悪意の烙印

 *スティグマ

 ギリシャ語で、奴隷や犯罪者の身体に刻印された「しるし」を意味する。その後キリスト教文化においては、十字架上のキリストの身体の傷と同じ聖痕を意味した。

 現代におけるスティグマとはコロナ自粛警察からの烙印である。


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 それは伝播する。

 意思を持つように。

 実態は持たない。

 然れど、蔓延する。

 感染症のように。

 這い寄る。


 蛇のように。


 呪いのように。


 毒のように。


 人は知っている。

 それが何なのか。

 それは人が産み、人にしか扱えないものだから。


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 平穏な昼休みを破壊しつくした魔女--------柚木さんは最後まで剣呑さを隠さないまま、教室を出て行った。

 そこかしこで囁かれる声。

 普段と違った奇異な目。

 注がれる視線と声の先には、普段の凛とした佇まいは何処へやら、沙那が呆然と立ち尽くしていた


「沙那、大丈夫?」


 再度、声をかけながら沙那の肩をゆすった。


「あ、うん。ありがとう、早紀」


 無理矢理に貼り付けた笑みは少し、痛々しい。柚木さんが言ってた『裏切った幼馴染』を聞きたい気持ちはある。それは、今でなくていい。いずれ、話してくれるのを待つべきだ。少なくとも、弱っている友達にする事じゃないよね。

 普段、真っ先に来るはずの結衣も何故だか頭を抱えているし。坂本は酸素不足なのか、口をパクパクしてる。まあ、キャパオーバーだと思うけど、許容量低すぎ。いつもみたいに馬鹿騒ぎして空気を変えてくれれば見直すのに、ホント使えない。




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「遅いっ」


 開口一番に聞いた言葉がそれだった。

 昨日と同じように、中庭は陽だまりで出来ていた。コの字型のベンチに座り、リュックからパンを取り出す。


「何も無かったようにパンを食べ出すってどうなの?」


 彩花は端正な顔を八の字に寄せて、眼鏡の向こうの瞳は目角を立てている。


「来ただけでも感謝して貰いたいもんだけどな。まあ、遅れたのは事実だ、悪いな」


「最初からそう言えばいいんだよー。で、何で遅れたの?」


「ToLOVEるだ」


「字面が違うような」


「気の所為だ」


「まあ、いいか。来てくれて、ありがとう。待ちぼうけに終わるかな、と思ったよ」


 そう言って破顔した彩花は、他人が見れば目もあやなだろう。生憎と今の俺には無益なものだった。


「また、朝からストーカーされるのは勘弁だからな。それで、何か話があるんだろう?」


 教員用駐車場にバイクを停めている所を待ち伏せされた朝。昼休みに会おうと言われ、断る間もなく逃げられた。


「んーまあ、話っていうか……ちゃんと謝っておかないとなあって」


 謝る? 訝しげな顔をしていた俺に、萎縮するように、怯えるように、紡いだ彩花の言葉は震えていた。


「ボクがユーヤを選ばなかったこと」


 俺の知ってる彩花は何処までも真っ直ぐに、愚直と言っていいぐらいに夢だけを追いかけていた。それは亡き母の見た景色の再現。それは彼女の行動原理でもあり、譲れないものだったはずだ。


「ごめんなさい。今更、何をってユーヤは思うだろうけど」


「逆だ。謝んなよ。彩花の信念に基づいて行動したんだろ? 今、謝られたら俺は何の為に、あの日、彩花を---------」


 胸の腑に小さな炎。

 マッチの先に灯った、微風でかき消えるような頼りない炎だ。


 これは閾値だ。


 動揺などしない。過去に幾度となく灯り、消えた。焚べるべくものもない。後は燻るだけだろう。


「……そうだね。ユーヤの言う通りだ。ボクは何を言ってるんだろうね」


 この話はお終い。と、言いながら彩花は自身の頬を両手で叩いた。

 弱弱しいながらも安堵の表情を浮かべ、立ち上がる。


「好きになったのが、ユーヤで良かったよ。じゃあ次の話をするね」


「何故、そこに座る」


 彩花がスカートをたくしあげながら、俺にまたがる。制服を押し上げる、こぶりな膨らみが目睫の間にある。


「対面座位だね」


「デジャブを感じる」


「あの頃みたいに戻ろう? ユーヤと二人で、楽しかった頃に。あの時は出来なかったボクの身体を好きにしていいから。何でも受けいれてあげる」


 耳朶に吐息がかかる。噎せ返るような香水の匂いが、押し付けられる肢体の柔らかさと同調し、性衝動リビドーを誘う。

 通常ならば、とつけ加えておく。


「あれ?」


 眼鏡越しの瞳から落涙する。


「あれ? あれ? おかしいな」


 戸惑いながら泪を拭うが、決壊した涙腺は留まる事なく俺のシャツを濡らしていく。


 何でそんな顔をするんだ。俺はそんな顔をさせる為に、あの日見送った訳じゃない。

 手段は褒められたものじゃないのは確かだ。けど、何かを手に入れたいのなら代償はつきものだろう? 割り切れよ。手にした物があるなら、それが出来るはずだろう。


「モルダー、あなた、疲れているのよ」


「ふふっ……何なんそれ」


「笑ってろ」


 彩花の口角をぐいぐいと指で押し上げる。

 されるがままだ。


「少しは落ち着いたか」


「まあ……うん」


「じゃあ、俺は戻るから」


「え!? しないの?」


「こんな状況ではしない」


「ヘタレだなあ、DTは」


「泣いてる女とヤる加虐趣味はないし、DTでもない」


「は?」

「はああああーーーーー!?」


 晴れる事は余儀ないと、涕涙していた様相は、やおら掴みかかる勢いで色をなした。


「何処の誰とヤった!? あーもう、ボクが初めての女になる予定だったのにっ!」


「勝手に決めるな。まあ、彩花に出会う前の話だ」


 傍目にも分かり易く落胆する彩花に構うことなく、昼休み終了のベルが鳴った。俺は彩花の脇に手を入れ、力任せに持ち上げる。


「軽いな。ちゃんと食えよ」


「太らない体質なんだよね」


「そうかい。じゃあ、俺は戻るからな」


「また……会ってくれる? ちゃんと話したい事もあるから」


 あざとい上目遣い。俺以外なら効果はバツグンだって表示されるんだろう。


「話ぐらいなら聞く。が、あの頃には戻れないのは理解しとけよ」


 今度こそ、俺はきびすを返す。残された彩花の表情は窺い知れない。

 もう炎は消えた。


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 縦に長い部屋のやや中央よりに、一枚板のマホガニーのテーブルがある。特注だというテーブルは八人掛けだが、今は三人だけが座っている。上座には壮年の男性。身体つきは日頃から鍛えている事を窺わせ、容貌は柔和な雰囲気こそあれど鋭利な眦が、決して侮る事を許さない。

 上座から左には妙齢と思わせる程の艶美な婦人。対面に座る青年、つまり俺をにこやかに見ていた。


「それで、学校は上手くやっていけそうか?」


 食事が終わってから、当主である八坂 敏也-----父から問われる。穏やかな声色だった。


「上手くというのは分からないけど、問題はないと思う」


「ふむ。問題がないというのは裕也らしくもあるが、問題がない事は本来、有り得ない。それでも問題がないと言うなら、何が問題なのかを認識してないんじゃないかな」


「じゃあ問題と言えるかどうかだけど、柚木家と婚約を結んだ方がいいんだろうか」


 父と継母が、苦々しい表情を浮かべた。それも瞬きの間。


「裕也、柚木家と顔合わせの前にも言ったが、あれは先方に請われての事だ。決して、婚約云々の話ではない」


「向こうはそう思ってないみたいだけど」


「ふむ。何か言われたか?」


「まだ、俺を婚約者と思ってる口振りだったね」


 父は腕を組み、柔和な顔を曇らせながら宙に視線を彷徨わせた後に、ひとつ嘆息した。


「柚木家は資金繰りが上手くいかず焦っているからな。娘を通じて誼を図ってるんだろう」


「そんなに柚木家は落ち目なんだ」


「出資先が経営破綻し、古くからやってる事業も躓いてるようだね」


「老舗の和菓子屋だったよね」


 老舗には創業以来の立派な経営理念かあるが、方針や方策は時代の子供でなければならない。理念は普遍であるが、同じ変換方式を十年一日のごとく続けてはならないのだ。


 これは経営の神様と呼ばれた松下幸之助の言葉だ。

 老舗だろうが何だろうが、傾く時は一気に傾く。ニーズに合わないと淘汰されるのは自明の理だろう。


「なるほどね。要は八坂の財力が目当てな訳だ」


 釈然としなかったものが、すとんと腑に落ちた。

 あんな、終わり方を---------------拒絶の決別をしたはずの彼女の背後に居る者が、終を認めなかった。彼女の意思はそこになく、名士という柚木家の思惑が、傲慢さがあるに過ぎない。


「重ねて言うが、家同士の繋がりとか会社の利権を裕也に押し付ける気も求める気はないよ。家柄も気にしなくていい。裕也の選んだ相手に私達は文句は言わないよ」


 ただ、調べるけどね。と、父が口角を上げる。

 八坂の調査は対象を丸裸にする。そして、調べるだけで済むはずがない。瑕疵があれば、それ毎消すのだろう。八坂にはそれが出来る力がある。国内を越えて世界有数の企業だ。黒を白と認めさせる権力があるのだ。


「暗い話はそれぐらいにして、裕也さん、お願いがあるのだけど」


 対面に座る継母の薫子さんが父と俺の視線を受けて、ふわりと微笑む。


「何でしょう。俺に出来る事なら何でも聞きますよ」


「あら、嬉しいわ。とは言えど、そんな大した事じゃないんだけどね。レセプションパーティで披露するメンズラインのイメージ写真のモデルになって欲しいの」


「それは[yasa]のですよね? 俺でいいんですか? こういうのは身内じゃない方が良いんじゃないですか?」


「あら? オーディションやっても満場一致で裕也さんを選ぶけど?」


「それでいいんだ?」


[yasa]は薫子さんが代表を務めるエイト・フープのコーポレートブランドだ。はっきり言ってしまえば、それぐらいの我儘は通ってしまう。


「相方はインフルエンサーでもあるモデルの瑠花ちゃんよ。裕也さんの同級生でもあるわね。詳しい場所と時間は連絡するから、明日宜しくね」


 今回はイメージ撮りなので、ブランドアンバサダーとしてではないらしい。流石にブランドの顔はオーディションで選んでもらいたいのだ。まあ、薮をつつくと蛇が出そうだから、素知らぬ顔をしておく。



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 モノトーンで配色された八畳程の部屋。

 小さなローテーブルとカウチ、壁際に配置された大きなテレビとセミダブルベッド。

 部屋の主はカウチに寝転びながら、哄笑していた。

 テレビでは売り出し中のお笑い芸人のコントが映し出されている。

 コマーシャルに入ると漸く、瑠璃の瞳がこちらに向いた。アタシと似た顔で、その瞳で、気怠そうに口を開く。


「話って何だ?」


 部屋に入ってから数十分、テレビの為に待たされた挙句の言い草に腑が煮えるのを堪え、何とか言葉を紡ぐ。低い声になったのは仕方ない。


「裕也が帰って来たよ」


 時間停止の様な演出さながらに、たっぷりと間が空いて、噴流する色んな感情を暗渠の如し、返った言葉はシンプルなものだった。


「は?」


「裕也が帰って来たよ」


「……聞こえてるよ……いや、そうじゃなくてマヂかよ……」


 海衣は分かりやすく動揺していた。単純に思考停止してただけのようだった。

 アタシの冷めた視線を受けてか、自身の狼狽振りを恥じたのか、ひとつ咳払いをしてからリモコンを取りテレビを消した。

 効果は覿面だ。最初からそう言えば良かったな、と後の祭り。


「とりあえず話してくれ」


 同じクラスに転入してきた事。

 八坂性になってた事。

 沙那と三人で話した事。

 柚木先輩との事。

 昨日と今日とであった事を話した。

 ちょっと格好良くなってた事は言わない。

 ……あまり関係ない事だからね。


「八坂……柚木と婚約……[yasa]の関係者……」


「かなり良い所に引き取られたんじゃないかなって思うの」


「成り上がったもんだな」


 そう言いながら、海衣はテーブルのノートパソコンを起動し、何やら打ち込んでいた。

 暫く画面を凝視していたかと思うと「嘘だろ」と呟いた。顔色は青を通り越して白い。

 アタシは横からノートパソコンを奪う。


 八坂 yasa 企業 のワードからの検索結果は KASAYA という大企業の名前が表示された。

 最近でも父から聞いた名前。我が夏目工業の親会社。世界でも有数の大企業。余りに強大過ぎてルサンチマンすら持てない。


 生殺与奪。


 そんな言葉が浮かぶ。

 ぞわりと背筋が震えた。


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 三島由紀夫の著作『潮騒』にある一節。


 悪意は善意ほど遠路を行くことは出来ない。


 善意の行動は偽善よりも前に進む力がある、と説ける。そうかもしれない。かつてはそうだったのだろう。

 けれど、いまはどうだ? ゼロとイチの二進法の世界は容易く距離を越える。


 それは産まれた。

 猜忌から。嫉妬から。妬心から。

 それは嫉視する。

 嫌悪する。暗鬱に、陰鬱に。




 私立西条学園の生徒会が提供するネット掲示板に、不正アクセスによる書き込みが為された。



『柚木 美桜は身体を売っている淫乱ビッチ』

『相川 沙那は二股をかけている性悪女』


 SNSを通じ、たちまち拡散されて翌朝には当事者を除いて全校生徒の周知となる。



[レセプションパーティまで後、十九日]



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