1-3


 どうやって離宮に戻ったのかはよく憶えていない。

 星に包まれたあの夜。そのきらめきに包まれながら、ポーラはだんだんと云いようのない孤独感に襲われた。とても遠いところまで来てしまった気がする。自分ひとりで。星の世界には言葉も通じず、そこには静寂だけがある。

 バランに、ユーアに、会いたい。

 父にも母にも。もちろんお姉さまにも。

 帰りたい。

 そう強く祈って、次に気がついたときにはポーラは牛車の上で揺られていた。彼女の頭の下にはごつごつした膝があり、ふと見上げればバランが涙ぐまんばかりの動揺した表情で彼女のことを見つめていた。

「ポーラ様、私が不甲斐ないばかりに……私は、私はアカラッチーアーナ様に陛下に合わせる顔もありません」

「……バラン? バラン、どうしたの?」

「もう、こんなことがないようにしましょうね。ポーラ様……」

 どうして泣いてるの? どうして……

 泣かないで……

 そのままポーラの眼は閉じ、次に目覚めたのは普段の寝室の布団の中だった。判然としないうちにアパラン先生に叩き起こされ、いつものように八人の家庭教師との生活が始まる。疑問を抱く間もなく、朝起きて食事して授業、といういつもの時間割が回りだす。三つの国の言葉と、四つの方言についての読み書き発話の授業を聞きながら、昨晩の奇妙な体験について振り返る。

 おそらくポーラは星を見ながら、そのまま眠ってしまったのだろう。馴れない場所でひとり彷徨ったのだ。そうなってもおかしくない。そしてそのあとでバランと再会できて、帰宅できた……?

 ということは、一度ポーラを放ってどこかへ消えた行ってしまったバランが、またポーラの元に戻ってきてくれたということだろうか。しかし、そもそもなぜバランはポーラのことを無視して消えたのだろう。あれだけ注意をして、肩車ですらはっきりと拒絶したバランが、どうしてそんな無責任なことをしたんだろうか。

 それに、あれだけのことがあってポーラになにひとつお咎めがないというのも奇妙だ。あの晩、ポーラはエヌッラの大使たちと会う約束だったはず。それをすっぽかしてしまったのだから、ほんとうであればポーラの母からとんでもないお叱りがあってもおかしくない。いや、鬼のように厳しい──怒ったらアパラン先生を三人束ねたより怖い──母が、ポーラに小言ひとつ云わないなんて、ありえない。

 何かが奇妙だ。それともポーラ自身が思い違いをしてるっていうこと?

「……じゃあこれをティエンシャン語に訳して、ポーラ……ポーラ様! ちゃんと聞いてる?」

「えっ?」

「ぼーっとしてないで。昨晩、パラエの祭に行って疲れてるっていうのは聞いてますけど。ちゃんと切り替えてくださいね」

 アパラン先生がコンコンと拳で机を叩いた。この男の先生は、拳闘士でもやっていたんじゃないかと思うくらい硬い拳をしている。ポーラはおとなしく従うことにした。アパラン先生のお説教はイストラリアンヤマヘビよりも長い。

「あの、アパラン先生」

「なんです?」

 授業の終わりにポーラは恐る恐る探りを入れる。

「今日、バランに会いましたか?」

「バランですか……」

 アパラン先生は部屋の隅に待機する衛士を見る。今日はバランじゃなくて別の衛士が来ていた。

「この曜日は非番じゃありませんでしたか? いずれにしても、今日は見ておりませんよ」

「そう……」ポーラは俯く。「ありがとう」

「『ありがとうございます』、でしょ? それに話すときは相手の眼を見て話しなさい」

「はい……」

「ああそれと」

 アパラン先生は振り返って顔色ひとつ変えず云う。

「アカラッチアーナ様がお呼びでしたよ。昼前に連花の間に来るように、と」

 ポーラの顔が青ざめる。


 連花の間、つまりアカラッチアーナ・ル・イドロゲアの私室は屋敷でもっとも日当たりの良い南東向きに位置する。蔦模様の飾り縫いがされた座椅子にすわった母の正面に腰掛け、要件を聞くというのがいつもの流れだった。母のそばに立った従者が薄布を彼女に向かって扇いでいるのも、見馴れた光景だ。

 ポーラは母のことがきらいなわけじゃない。むしろお姉さまを除けば世界でいちばん愛している相手だと云って良い。ポーラの話に声を上げて笑ってくれる姿が好きだ。就寝前の挨拶のときに、必ずかならずおでこに接吻してくれることも。風邪のときにはずっと寝室で頭を撫でてくれることも。

 だからこそ怒った顔が恐ろしい。ぜったいに見たくない。

「ポーラ」

 その言葉がかけられたとき、脇の下に冷たいものが走る。

「パラエの祭はどうだった?」

 どう答えるべきなんだろう? これは怒られているのか? それともカマをかけられている?

 迷った末に、ポーラはてきとうな言葉を発してしまう。

「あの……まぁまぁって感じ?」

 母の顔色を伺う。意外にも、彼女はポーラのほうを見ず、どこか部屋の隅に目線をやっていた。

「そう。そんなものよね。ユーアやバランたちの云うこと、ちゃんと従ってる?」

「え……」突然バランの名前が出たことに警戒しつつも答える。「もちろん。良い子にしてるわ」

 母はその返事に満足したようで、しばらく指で自分の長髪をいじっていたが、やがて決心したように口を開いた。

「今度、引っ越しをすることになったの」

「へ?」

「引っ越し、よ」

 それは、ポーラが生まれてからこれまで、ついぞ実際に使うことのなかった言葉だった。

「お父様と一緒に水軍総司令官官邸に移るの。街の方よ。まぁ引っ越しとはいっても、せいぜい一ヶ月くらいの間だろうけど。しばらく慌ただしくなるけれど、よろしくね。何か困ったことがあったらユーアたちに云うのよ」

 ポーラは顔を上げて、まじまじと母の眼を見た。なんという思いがけない話だろう。

 ポーラの父、デメトール・ロ・イドロゲンはイストラリアンの水軍総司令官の職を任されている。その職務上、かれは議事堂や港にほど近い官邸に住んでいた。ポーラたちと会う機会は一ヶ月に数度であり、普段から非常に忙しくしている。

 その父の官邸に移り住めるというのだ。

「ここよりは狭くて過ごしづらいでしょうけど、我慢するのよ」

 母は穏やかに笑ってそう云ったが、その表情にはどこか上の空なようすがあった。だがポーラも、いまや母のことなど気に留めずに想像を膨らましていた。官邸に引っ越す。街に引っ越すということ。つまりあの市場や、港にいつでも行ける距離の場所に住むということ!

 もしかしたら……あの公園にも。

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