第4話
ずっと置きっぱなしだった自転車が遂に役に立った。悟くんを後ろの荷台に乗せて、午後の激しい照り返しの中、僕はペダルを軽快に漕ぐ。
市民プールまではすぐだった。ゆっくりとブレーキを絞ると、掠れた音を出しながら自転車が止まる。悟くんを降ろして、駐輪場に自転車を停めると、彼は早速走り出していった。急いで後を追いかけ、入場料を払う。僕と彼の二人分で、300円。「これで一食分の資金が飛んだ」などという雑念は、どうにか振り払った。幼稚園生のポケットマネーから払わせるわけにはいかない。
備えあれば憂いなし、と実家から持ってきた水着が、日の目を浴びる時が来た。友人もいなければ、海に行くならこの身を海底へ沈めるのみ、と思っていた僕にとっては、意外であり、嬉しくもあった。
二人で準備運動をして、いざ、『流れるプール』に入る。平日ではあったものの、流石夏休みと言うべきであろうか。親子連れが大量に浮いている。初め、必死に泳いでいた悟くんは、気づけば僕の背中にしがみついていた。疲れたのかと訊いたが、彼はこれが楽しいのだという。お父さんのいない彼にとっては、珍しかったのだろう。それからもずっと、背中に乗っていた。少しでも、彼が僕をお父さんみたいに感じてくれたら……そう思った瞬間だった。僕の脳が常識を叩きつけてきたのだ。
『これって、犯罪なのでは?』
未成年者を親の同意なしに連れまわすと、誘拐と認められると、読んだことがある気がする。いや、あれは深夜帯だけだったよな……。
さっきまで温かく僕らを照らしていた陽光が、不意に冷たくなったような気がした。水面の煌めきが鈍くなり、監視員の視線が気になる。周囲の笑い声や、蝉の鳴き声、悟くんの声までもが遠くなっていった。そのうち、プールの底が柔らかくなって、僕の足を捕らえるように感じて……? その感触は、一瞬で過ぎ去った。いや、あれは気のせいじゃない。少し温かく、人肌のような……。
──明らかに、人間だ。
全ての音が耳に戻ってきた。むしろ、頭にガンガン響き始める。
「悟くん、鼻つまんで。潜る」
「え? うん……」
彼が息を止めたのを確認して直ぐに、僕は反対側を向いて潜った。
……三メートルほど先、プールの底に、小さな女の子が沈んでいた。僕は顔を水面から出すと、監視員に聞こえるよう、力いっぱい叫んだ。
「人が溺れてる!!」
その直後、僕は人波を押しのけながらその子の元へ向かった。悟くんに合図をしてから潜り、その子の腕を引っ張り上げる。どうにかプールサイドに引き上げると、監視員が引き継いでくれた。監視員が彼女の肩を叩き、呼びかける。頼む、無事であってくれ。一瞬の沈黙。すると、その子が咳き込み始め、目を開けると、泣き出した。ひとまず、良かった。息がある。彼女の顎あたりから血が出ていた。誰かの腕か足が当たって、気を失ったのだろう。それが幸いし、あまり水を飲まずに済んだのかもしれない。
緊張が一気に解けたからか、腕に力が入らず、なかなかプールサイドに上がれなかった。やっと上がって、頬にプールサイドの温もりを感じる。その時、背中から振動が伝わってきて、悟くんがまだしがみついていることに気づいた。
背中からどうにか引き剥がし、立たせる。何故か、震えていた。
「どうした? 寒いか?」
その直後、彼の表情が歪むと、大きな口を開けて泣き出した。
「うあああああああああああああ!」
僕が面食らっていると、彼はしゃくり上げながら何か言い出した。
「こわ……ごわがっだ」
鼻水や涙やらでぐちゃぐちゃになっている。
大人の僕でも怖かったのだ。彼は相当な恐怖を感じただろう。僕は膝をつき、目線を彼に合わせる。頭を撫でようと手を伸ばすと、悟くんは驚くようにびくりと震えた後、大人しくなった。そのまま撫でてやりながら語りかける。
「怖かったよな……。でも、あの子は助かったみたいだし、きっと大丈夫だ」
「そうかな……」
不安げな彼に、僕は親指を立てて笑ってみせた。
「ああ。さて、もうひと泳ぎするか?」
僕がそう言って手を悟くんの頭から離そうとした時、彼は僕の手を掴んで、頭に押しつけた。
「どうした?」
僕の手のせいで、彼の表情が見えない。やはり不安なのだろうか。そう思い、顔を覗き込むと、悟くんはなぜか頬を赤らめている。不思議そうにする僕に、彼は俯きながら言った。
「……もうすこしだけ、このまま……このまま、なでなでしてほしい」
「ん? ああ、いいよ」
僕は彼の頭をわしゃわしゃと撫でた。すこしくすぐったそうに彼が笑う。ここまで喜ぶなんて、今まで頭を撫でられたことが無かったのだのだろうか? まあ、理由が何であれ、彼が喜んでいるので良しとした。
その後、僕たちは何事も無かったかのように遊んだ。プールに入ったり、アイスを買ったり、日陰でウトウトしたり。彼はとても無邪気に笑った。そんな彼を見ていて、僕も、久しぶりに楽しく一日を過ごせたのであった。
◼️◼️◼️
日が傾き、ヘトヘトになるまで遊んだ頃。僕たちは帰るために、更衣室に行った。僕が持ってきたバスタオルを渡すと、彼は頭を拭き始める。だが、バスタオルが大きすぎるのか、上手く扱えていない。仕方なく、僕は彼の髪を拭いてやることにした。
「髪、拭くよ」
そう言って僕が手を近づけたとき、また彼は驚くように体を震わせた。目まで瞑っている。まるで、僕が叩こうとしているかのような反応をしたのだ。
「ごめん、怖かったか?」
僕がそう訊くと、彼は慌てたように答えた。
「い、いや、おにいちゃんはこわくないよ。ただ……」
「ただ?」
僕が促すと、彼は僕から目を逸らして言った。
「ただ、びっくりしただけで……いつも、てがくるときは、いたいから」
痛い……? 考え込む僕に、彼は急いで付け加えた。
「あ、でも、おにいちゃんのてはちがうよ。なでなでしてもらうの、すき」
そう言いながら、彼は笑う。何故かはわからないが、これ以上深く聞いてはいけない気がした。
だが、彼がラッシュガードを脱いだとき、僕は、事がどうやら重大であることに気づいた。なぜなら、彼の胴体、特に腹部に、多くの痣があったからだ。
普通、子供の痣は脛や腕など、胴体から離れた硬い部分にできる。そのような痣は、大抵、転んだ時やぶつけた時にできるものだ。しかし、太ももや腹など柔らかい部分には、あまり痣ができない。そこに痣や打撲痕がある場合は、強く殴られた可能性を疑った方がいいのだ。
僕も、伊達に司法試験の勉強をするふりをしていたわけではない。まだ、弁護士を目指していた頃、教科書で読んだ。特に、法医学の分野には興味があったため、そこだけははっきりと覚えているのだ。
プールで遊んでいた間は片時も目を離していないため、今日、誰かに殴られた可能性は無い。それに、痣の色は黄色である。つまり、痣ができてから、日数が経過しているということ。さらに、さっきの、頭を撫でようとしたときの怯えるような反応……。僕は、悟くんに訊いてみた。
「この痣、どうしたの?」
すると彼は、なんでもない、と言うと、急いで着替えのシャツを着てしまった。
「誰かに叩かれたのか?」
だが、彼の答えは変わらない。
「なんでもないよ。だいじょうぶだから」
そう言って彼はにこりと笑った。だが、それは昼間見た彼の笑顔とは程遠い、貼り付けたような笑顔だった。
結局、それから聞き出すことは叶わず、帰路では、僕たちはお互いに黙りこくったままだった。
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