星編のかたち
よるきたる
1-1 老人と少女
世界は穴だらけだ。
どこまでいっても不完全で、満ち足りない。
その無数の穴から、幾筋もの光が見える。幾億もの灯りに包まれたこの星編みの中で、ひとりの人間の小さなふたつの眼に収まる世界はあまりにも狭い。
だが上を見上げれば満天の星。たったふたつしかないその瞳で見つめてみれば、わたしの意識は、海砂利よりも数多いその星の扉へと繋がる。
その顔は数多の扉。数多の灯。
たとえあと何万年生きてもたどり着けぬその先に、何千世代語り継いでも近づけぬその天界の地平に、今この瞬間。大きく大地に寝転んで眼を見開くだけで繋がることができる。
揺れる大地と波立つ大海原に囲まれながら、その大鳴動の響きすら、この宇宙の回転には及ばない。星編は回り、巡り、呼吸する。大鯨の体内のようにゆっくりと。
そしてその遥かな静謐の中で。
光のさんざめく騒がしい静寂の中で。
星編〈ほしあみ〉の中で。
少女は夢を見る。
第一部 老人と少女
「天界を炎に包んだ大災禍は、世界中を覆い尽くし、すべてを焼き尽くした。
神々は自分たちの子を守り、希望を繋ぐため、籠〈シューマ〉を編んだ。
それは天界の最後の福音。真黒の籠。」
──『イーストリア叙事詩』
1
潮風と僧侶には逆らうな。
港の船乗りたちのよく口にする諺だ。
交易と通商の国であるイストラリアン海峡王国において、港と船は命綱だ。だから間違っても潮風に逆らって船や乗組員をだめにするなんていうことは許されない。
加えてここは、世界各地からやって来た多様な人々の行き交う人間交叉点。南北の大国はもちろんのこと、あらゆる人種、宗教、身分の人間が忙しなく交わりすれ違う。言語は乱雑に入り乱れ、市場では物々交換もまかり通る。そんな場所で下手に僧侶──つまり見知らぬ宗教の修験者にちょっかいを出せば、たちまち諍いになる。そうなってしまえばもう大変だ。船をだめにするよりもよっぽどタチが悪い。
だから、潮風と僧侶には逆らうな。
そう口にしながら、港の帆船の群れの中を船乗りたちはせっせと駆け回り、あらっぽく声を張り上げながら働く。船に運び込む貨物を担ぎ上げるその腕は真黒に日焼けし、汗できらきらと光っている。
イストラリアン海峡は熱帯だ。昼の雨が止んだこの時間帯はもわっとした熱風が港を包み込む。そのうえ刺激的な日差し。馴れない気候に体調を崩したらしい外国の貴人が、港の片隅で仰向けになって倒れていた。そばで召使いたちが必死に手拭ハンカチを振って顔のあたりを煽る。そんな光景には目もくれず、商人たちは駆け足気味に荷台を転がして市場へと新鮮な食糧を運ぶ。
ひとりの男が船から降り立った。
その肌はやはりしっかりと黒く焼けていたが、身なりはそこらの下働きの粗野でごわついた衣装とは正反対に、上下に金糸の刺繍が入った礼服をまとい鍔広の船員帽までかぶっている。さすがに暑苦しいようで首元を止める紐を緩めて、そこから汗に濡れた鎖骨が見えていた。
男は逞しく、そのせいでかれを見た者は隣にもうひとり小柄な人物がいることに気づかないかもしれない。男の連れもやはり礼服を着ていたが、どこか下っ端役人らしい卑屈さが感じられ、船乗りの中にあってはその印象がいっそう顕著に見受けられた。ふたりは港に待たせていた人力車に乗り込み、海岸通りを西北へと向かった。
ヤシが脇に道沿いに生い茂り、石造りの白い建物が並ぶ道を抜けていく。隣の通りから、市場の喧騒がわずかに漏れ聞こえる。逞しいたくましい男は懐から茶色い封筒を取り出してその手触りを確かめる。そして丁重にそれを仕舞い直した。
道はまっすぐに伸びて町の中心部へ伸びるに向かう。そして大陸調の煉瓦造りで建てられた議事堂を通過し、そしてて、今度は高台の方へと向かっていった。ちょうどイストラリアンの国土を南から北へ縦断するような進路だ。もっとも縦断とは云っても、車上で少しうとうとしているうちに着いてしまうような短い距離ではあるのだが。
次第に建物は減り、反対に今度は樹木が増えてくる。葉が広く幹の太い濃緑色の木々が視界周囲を覆っていく。
そんな景色が不意に開けて、そこには鳥が羽を広げたような、雄大な木造建築が現れる。
イストラリアン王家別邸。赤燕の離宮。
「──ティエンシャン帝国とエヌッラ協商連合との国境紛争はイストラリアン王家の仲介を経て王暦三◯七年に停戦合意に至ったものの……ちょっとポーラ、しっかりなさい」
離宮の一室。大きく窓が開け放され、庭の芝生を撫でた爽やかな風が吹き込むそのの開放的な部屋で、ポラロロアーナ・ル・イドロゲアは欠伸をこらえながら講義を聞いていた。食後のこの時間帯はどうにも身が入らない。ましてかくも陽光降り注ぐ日に室内で授業だなんて、集中できるはずがない。
「王家の人間がこの国の歴史を知らないなんて、お話になりませんよ。ポーラ様。将来のために必要なことです」
家庭教師のユーアは長い茶色の髪を几帳面に後ろで編んで、大陸式のドレスに身を包んだ才女だ。彼女の歴史の授業ときたらおそろしく退屈で、これに比べたら庭の蟻の巣を丸一日眺めているほうがよっぽど楽しいのだけれど、それでもユーアの授業は他の七人の家庭教師と比べていちばんマシな部類なのだった。
ポラロロアーナ・ル・イドロゲア。
その長過ぎる名前で呼ばれるのは式典で外国の大使と挨拶をするときくらい。家庭教師や使用人はポーラ、あるいはポーラ様と彼女を呼ぶ。お嬢様と呼ばれることもちらほら。父母は単に、ポーラと。姉のトーランだけはポロンと呼んでくれる。理由は「その方が可愛いから」らしい。どうだろう?
ポーラの一日は八人の家庭教師と十人の従者に彩られている。「将来のために必要なこと」というのがユーアたちの口癖で、歴史にしても書画にしても、あるいは話し方や身のこなし方にも、ここ赤燕の離宮にて朝から晩まで口煩い指導が行われる。授業はもう朝起きたときから始まっており、朝食の食べ方が汚ければそこからもう説教開始だ。特に気取り屋のアパラン先生が朝番の日に当たると、ポーラの最悪な寝覚めは約束されてしまう。
だがそんな生活も、王位継承順位三位のポラロロアーナ「内親王殿下」には当然のものだ。
母にあたるアカラッチアーナ・ル・イドロゲアはポーラが文句を云うたびにそんなふうに窘める。内親王というのはつまり国王陛下の弟がポーラの父であるということであって、云いかえればポーラは「やんごとなき」立場であるということだった。
「我がイストラリアン海峡王国は、半島の先端に位置し、北部大陸のティエンシャン帝国と南部島嶼群のエヌッラ協商連合に挟まれています。国土は小さく、帝国の小都市にも満たない規模の都市国家です。ですが同時に、『交通の要衝』でもあります。わかりますね?」
ユーアの問いかけに対しポーラは機械的に肯く。「要衝」というのがよくわからなかったが、だいたいはいつも耳にタコができるほど聞かされている話だ。
「ですから王家の方々には、両大国の間を取り持つという重要な使命が与えられているのです。先王陛下が停戦合意を成功させたように」
「……うん」
「ポーラ様!」
「え? いや、その……交通のなんとかがどうのって話だったわよね」
「まったく……」
ユーアは溜息をつく。ここで怒鳴りだしたりしないところが彼女の甘さだ。そしてもちろんポーラはユーアのそういうところに甘えている。
「ポーラ。あなたがなぜぼーっとしているのか、当ててみましょうか」
「どうぞ」
ポーラは挑むように上目遣いでユーアを見る。
「ひとつ目。今日は天気もよく、気温も高く、ちょうど良く眠気を誘う気候です。でもそれは夏場なんだからいつものこと。べつにいつもと同じです。問題はふたつ目」ユーアは指を立てた。「今晩はパラエの祭。あなた、お祭りに行きたいっていうんでしょう?」
「当然じゃない?」
ポーラは思わず席を立ち上がる。
「パラエの祭はこの国でいちばんのお祭りよ! 神秘教徒もシューミッシュも分け隔てなく夏至を祝う夜でしょう? 我国の誇るべき文化よ。ここは王家の人間として、一度見ておかなくてはならないと思うの」
「とかなんとか云って、去年だって行ったじゃありせんないですか」
「去年は兵隊を何人も連れて議事堂の屋上からみんなに手を降っただけじゃない! あれは公務で仕事だったけど、わたしはちゃんとみんなと一緒に海岸通りに行って、この目で出店やパレードを見たいのよ」
要するにお忍びで連れて行けというのだ。
イストラリアン王家の女性は、公務以外で他人に素顔をさらすことはできない。これは未婚女性の素顔を隠すという神秘教徒の教えを取り入れたものだ。王家自体はシューミッシュ──つまりシューマ神話を公式の歴史としているが、領内の神秘教徒たちを意識するかたちでかれらの教えをところどころ取り入れている。
この規程に決まりにより、ポーラは離宮の敷地から出ることをめったに許されない。素顔を隠しての外出も滅多に許されるものではなかった。お忍びなど、過去に数度あっただけだ。
「お忍びには良い思い出がないですし、あまり気が進みませんが……」
頭を抱えるユーアに、ポーラは追い打ちをかける。
「でもパラエの祭を学ぶことは民草の生活を学び、理解することでもあるのよ。それにユーアかバランが連れて行ってくれるのなら問題ないわ」
頭を抱えるユーアに、ポーラは追い打ちをかける。バランというのはポーラの護衛を任された衛士隊の青年だ。今も部屋の隅で座って、二人の様子を見守っている。
ポーラはユーアの弱点を知っている。やっぱりユーアは八人の家庭教師の中でいちばんわかりやすい性格だ。
「勉強のためよ。それともユーアは私の勉強を邪魔するっていうの?」
「そんなふうに云われると、困ってしまいます」
勉強のため。その言葉で押されると、ユーアは弱い。だがユーアは渋面を作りつつも、大人特有の理不尽さを利用してなんとかポーラの議論を押し返した。
「そうはいっても……だめなものはだめです」
ポーラがふたたび反論しようと口を開きかけたとき、誰かが扉を叩いた。バランが立ち上がって迎え入れる。そこに立っていたのは、先ほど港から降り立った背の高い頬髭の男だった。
「ケルロス!」
「お久しぶりです。ポーラ様」
ユーアが止める間もなく、ポーラは飛び上がって男のそばに駆け寄る。
「王家の人間は走っちゃいけない──そうじゃありませんでしたか、ポーラ様」
ケルロスと呼ばれた男は鷹揚な口調で云う。
「アパラン先生みたいなこと云わないで。それより持ってきてくれたんでしょう?」
「ええ、もちろん」
ケルロスは懐から例の封筒を取り出して見せる。ポーラの顔がぱあっと明るく変わった。
「おっと。これはあとでお渡しすることにしようかな」
「ええっ! どうして」
「だってこれを渡したら、ポーラ様はもう私の話なんか聞いてくれないでしょう?」
「先に見せてくれないとケルロスの話に集中することもできないわ」
「相変わらずこまった理屈屋ぶりだなぁ……」ケルロスは髭面を撫でる。「まぁ手っ取り早く説明しますと、私はちょっとした提案を云いつかってきたんです」
ケルロスは髭を撫でつつ、勿体ぶるような口調で云った。
「提案?」
「そう。ポーラ様は、ときに、パラエの祭に興味はおありですか?」
ポーラの瞳が大きく見開かれる。ユーアが後ろで悩ましげに目を伏せる。
「お忍びでパラエの祭に行ける。そんな用事があるとしたら……どうです?」
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