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パラエの祭は年に一度、夏至の夜に開催される。
夜通し街中で音楽をかきたて、一睡もせずに過ごす。それによって邪気を払い、夜の精霊と不可侵の約定を取り交わす。街中には楽団が溢れ、ひとびとはおおいにはしゃぎ踊り、飲み食いをする。なかでも鼓笛隊と群衆が入り乱れて練り歩く姿は華やかで見ものだった。
「ポーラ様、けっして私から離れないでくださいよ」
バランはそう云って、しっかりとポーラの肩に手を置く。責任は重大だった。
イストラリアン王家衛士隊。軍人の中でも精鋭中の精鋭から選ばれる名誉職だ。入隊時には「自分の命に代えても王族を守護する」ことを誓わなくてはならない。文武のみならず振る舞いや精神性にいたるまで厳しい選抜を経て、ようやく入隊することができる。緑を基調としたその制服は市民の憧れの的だ。
しかし今のバランはその制服を脱ぎ、まったくの私服姿でポーラに付き添っている。丈長のローブの下にはいざというときのための刀剣を帯びているものの、はためには商家の冴えない次男坊が、妹を伴って祭に繰り出したくらいにしか見えないだろう。
ポーラはというと、少し大きすぎる麦藁帽子を被ってさりげなく顔を隠している。身なりはそこらの町娘と同じような装飾のない外出着だ。ポーラはさきほどから道行くひとびとの華美な民族衣装や張り子の動物たち、物売りの叫ぶ気の利いた節回しや、ハレの日独特の派手な食べ物に目を光らせていた。
「お忍びとはいえ、いちおうこれも公務なんですから。あまりはしゃぎすぎないでくださいね」
「公務、公務って、エヌッラの大使に会うだけでしょう? それに待ち合わせの時間にはまだ余裕があるわ。それよりバラン。わたし、あそこの山葡萄の出店が気になる!」
「ちょっと! お待ち下さい。私から離れないで!」
エヌッラの大使が娘を伴ってパラエの祭を見に来ているらしい。ぜひポーラも来てはどうか。ラパティという名前のこの大使はケルロスの友人でもあり、小柄で頼りない風貌でありながら、抜け目ない人物だった。
そのラパティ大使とポーラの会合を、ケルロスが仲介したわけである。どうやら向こうもお忍びで来ているらしく、しかもラパティ大使の娘はポーラと同じくらいの年頃だ。ポーラは新年の祝の席で、そのおっとりした少女に挨拶したことを思い出した。名前はたしか、アーニャと云っただろうか。
「アカラッチアーナ様にはすでに外出の許可をもらってきました」
ケルロスは威勢よく云った。ポーラの母、アカラッチアーナの許しなくしてポーラが外に出ることはできない。裏を返せば、それさえ手に入ればポーラは一時の自由を保障されるわけだ。
『私は大使と連れだって祭に向かいますから、ポーラ様はバラン殿と一緒に先にいらしててください。ほら、ポーラ様だって好きに祭に回る時間が欲しいでしょう?』
数刻前、ケルロスが密談をするように耳打ちした。ポーラはにんまりと笑って肯いた。そうこなくっちゃ。さすが、ケルロスはよく分かってるじゃない?
エヌッラ協商の大商人、ケルロス・バンダロスは王家に出入りできる数少ない異邦人のひとりだ。商人とはいえど、バンダロス家は六代に渡り爵位を受ける名家である。ケルロス自身は嫡男ではないため爵位を持たないが、しかし一族の重要人物として商売のみならず外交、渉外を広く受け持つ八面六臂の活躍をしていた。
エヌッラはイストラリアン海峡の南部に広がる数百もの島々の連合体だ。そもそもイストラリアン海峡は北のティエンシャン帝国から伸びた半島の先と、南の島々の間にわずかに空いた穏やかな海を指す。海峡は非常に狭まっており、半島の先端に位置するイストラリアンからは対岸の島々が肉眼でもよく見えるほどだ。
エヌッラの島々にはそれぞれに支配的な一族がおり、それらは貴族として島と島の間の交通網や流通を管理している。長らくかれらの群雄割拠が続いていたが、王暦二〇〇年ごろにバンダロス家など十八の主要貴族が合議し、協商連合という経済的共同体を設立することによって安定を見た……
……ここまでは、というのが、ポーラがユーアからさんざん習った内容だ。あまりにしつこいものだから、もう年号まですっかり暗記してしまった。
そういったわけで、エヌッラの超重要人物であり、大立役者でもあるケルロスはイストラリアンとエヌッラとのを結ぶ重要なパイプ役として王家に頻繁にしょっちゅう出入りをしている。快活でひとあたりが良いケルロスは、ポーラにとっても大好きな存在だった。何より来るたびにお土産を持ってきてくれるところが好きだ。そしてもうひとつ、ポーラにとって非常に重要な役割もあるのだが……
「あっ、ポーラ様。鼓笛隊が来るみたいですよ」
バランがポーラの肩を叩く。耳をすますと、騒々しい人声のざわめきの中に、明るい音色がほんのりと混ざっているのが聴こえてくる。そしてその音曲は次第に大きくなっていく。夜の精霊、パラエを讃え、かつてパラエと協定を取り交わした古代の王イーストラを敬うその祀り歌。牛革を張った太鼓を強く強く叩き鳴らし、竹笛を高く高く吹き鳴らし、そして群衆の足音と手拍子に合わせて、その一団は夜風涼しい海岸通りをこちらへと近づいてくる。
ポーラは爪先立ちをしてその姿を眼に止めようとするが、周囲の大人たちの背が邪魔をしてとても見えたものじゃない。首を伸ばしているうちに背筋のほうが痛くなってきてしまった。
「ねえ、バラン。これじゃ見えないわ」
「仕方ありません。パラエの祭にはイストラリアン中の人がこの海岸通りに押し寄せるんですから。それにポーラ様。そろそろ約束の場所に向かうお時間です」
バランは腕をポーラの小さな手を取りながら云う。ポーラは上目遣いにバランを睨んだ。そのときポーラの頭に名案が浮かんだ。
「バラン。肩車をしてよ。そうすれば私にも鼓笛隊が見えるわ」
「ええっ!」
バランは困ったような表情を浮かべる。そして身を屈め、ポーラの耳元に小さな声で話しかける。
「だめですよ。ポーラ様はお忍びで来てるんですよ。肩車なんてしたら、目立ちすぎです」
「帽子をかぶってるのよ。大丈夫でしょ」
「帽子でもなんでも、危険すぎです。顔を見られてしまいますよ」
「わたしの顔なんてみんな知らないんだから大丈夫よ」
どうしてそんなにかたくなな姿勢を取るのだろう。わたしには鼓笛隊を見る自由すらないって云うの?
ポーラもそう簡単に引き下がるつもりはない。
「屁理屈はやめてください!」バランは渋面を作ってポーラを叱った。「公務のときにポーラ様を見ているひとだっています。それにもし何かの間違いがあってここにポーラ様がいるなんてことにだれかが気づいたら、もうお祭りどころじゃないんですよ! 危険なことはさせられません」
バランにしてみればポーラを守らなければならないという使命感に基づいて叱っているわけだったが、ポーラは頭でわかっていても納得できなかった。
せっかくお祭りに来たというのに! これじゃあ晩餐会に出席して、水だけ飲んで帰るようなものじゃない!
「バラン! これは命令よ。わたしに肩車しなさい」
「いいえ。そのような命令には従えません。はやく約束の場所へ向かいましょう」
「もういいわ。あなたのことなんて知らない! 約束なんてどうでもいいわ!」
もうバランなんてどこかへ行ってしまえば良いんだわ!
約束も公務も、もう知らない!
そう思った瞬間だった。それが最初に起こったのは、ポーラが思わずそっぽを向いて、やり場のない怒りに沈んでいたとき。肩に置かれていた手がふっと消えて、頭上にあった気配がいつのまにかなくなっていた。
「……え?」
漠然とした違和感に気づいたときには、すでに遅かった。
背後を見る。さっきまでそこにいたバランが、どうしてかいない。
周囲を見回す。大人たちの背中が並ぶ。だがその中に、バランの真面目一徹な背中はない。
「バラン……」
控えめな声で呼びかけても、反応する者はなかった。鼓笛隊はもうすぐそばまで来ていて、耳を聾するような大音量の音楽が世界を包み込む。そんななかで、ポーラはおぼつかない足取りで人混みをかきわけていく。
「バラン! バラン!」
なぜ? どこへ行ってしまったの? 必死に人波を抜けていく。小さな体で大人たちの足の間を抜けていく。
焦りが恐怖に変わりつつあったころ、ようやく見慣れた背中が目に止まった。バランだ!
必死に声を張り上げながらながらそのそばへと近づく。だが、そばにいた若い男女が邪魔で、もう一歩先に進めない。
「バラン! どこへ行くっていうの!」
その声に、バランは振り返る。ああ良かった。気づいてくれた。思わず安堵が溢れだす。さぁはやく待ち合わせの場所に連れて行って。
ポーラの喉元まで出かかった言葉は、ついぞ発声されることはなかった。
バランはそのまま、顔を正面に戻して、人々の群れの中に飲み込まれ、消えていった。
ポーラを残して。
ポラロロアーナ・ル・イドロゲア内親王の人生の中で、真の意味でひとりきりになれた時間はどれほどあっただろう。この世に生を受けてから十年、常に誰かの眼にさらされてきた。家では監視の眼が行き届き、彼女のいる部屋の扉の外には、必ずひとりかふたりの衛士がつけられていた。寝ても醒めても、寝室でひとりで過ごしているときも、ポーラは自由というものを感じたことはなかった。
それが今、突如としてこの町の中にほっぽりだされた。周囲を見ればどこもかしこもひとばかり。まさに芋洗状態。でも誰もポーラに注意を払おうとしない。これだけのひとがいながら、今やだれも彼女を監視していない。
自由。それはつまり孤独であるということだった。
あれだけ欲して、そして不意に与えられた自由。それはただただ恐ろしく、そして寂しく心細い冷たいものだった。
ズン、ズン、ズン。
鼓笛隊の鳴らす低音の拍が、ポーラを急き立てるように鳴り響く。もうパレードを見に行こうという気にはならない。それどころか、一刻もはやくこの場を立ち去りたかった。
赤燕の離宮に戻る? いや、行きはバランとともに牛車で来たのだ。徒歩は無理だろう。ポーラの体力じゃあなおさら。ポーラたちを降ろすと牛車はそのままどこかへ行ってしまったし、迎えの車がどこに来るのかもポーラは知らない。
他に知っている場所は……ポーラはこめかみに手を当てる。去年の祭のときに使った議事堂だったら、なんとなくわかる。何度か行ったことがあるし……。
ポーラはおぼつかない足取りで表通りを抜け、裏路地へと入っていく。左右に見える怪しい人影にはできるかぎり目を合わせないようにした。直感的に、見てはいけないもののような気がしたから。だれかが吐いているうめき声が聴こえてきた。
議事堂に行くにしても、どこへ行くにしても、それまでポーラが外出するときは必ずといって良いほど牛車を使っている。だからポーラがイストラリアンの街路を知っているはずがないのだ。どこをどうやって歩けばどこへ着くのか。実際のところ、ポーラはなにひとつわかっていなかった。ただ漠然と、ここじゃないところへ、港とは反対の方向へ向かえば着くだろうという思いがあるだけだった。
そんないい加減な歩みで議事堂にたどり着けるはずがないということは、ポーラも薄々分かっていたが、ただその事実を直視することが途方もなく恐ろしいのだった。
「お姉さま……お姉さまだったらこんなとき、どうするだろう……」
順当に考えるのであれば、だれかに道を尋ねるべきなのだろう。だがだれに? ポーラは裏通りを行き交うひとびとの姿をこっそりと伺う。気がつけば、明かりも少なく路面にごみばかりが散らばった不潔な場所だ。道行く大人たちの目つきは鋭く、そしてポーラが帽子の影からこっそり目をやると、ぎらりとした視線が帰ってくる。とてもじゃないけれど話しかける気にはなれない。
自分でどうにかするしか、ないの?
ポーラは服の裾を掴む。自分がいかに無力か、思い知らされた。ポーラの世界はあまりに狭く、薄っぺらだった。大陸のこと、海の向こうのこと。そんな遠大なことを知識として知っていたとしていったい何の役に立つというの? 私は自分の生まれ育ったこのイストラリアンの街のことすら、ほとんど知らないというのに。
ケルロスの誘いさえなければ。ユーアとの口論すらなければ。大使との約束さえなければ。
後悔が次々と脳裏に浮かぶ。
わたしが肩車なんてせがまなければ。祭に行きたいなんて云わなければ。外に出たいなんて思わなければ。
自由が欲しいなんて考えなければ、こんなことにはならなかったのかな。
裏通りを抜け、静かな通りへと出た。いよいよこのあたりになると道行くひともほとんどいない。無愛想な石造りの建物が申し合わせたように無口な姿で並んでいる。
その向かい側に、黒々とした世界が広がっている。
赤燕の森……?
ポーラが最初に連想したのは、離宮を囲むように存在する森林のことだった。鬱蒼と樹木が生い茂り、鳥たちや小動物がひしめく世界。危ないからひとりで入らないように、といつもユーアが口を酸っぱくして云っている森。懐かしい森。まさかいつのまにかそんなところに出たっていうの?
よく考えてみればそんなはずはない。ここは街中につくられた公園なのだ。ポーラはすぐにそのことに気づいたが、しかしその公園に吸い寄せられるような不思議な気持ちを感じた。群衆に対する恐怖が、対照的に人影のない林の茂みへとポーラを惹きつけたのかもしれない。ポーラは慎重にまわりを見渡してみわたしてだれもいないのを確かめてから、道を渡って公園の中へと歩み出した。
植え込みを抜けると芝を縫うようにして伸びる小道にたどり着く。どうやら公園の中心部は広場になっているらしく、木立の影から開けた空間が見て取れた。ポーラは小道を素直にたどりながら、奥の方へと進んでいく。虫の鳴き声や夜鳥の控えめな囀りに混じって祭の音楽も遠くに聴こえた。人の声は、もう聴こえない。
暗い小道を迷わず歩いていけるのは、頭上の星空が優しく世界を照らしてくれていたからだった。穏やかな空間に心を癒やされたのか、いつしかポーラにも自分の周囲を冷静に見て取る余裕が生まれていた。星々の海が林の間からきらびやかにその姿を現す。そのあまりの美しさに、遠近感を失いそうになってポーラは少しよろけた。
道の途中に不思議な置物があった。だいたいポーラの身長と同じくらいだろうか。ずんぐりした樽の形をしている。たわむれに手を触れてみると、ひんやりと冷たい。金属。それは樽の形状をした銅像だった。
樽の表面にはプレートが取り付けられ、そこには角張った文字でこう刻まれている。
「王暦三〇七年、戦没者慰霊公園……」
樽の横を通り抜けると、広場に繋がっていた。ちょっとした丘のようになっていて、その中央部には四阿が建っている。
奇妙なものが眼に止まった。
それは枯れた木の枝のようだった。
ポーラはバランたちと赤燕の森を散歩しているときにたまに見かけるような、ヤシの木の奇妙にねじれ曲がった折れた枝を思い出す。たまにくる大風で、細い枝葉は折れてしまうのだとユーアは云っていた。今ポーラの眼の前に横たわっているのは、そんなか細く頼りないなにかだった。
「……だれ?」
ちょっと近づいてみる。星明かりに照らされたそれは老人だった。その男は力なく仰向けに横たわり、微動だにしない。
死んでいる?
ポーラは死体というものを見たことがない。人間が死ぬというのは知識として知っているだけで、実感はない。だが眼の前にいる老人は、ポーラにとっては「死」という概念にふさわしいもののように感じられた。皺の刻まれた顔。その眼窩には明かりも届かず、暗い闇が広がっているばかりだ。それが死人でないとしたら、なんだろう。
ポーラが次に思い浮かべたのは夜の王、パラエだった。シューマ神話に出てくる死と地底と暗黒の王。イーストラ王の宿敵パラエ。目を覚ませば怒り、災厄をもたらすという夜の王を、イーストラは得意の話術で丸め込み、この世界の半分と、そして年に一度の夏至祭の開催を見返りとして眠りにつかせた。
そのパラエ王が、ここに眠っているのだろうか。まさか。
どうしようかとあたりを見回したときだった。再び目線を戻すと、さっきまでそこにいたはずのパラエ王は消えていた。
「どこに……?」
「なにか用か」
突然背後から声が聴こえた。
思わず飛び退いて振り返ると、そこには腰の曲がったパラエ王の皺だらけの顔があった。
「あ……あ……あの」
「わしに用がないのなら、向こうへ行ってくれ」
それはパラエ王でも死体でもなく、生きた人間の老人だった。
老人はポーラを追い払うように右手を振ると、そのまま元の位置に戻って仰向けになった。
何者だろう。
深呼吸をしつつ落ち着いてきたポーラは改めて老人を見つめる。よく見ればパラエ王のはずがなかった。老人が身にまとっているのは灰色の簡素な寛筒衣──頭からすっぽりと被る上下ひとつづきの衣装だ。それに頭に巻きつけた木綿製の日除け布。典型的な神秘教徒の衣服であることは一目瞭然だ。
しかしこの老人はこんなところで何をしているのだろう。
たしかに神秘教徒にとってパラエの祭は異教徒の祝祭だ。だがここイストラリアンにおいてこの夏至祭だけは、神秘教徒もシューミッシュクも関係なくお祝いすることが慣例になっている。パラエの祭は神秘教徒にとって断食月間の最終日、解難の日と重なるため、かれらにとっても祝祭の夜となるからだ。まったく別の教義を持つふたつの信仰が、この日だけは同じように夜明けまで祝い、遊び、祈りを捧げる。
したがって、神秘教徒だって祭に参加して良いのだ。だというのにこの老人は、このひとけのない公園で寝そべって何をしているというのだろう。
ポーラの心からは家に帰れない不安よりも、老人に対する興味の方が勝っていった。
「ねぇ、何をしているの?」
思い切って声をかけてみる。だが老人は指の先も動かさず、ただ呟くように返答した。
「さぁな」
老人の真似をして……寝そべってみようか。そうすればかれのことも少しはわかるかも。
ポーラは思い切って芝に腰を下ろし、背中を大地につけて大の字になる。ちょっと眼の前がくらっとしたあと、そこに広がったのは満天の星だった。
それは音や匂いや、手触りのない。温度も実感もなにもない。ただ純然たる光と闇の世界だった。溶け込むような夜。丸く世界を包み込む真黒の空に、ぽつりぽつりと数え切れないほどの穴が開いていて、そのひとつひとつから恩寵の光が溢れている。一面の闇に塩をまぶしたように、億兆もの星々が好き勝手に散らばっていた。
じいっと見つめればそのひとつひとつに色があり、明るさの違いがある。目を凝らさねば見れないようなもの。思わず吸い寄せられるような赤い星。隊列を組んで夜空に縞模様を作り上げる星の群れ。それらすべてが天の星。この世界を照らす星明かりだった。
頭の上には、かくも典雅な世界が坐している。
「……これを見ていたの?」
思わず口を出たその言葉に、返事はなかった。
視界の隅を何かが横切った気がした。そちらへと思わず目を向けるが、そこにあるのは星と闇ばかりだ。
また、何かが眼の端を通る。今度ははっきりと細い線が現れては消えるのが見えた。でもそちらに目を向けても、星々の景色はやはりふたたび白々しく静止したままだ。
「奔星〈はしりぼし〉だ」
老人がぽつりと云った。その言葉が、ポーラの眼にした消える閃光のことだと気づくまでに、時間がかかった。
奔星。はしりぼし。昔、アパラン先生の授業で習ったことを思い出す。空の星の中には流れて消えるような動きをするものがあるという。雨粒が天から落ちるように、空を舞う星。
「こんなもんのじゃない。見てろ」
老人のしゃがれた声にならい、天を仰ぐ。どれだけの時間が経っただろう。いつしかそこには、無数の奔星の群れが現れては消え、また現れて。いくつもの光の軌跡が夜空に刻まれていく。もういくつ過ぎ去ったかわからない。あっという間の駆け足で、奔星たちは次々と夜空を駆け抜ける。
思えば、見えている星空もわずかながらに変わりゆくことに気づく。星は一瞬たりとも同じ場所にはない。止まっているように見えていたものたちも、実はゆっくりと動き、おおきく移り変わっていた。さっきまで林の向こう側にあった夜空が、今では頭上の天辺にある。さきほどまで視界の端にあった星々は、どれだけ探してももう見当たらない。
たゆまぬ変化を続けるその夜の世界において、星々は力強い鳴動を続け、奔星たちは何度も何度も光照らした。
そこは星に編まれ、夜に編まれた、星編みの世界であった。
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