離宮に帰る道中でした。きっと貧血で倒れてしまったんでしょうね。人混みでしたから仕方ありませんよ。ほんとうに申し訳ないことをしてしまいましたね」

 貧血? 気絶? ポーラの脳内を疑問が飛び交う。

「ねぇバラン。わたしに嘘なんかつかないで」

「嘘? まさか! ポーラ様に嘘なんて」

 死んでもありえない、とでも云うようにバランは首を振る。それもそうだろう。バランはもともと莫迦正直を絵に描いたような男だ。その実直さがあってこそ、衛士隊に入れたのだから。とすると、どういうことだろう。

「わたしとはぐれたり、わたしを置いてどこかへ行ったり……そんなことはなかったのよね」

「すみません。よく憶えてないんですけど……どういうことですか?」

 質問の意味がわからない、とでも云うようにバランはキョトンとした。やはり白を切っているようすはない。その表情を見ているうちに、ポーラの心のなかにひとつの不気味な仮説がぬるりと出現した。それは気持ちが悪く、しかしこの状況を完璧に説明できてしまう仮説だった。

 あの晩のことは、気を失ったわたしが見た夢だったとでも云うの……?

 バランとはぐれたことも、迷子になったことも、老人と星空を見たということも。すべてが夢だったとしたらいちおうの説明はできる。母が怒らなかったことも納得がいく。あの奔星に満ちた満天の星空も、たしかに現実離れした光景だった。だが……。

 それはそれで奇妙なのだ。あの夜の体験はいくつもの不自然な点があるにもかかわらず、細部が異常に克明だ。慰霊公園など一度も行ったことがなかったというのに、現にわたしはあの夢に出てきたのとそっくり同じ公園が官邸のそばにあることを知ってしまった。あれがまったくの妄想や夢とは思えない。ポーラは頭を悩ます。

 あるいは……。もうひとつの可能性がポーラの頭の片隅に引っかかっていた。だがそれは彼女にとってもどうしたらよいのかわからないぼんやりとした疑惑にすぎない。今は何もたしかなことが云えない。あるいはお姉さまだったらこの疑問の答えを知っているかもしれないが……。

 あれが夢だったのか。現実だったのか。

 確かめる方法はひとつだけある。

 あの晩の老人と、もう一度会うことができれば良いのだ。


 そんな物思いにふけりながら屋敷の部屋をいくつか勝手に見て回る。バランは見当たらない。そもそもたいていの部屋は鍵がかかっていて入れなかった。つまらない。

 階下に行ってみようか。くるりと踵を返してそちらへ行こうと歩みだしたとき、ポーラの頭はぽすんと柔らかいものへぶつかった。見れば紫紺色の直衣、爵位の印。見上げると白髪の髪を丁寧に結った男が驚いたようにポーラを見ていた。

「マリウス……」

「これはこれは、ポーラお嬢様。失礼いたしました」

 マリウス卿は恭しく頭を垂れた。隙のない所作。笑うと目尻にきれいな皺のよる顔。この暑い日にも正装をいっさい崩さず涼しげな表情をしている。

 礼儀正しい老犬、というのがポーラのこの人物に対する評価だ。アパラン先生もポーラの無作法を叱るとき、よく「マリウス卿を見習いなさい」と云うものだった。

「お引越しが済んだのですね。まだ落ち着かないかもしれませぬが、この官邸はデメトール閣下の眼がよく行き届いております。きっと気に入るはずですよ」

「そうね。景色が悪いのが、ちょっといやだけど」

 ポーラが生意気な口調でそう云うと、マリウスは微笑んだ。

「そればっかりはとても離宮に敵いませんね。ですがここからは議事堂や庁舎も近いですし、いろいろとお勉強の機会にも恵まれるでしょう。もし閣下のお許しがあれば、小生がお嬢様をご案内させていただきたいくらいです」

「それはまた今度でいいわ。それよりこの屋敷の中を案内してくださらないかしら?」

「喜んで」

 マリウス卿はポーラの手を取って歩き出した。父よりも歳上のこの男に、淑女として扱われるというのもなんだか照れくさい。ポーラの頬がちょっと熱くなった。マリウス卿の両手は珊瑚のように細く硬かった。

「マリウス。さっきお父様たちがティエンシャンの前線がどうとか、なんだか物騒な話をしていたわ。いったい何が起こっているの?」

「閣下は今、非常に重要な仕事を国王陛下から仰せつかっていらっしゃるのです。お嬢様と赤燕の宮様がここに呼ばれたのも、王家が一丸となってこの仕事に対処するためなのですよ」

 赤燕の宮、というのは母のことだ。

「その重要な仕事ってなんなの? お父様は外国の客人とお話することだって云ってたわ。でもお話するだけだったら、水軍なんていらないでしょう?」

 そう指摘すると、マリウスは足を止めた。表情は穏やかな笑みを浮かべたまま、だが今度はしっかりとポーラの眼を見て云う。

「ポーラ様は小生がどのような仕事をしているのか、ご存知ですよね?」

「陛下の補佐をしているんでしょう? お父様から前に、政府で法律を作っているのはマリウスだと聞いたわ」

「ええそうです。私は議事堂で国王陛下とともにはたらいています。私の仕事はいわば植木に水を上げるようなものです。丁寧に成長の様子を見て、そしてお世話をして、花ができるように日光を当て、果実ができれば収穫する。ですが、それだけでは足りないのです」

 ポーラは首を傾げる。マリウスは話を続けた。

「イストラリアンは三方を海に囲まれ、一方を帝国との境──つまり山脈に囲まれた孤立地帯です。両大国に囲まれた重要な場所であると同時に、気を抜けばいつの間にか孤立してしまう天然の監獄でもある」

「監獄? 罪人が住んでいる場所だっていうこと?」

「いいえ、ものの喩えです。私たちはこのイストラリアンで暮していますが、両大国との交易なしには生活ができない。だから私たちにとっては周囲を囲む海こそが道であり、国土なのです」

「それと植木の話がどう関わってくるの?」

「植木を育てるコツは、狭い植木鉢にいくつも植えすぎないことです。伸び伸びとした空間がなければ、植物は育ちません。国にしても同じことです。国同士が密集していてはどの国も不健康になってしまいます。でも木が育って伸びれば、次第に隣の木と枝葉が触れ合ってしまうように、国もだんだんと膨れていって肩がぶつかりあってしまうことがある。そんなことがないように、適度に距離感を監視する必要があるのです」

「それがお父様の仕事?」

「ええそうです。帝国とイストラリアンと協商。イストラリアンはそんななかでももっとも小さな国ですが、それでも海はわたしたちの領域です。だからこそ閣下を始め水軍がしっかりとそこで何が置きているのか目を光らせて、国同士の肩が触れ合うようなことがあれば、しっかりと各国に通達して自制をするように求めていかなければならないのです」

「そう……なるほどね」

 口ではそう云いつつ、ポーラの心には釈然としないものが残った。

 マリウスはたくみに喩え話に置き換えて話したが、実際に父や水軍がどのようなことをしているのかについては答えようとしなかった。話を逸したのだ。

「さぁ屋敷をご案内しますよ。こちらには書庫があって……」

 マリウスに手を引かれ、ポーラは歩きだす。だが心のなかではずっとマリウスの言葉を反芻していた。

 肩が触れ合うとはどういうことか。

 マリウスや父は何かを隠しているつもりなのではないのか。

 都合の良い言葉に置き換えて、真実を覆い隠しているのではないのか。

 今、イストラリアンの海で起こっているということ。

 帝国や協商との間で起こりつつあること。

 それらが向かう先は、戦争じゃないとでも云うのか。

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