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話は少し巻き戻る。
眩い まばゆい星空の下で、老人は途方にくれていた。
足元にはすやすやと眠った見知らぬ少女の身体。胸に麦藁帽を抱いて、小さく縮こまっている。その表情はどこか苦しそうだ。
どうせ家出でもしてきたのだろう。
広場を見渡すが、無論かれら以外の人影はない。
仕方ない。老人はすっと少女の身体の下に手を差し入れて、その小さな体躯を抱え上げた。思いのほか軽い。
公園を出た通り沿いに、シューミッシュの尼寺があったはずだ。そこの尼僧に預ければ、ひとまず問題ないだろう。どうせこの街の娘だ。目が醒めたら家に帰れるに違いない。
老人は海岸通りの方へ向けて、ゆっくりと歩き出した。
この祭の晴れやかな日に、わざわざ戦没者公園なんて陰気な場所に来る者もいないだろう。そう思っていた。あの公園は一部の人間にとっては触れたくないタブーのようなものだ。さいきんの連中には事情もよく知らずに公園にやってきてはしゃいでいるやつらもいるが、いずれにしてもありがたくないやつらばかりなのは変わりない。
少女の顔を覗き込む。その髪は大陸産の絹のようにわずかなほころびもなく美しい黒。その肌は南国の硝子細工のように、一点の曇りもなく透き通るような肌理。
それは、大切に育てられた子供の容姿だった。
そんな子がどうして家出などしたのだろう。どうして泣きそうな顔をしているのだろうか。
「ポーラ……ポーラ様……」
老人を物思いから引き戻したのは、前方から聴こえた声だった。公園を出て通り沿いに抜けたところで、背の高い男が、だれかの名前を呼びながら歩いてくる。その額からだらだらと汗を流し、その眼はまさに「血眼」とでも云うようなありさまだった。
「あっ!」
男は老人の抱え持った少女に目を留める。かれはそのまま駆け寄って、少女の顔を凝視した。
「よ、良かったぁ」
「……おまえの家の子か?」
「えっ……あ、はい!」
男は気もそぞろと云った状態で老人に返事する。この娘の家の使用人と云ったところだろうか。思いのほか金持ちの娘なのかもしれないな。老人はぼんやりと思った。
「疲れて眠ってしまったようだ。ちゃんと送り届けなさい」
「いや、助かります。一時はどうなることかと……」
そう云いかけたところで男は何かに気づいたのか、云い淀んだ。
老人にはその行動の意味がすぐにわかる。おおかた私の姿を訝しんでいるのだろう。このパラエの祭の夜に、なぜかひとりで戦没者公園から出てきた、不審な神秘教徒を怪しんでいるのだろう。
面倒事はできるかぎり避けたい。この男が少女の縁者であるかどうかなど、老人にはたしかめる術がなかったが、さきほどの憔悴しきった男のようすはまぎれもなく、大切なものとはぐれた人間の振る舞いだった。この男に任せておけば万事問題あるまい。
「では、私はこれで」
「……あ、ちょっと!」
男の静止を振り切って、老人は路地裏へと素早く抜けて行った。不審に思われることは、別に気にもならない。だが官憲の世話になるのだけは御免だった。やつらは苦手だ。それにもうこの老体の身には、他人の面倒を背負いこむだけの体力も気力も残っちゃいない。
海岸通りとは反対方向。チャオパティ川を跨ぐ三番橋を渡って街の北東に、老人の間借りしている部屋はある。自分の家を持たない人間たちが密集して住んでいるこの付近は、住民たちから自嘲も込めて蟻の巣と呼ばれている。「蟻の巣」とは名ばかりで、あいにくここの住人は蟻のような働き者ばかりではない、というのもミソだ。昼夜問わず街角に腰を下ろし、くだを巻いている連中がいたりするのは、もはやこの一帯の風物詩だった。
どこかから聴こえてくる怒号に耳にしつつ、老人は細かく区画された路地を何度も右へ左へと折れ、やがて一軒の塗装の剥げた石造りの家の戸を開けた。
扉を開けるとすぐのところに、ひとりの男が茣蓙の上にあぐらをかいている。薄着一枚羽織っただけの姿で酒を飲んでいた。
「おう。テオン。遅かったな」
「……そうか」
「向かいの旦那に聞いたんだけどよ。どうもちょっときなくさくなってきたみたいだぜ」
まぁちょっと付き合えよ、と男は酒器を片手に手招きするがテオンを首を振る。
「それで、なにがきなくさいって?」
「帝国と協商だよ。もうすぐにでも戦争が始まるとかなんとか。そうなっちまったらこの国はまっさきに火の海だ」
「……そうかい」
老人は気のない返事を返す。
「なんでい。爺さん、神秘教徒だろ? 戦争が始まったらあんたらへの風当たりも悪くなるんだぜ? しかもあんた、混血なんだろ? 悪いこと云わねえから、はやいとこ帝国に渡ったほうが身のためだぜ。なんでも若いころは向こうにいたらしいじゃねえか?」
「なぁ大家」老人は軽蔑したような眼で大家を睨み、首を振る。「あんたの心配することじゃねえよ。わしはわしでやることがあるんだ」
「おいおい、おれだって行けるもんなら帝国にでもどこにでも逃げちまいたいくらいだぜ。国王陛下も最近じゃ、腐敗官僚の操り人形だって噂じゃねえか。こんな国捨ててどこか遠くに行けたらなぁ。妻子がいなけりゃあおれだって……」
大家の言葉を途中で無視して、老人は階段を上った。二階には慎ましい自室がある。
少し寂しすぎるくらいの部屋だが、ひとり暮らしにはちょうど良い。老人は自分の私室についてそう思っていた。
窓がひとつ開いているだけで、水回りや生活関連の設備のない物置のような部屋だ。だがこれでいい。どうせ自分で食事をつくることはないし、風呂や手洗場も共用のもので十分だ。
代わりにこの部屋を埋め尽くしていたのは、無数の本や筆記帳の山だった。
それらを整理する者はなく、したがって散らかるがままになっているいくつもの書籍。
この部屋には盗むようなものなど何もない。この本の山を除けば。かれが一生涯をかけて集めたこの書物たちと、そしてかれが一生涯かけて書き溜めた文物の山。火をつければすぐにでも全焼してしまうような乾ききった儚い紙の山こそが、老人の唯一にして最大の財産だった。
しっかりと窓が閉まっていることを確認し、老人はそのまま寝床に入る。寝床とは云っても、書類の山の中にぽっかりと空いた場所に茣蓙を敷いているだけだ。
だがそんな狭小な空間にあっても、老人の心を占めるものはこの街の誰の夢よりも遠大で深淵なるものだった。かれの脳内にあるのったのは天体の運行に関わるかかわるいくつもの数式。この世界を理するすべての仕組み。星々のあり方と時の巡りに関する無数の図式。
微睡みゆく思考の中で、その遠大な算式の中にぽつりと現れたのは、あのとき見た少女の不思議な表情だった。
彼女はどうして、あんなに苦しそうにしていたのだろう。
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